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2011年2月25日 (金)

朝日新聞「つながりが導く祝祭型革命」を巡って

 2月24日朝日新聞朝刊の論壇時評に東 浩紀氏が「つながりが導く祝祭型革命」という意見を発表している。

 ツイッターやフェースブックなどを媒介に異例の広がりを見せた中東の反政府デモに関してあまりまともに論じる記事がない中でいくつかの意見を拾ってそれに関する彼の見解を述べている。

 その中で東は、クレイ・シャーキーが、抑圧的な国家の市民にとって本当に必要なのは、自由主義的な外国の情報源にアクセスできるかどうかではなく、むしろたがいに意見交換できるかどうかなのだ、と主張していることや、酒井啓子がエジプト革命の本質は「祭り」であり、今回の政変にイデオロギーの対立がなく、主導者にも権力奪取欲望がなく、人々は「楽しく」政府を転覆したものの、「祭りが終わったら家に帰る」だけのように思われる、と言っていることに共感を表明している。そして東は、公文俊平が、自由を求める人々の動きが国民国家の独立「戦争」から市民階級の「蜂起」へ、そしてネットユーザーの「祝祭」へと移り変わっているのではないか、と述べていることを挙げ、「今回の事件は、従来の常識からすればいかにも不安定でゆるやかな、しかしその分国境には捕らわれない、大衆のコミュニケーションから創発する「祝祭革命」の嚆矢として歴史に刻まれることになるだろう」と述べている。

 なんという失礼な意見であろうか! 現に革命を起こしている人々の立場から見れば、「楽しく」「祝祭」などというわれわれの感覚とはほど遠い実存の中に置かれているのだ。日々の生活で常に圧迫と恐怖と差別の重石の中で何十年も生きてきた人々が、その抑えつけられた怒りと憤懣の鬱積されたエネルギーを共有する人々とともに、何かささいなことをきっかけに、このような大きな革命を動かす力になっているのだ。そこには、そうした抑圧の実感を共有する人々が無数にいたからこそ、思いもかけなかったそこからの解放に「祝祭」的雰囲気を生み出したのであって、われわれのような、革命を第三者としてさめた目で、しかも「安全地帯」から眺めおろしている者たちの視点とはおよそ異なるものであろう。ましていまリビアでの過酷な戦いを戦っている人々にとって、それは「祝祭」などではありえない。

 従来の革命をイデオロギーとイデオロギーの対立として、捉える視点も同様だ。革命の当事者にとっては、抑圧者である支配階級からの解放の力を与えてくれるイデオロギーが「正しいイデオロギー」なのであって、イデオロギーAとイデオロギーBが対立している、と第三者的な視点で冷ややかに見る視点ではありえない。

 革命は何かささいなことをきっかけに起きてくるように見えるが、そこに至るまでの何十年、いや何百年もの間、抑圧と被支配の重石に耐え忍んできた人々の怒りと怨念が膨大なエネルギーとなって蓄積されていることを忘れてはならない。その人たちにとってインターネットが大きな力になり得たというのは、もっと深い意味での歴史を感じさせる。

 つまり搾取され圧迫され、差別されて生きてきた人々の様々な種類の莫大な過去の労働が、そのような社会の産物として生み出した実体であるコンピュータやインターネットが、いまや彼らにとって大きな力になっているのだ。

 いま革命を戦っている人々にとって、必要なのはこれらを駆使して、まず支配者・抑圧者からの解放を勝ち取ることであろう。そのあとで訪れる「祝祭」的雰囲気は、「終わったら家に帰っておしまい」といったものでは決してありえない。そこからまた新たなそして別の困難をともなう戦いが始まるのだから。

 われわれはそれらの戦いを「高み」から見下ろすようなことはできないし、いまこそ、その見せかけの「高み」をこそ問うべきなのではなかろうか?

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