日記・コラム・つぶやき

2019年2月 8日 (金)

ビジネス書になってしまった?資本論

 今日久しぶりで近所の書店に行ったところ、文庫本の書棚に「超訳 資本論」という本を見つけた。私は以前、的場昭宏さんの同名の本を読んだことがあるので、その再編集版かと思い、手にとってみると、著者は許成準という人で、経歴をみるとあの韓国の超エリート校KAISTを出て、ビジネス・コンサルのような仕事をしている人らしい。他にもいくつもビジネス書を出しており、その筋では知られた人の様である。
 そしてまず驚いたのは表紙の帯に、「ビジネスマンが一度は読みたい必読の書」というキャッチフレーズが書いてあるのだ! どうも資本論を捉える立場が私とは180度違うようなので、ちょっと買う気になれず、本屋の店頭でざっと目を通しただけなのだが、その中でこう言っているのが目に入った。「この社会を資本主義社会だという人は多いが、そこで自分を共産主義者だという人はいても、資本主義者だという人はほとんどいない」。そしてさらに、世の中全体が資本主義社会である以上、それはわれわれを魚とすれば海の水の様な存在であり、資本主義のメカニズムをよく知ることで、その水の中をうまく泳いで行ければよい、というような趣旨であるらしい。要するに資本主義社会を生きぬくためのビジネスマンの参考書として資本論をとらえている。
 困ったもんだ。これではマルクスがあまりにも可哀想である。
 私はこのとき、チラっと思ったのは、もしかするとあの「社会主義市場経済」を名乗る中国の共産党指導部のお偉方も、もしかするとマルクスをこのような捉え方で見ているのではないか?ということだ。いまの中国はどこから見てもカリスマ的共産党経営陣の支配による「国営資本主義社会」にしか見えない。
 マルクスがその生涯を掛けて資本論の中で言いたかったことは、要するに、資本という形で自分たちの労働の成果が日々自分たち自身を支配するような経済的メカニズムの中で仕事を続けなければならない労働者たちと、その資本の人格化された存在である資本家があたかも社会のために雇用を生みだしたやっていると言わんばかりの態度で労働者の能力をオカネで買い取り、その労働を自分の資本増殖の目的で用いながら社会的に必要なモノをそのための手段として日々生みだしている社会。その中で労働者は「賃金奴隷」として資本の増殖のために働き、そこで受け取った賃金によって、資本家に利益をもたらすために日々自分たちの生みだした生活消費財を資本家から買い戻して生活しなければならない社会。これが資本主義社会なのであって、この「賃労働と資本」という形で現れる資本主義的人間疎外からの解放こそが絶対に必要であるということだった。
 その資本主義社会では資本は一人の「資本家」に人格化されるのではなく、株主、投資家、そしてそこから得た資金を所有する企業、そしてその資本を増やすための増殖機関として機能する企業の経営者、その下でその手足となって働くビジネスマン、資本家企業のつくる商品を売買する企業の経営者、さらに資本の回転を合理的に推進するための金融機関、などなど要するに労働者を雇用してその労働の結果を資本の増殖のために直接的・間接的に吸い上げる組織とその運営を仕切る人々の集団が「資本家階級」なのである。そしてその個々の資本家企業の利己的欲求を資本主義社会全体として調整しスムースに運営していくために資本主義国家の政府機関が存在する。こうした人々が資本主義社会の支配階級なのである。
 彼らは自分たちを「資本主義者」などとは決して思っていない。なぜなら、資本主義社会こそが社会の進歩によって出来上がった普遍的社会の形であると信じており、そういう社会を「あたりまえ」の存在として肯定するならば敢えて「資本主義者」などと言う必要がないからだ。
 こうした「あたりまえ」観こそが、実は支配的階級のイデオロギーなのであり、この本の著者のいう「水の中」なのである。
 私を含めて資本論を真摯に受け止めマルクスの意図を正しく理解しようとする人たちは、いままたこうした新手の支配的イデオロギーとも対決しなければならなくなったのだ。

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2019年1月17日 (木)

不毛なディベートは何のため誰のため?

 昨年末から今年の初めにかけて、私の年上の兄姉がいずれも陳知症的な症状に陥り、その関係でブログを書く時間も精神的余裕もがなかった。いずれ高齢化とともに、私もだんだんに「ボケ」が進み、あたりまえの物事の判断が難しくなるのだろうと思うと暗澹たる気持ちだ。
 ところで最近気になるのは、世の中がどんどん悪い方向に進みつつあるということだ。アメリカではトランプが国境の壁建設に強引な予算を求め、これを下院で拒否されたため、予算案が議会を通過せず政府機関の一部が閉鎖となってしまった。そこで働く職員たちは給料が出なくなり、しかも失業手当も出ないので毎日の生活にも困っているという。
 その一方でトランプが対中国貿易で大赤字を出しているアメリカの財政を護るためと称して大幅な関税引き上げを中国に対して宣言したため、「米中貿易戦争」が始まった。また中国ではハイテク技術のアメリカからの盗用や一般のネットによる国内外でのスパイ活動を浸透させているというアメリカからの非難を受け、中国のハイテク企業の経営者が逮捕されるなどの事件が続いている。
 さらにフランスではマクロンの政策に反対した労働者や中小業者農民などの怒りを集約した「黄色いベスト運動」が全土に拡がり、毎週のように大規模なデモや警官隊との衝突が起きている。
 そしてイギリスでは国民投票の結果を踏まえたEUからの離脱をめぐって、メイ首相のEUとの合意案が議会で否決され、「合意なき離脱」という最悪の事態に向かいつつある。
 そしてお隣の韓国では旧日本統治時代の徴用工の保証の問題で日本企業への差し押さえが司法で合法と認定され、その上日本の海上自衛隊と韓国海軍との間で自衛隊機への着弾誘導レーザー照射の問題で完全に対立している。北朝鮮との「仲良し」関係を強調するために「共通の敵」であるに日本をやり玉に挙げているのだろうか?
 さらにプーチンとの「仲良し」ぶりを自慢していた安部首相にラブロフ外相から、「北方領土」という言い方はやめるべきであって、あの戦争でロシア領になった土地に日本が主権を主張すること自体が間違っていると言い出した。
 どこでも互いに話はかみ合っていない。そして世界中でともにグローバル資本の支配に振り回されているわれわれとその次世代の子供たちの人生はいったいどうなるのだろう?
 こうした問題を見るに付け、対立する意見を議論によって解決を見いだすことがいかに困難であるかが分かる。1930年代にも似た状況があったようだが、そのときも結局「話し合いによる問題解決」は空論に終わり、戦争に突入した。
 最近は教育面でも、対立する意見をいかに合意に導くかという技術を授業で訓練するエリート学校も多くなっているようだが、こうした訓練によるディベートはではビジネスの世界ならまだしも、難しい国際問題を解決に至らせることができるようになるのか、私は疑問に思っている。
 かつて私も関わっていたことのある学生運動の中でも、対立するセクト同士が相手の主張を誹謗中傷し合う場面は数多く見てきている。そのようなディベートは単に技術の問題ではなく、もっと深い思想的対立が背後にあるので相手の思想を自分たちの思想によって「乗り越える」ことなどそう簡単にできるものではない。
 それはある場合には一つの党派の内部における意見対立にも言えることであって、その組織が何か問題を抱えている場合にそれがどのような問題であり、どうそれを克服するべきなのかを対立意見を持つ両者が真剣にぶっつけ合うことはまず必要であることは言うまでもない。
 しかし例えば、かつての学生運動では、相手のセクトに「レッテル貼り」をすることが多かった。「○○派のプチブルども!」とか、「俗流マルキスト!」とか、「あいつはスターリにストだ!」とかである。こうしたやり合いは「ディベート」とはとても言えないレベルであって、初めから相手の主張を排除している。それが本当に議論の対象になっている問題を解決に向けて前進させるとは到底思えない。単なるののしり合い以上の何物でもない。だからあるときには暴力沙汰になり、時には殺人にまで至ってしまう。
 また最近の様なネット社会になると、匿名性をいいことに、目立ちたいが故にいい加減なことを言ったり、過激な言葉で相手を傷つけたり、すぐに炎上したりする。そこからは何も生まれてこないし問題も解決されない。
 その点、いつも私は感服するのがマルクスによる議論の展開である。彼は若い頃ヘーゲルの哲学から多くを学んだが、後に当時社会主義を標榜していたプルードンの「貧困の哲学」に対して、「哲学の貧困」という痛烈な批判書を出しながら、ヘーゲル左派や青年ヘーゲル派の若者たちが「ヘーゲルは犬だ!」と言い捨て、自分たちはヘーゲルのような過去の遺物はとっくに乗り越えたと思っていたときに、「自分はヘーゲルの弟子であることを認める」と宣言したのである。
 そしてフォイエルバッハへの批判などを通してヘーゲル哲学の矛盾をそうした思想の物質的土台である社会の経済的基盤の矛盾として捉え、経済学の批判へと向かったのだ。
 マルクスは資本論などでの手厳しい批判のもとでも時に批判相手の主張の正当だと思われる部分はキチンと汲み上げている。彼はこうした批判による理論展開を通じてほんとの意味でヘーゲル哲学を乗り越えた新たな地平を切り拓いたのである。これこそ本来の意味での「批判」なのだと思う。
 まずは相手の思想や主張をあるがままに受け止め理解すること、その上で、その主張の何が間違っているのかを明らかにすること、そしてそれを克服するためには何が必要であるかを提示すること、これは相手にとっても自分にとってもいえることである。
 しかしいまの国際政治を担っている政治家たちはどれも党利党略的主張を繰り返し、自分の「国益」や「党」のための他国の人々を犠牲にし、人類共通の財産である地球を破壊しつつある。このままでは世界を危機に陥れるしかない。
 そしてこうした世界を本来の意味で批判的に分析し、あらたな世界を実践的に切り開いていこうとする識者や研究者もいない。マルクスが資本論を未完のまま残して逝ってしまった後の資本主義経済システムの変貌や波及について研究する学者たちもいるが、結局のところ、いまの社会でそれなりの「学者」としてのポジションを得てぬくぬくと生きることが目的であるかのように見える。またマルクスの研究成果を発展させる思想のもとに世界を変えていこうとする国際的組織的も運動もまだほとんどない。ただあるのは、世界を支配する「グローバル資本」とそのもとで日々厳しく希望のない日々を送っている数十億の人々の不満や抗議が世界中で渦巻いているという事実だけだ。

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2018年11月21日 (水)

C. ゴーン氏に関する続報

 前回の続報。

今朝のフランス・ドゥーのカルロス・ゴーン氏の一件に関するニュースでは、日本のマスコミとは違った内容での報道があった。

 周知の通りゴーン氏はルノーの会長でもあるが、かつて日産自動車が破綻に危機に立たされたときに社長として招かれ、その辣腕指導力によって日産が再生し、いまやルノーよりも多い収益を上げているそうだ。そしていまやゴーンのカリスマ的独裁性とルノーの影響をはねのけたいという日産経営陣の意図があって、かねてからゴーン氏の内部告発を画策していたというのである。そしてルノーはゴーン氏の会長留任を決めたそうだ。
 このニュースでは出てこなかったがルノーはフランス政府も株主になっている、いわば半官半民的企業であっていうなれば国策企業である。だからマクロン大統領の意向も反映されているのではないだろうか?
 カリスマ経営者の巨額の金融商品取引法違反行為を取り上げるか、ルノーと日産の資本家企業的確執を取り上げるかのマスコミの扱い方の違いでしかないかもしれないが、そこにどうもグローバル企業への国家的バックアップ体制が見え隠れしているような気がしてならない。
 

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2018年11月20日 (火)

この数日の出来事をめぐって(UNHCRとゴーン)

 昨日私のもとに国連UNHCR協会からシリア難民の悲惨な現状と子供達の冬に向かっての防寒具の不足などを訴える文書と共に寄付依頼の文書が届いた。そしてこの封筒の中に毛布でつくったバッグが入っていた。
 私は、これを受け取って、考えた。この毛布のバッグを作るためにどれだけ安い労働力が使用されたのか?そしてこれをおそらく莫大な量のダイレクトメールで発送するのにどれだけ莫大な費用がかかったのかを思った。そして以下のような文書をしたためこの毛布のバッグをUNHCRに返納した。
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国連UNHCR協会 御中
 このたびシリア難民の子供達の防寒への備えの厳しさを伝えた文書とともに、同封の毛布のバッグが貴協会から送られてきました。私は以下のような思いから、この毛布のバッグをそのまま貴協会に返納致します。
 国連として救済のための基金不足から寄付を募るのはよく分かります。またシリアの難民、特に子供達の悲惨な状況がニュースなどで伝えられるたびに胸を痛める思いです。この状況に対して世界の富裕な国々が積極的に救済に乗り出さないことはまったく憂慮すべき事態だと思います。
 しかし、それにも拘わらず、企業の宣伝ならいざ知らず、国連の団体がこうしたものをおそらくは驚くほど多くの人々にダイレクトメールとして送りつけ、寄付を要求することは国連の精神に反するのではないでしょうか?
 この毛布は本来、寒さに震えるシリア難民の子供達の防寒具として用いられるべきものでしょう。そしてこれにかかった経費も多額なものであったでしょう。それは直接シリア難民の子供達のために費やされるべき費用であるべきでしょう。決して寄付集めの手段や費用として用いられるべきものではありません。したがって私はこれを返納致します。
 また寄付集めに関しても本来、寄付金は寄付者の好意に基づき募集されるものであって、募集者によって寄付額の枠を決められるべきではありません。
 したがって私は、クレジットによる寄付募集には応じません。しかし、シリア難民の子供達への私の思いが最大限伝えられるように私の乏しい収入に相応しい寄付額(寄付金はゆうちょ銀行の貴口座に1,000円振り込みました。
)で寄付させていただきました。
悪しからずご了承ください。
以上
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 一方で、いま日産のカルロス・ゴーン会長が長期に渡って自分の報酬額を偽り、 有価証券に50億円という巨額の「過小記載」を行っていたという事実がトップニュースで報じられている。国際ニュースではフランス・ドゥーがルノー会長でもあるゴーン氏の金融商品取引法違反行為をやはりトップニュースで伝えていた。
 この二つの出来事は一見無関係のようであるが、実は深いところで繋がっているように思える。
 それはゴーン率いる日産・ルノー連合のようなグローバル資本企業のカリスマ的経営者がおそらくは私的な財産として獲得する収入額は、一方でシリアなどで貧困や飢餓に苦しむ多くの人々のために用いれば多くの幼い人命をも救える金額であろうということ。もっといえばその巨額の不正収入額をもってすればこうした貧困にあえぐ人々が生きるための資金が出来たであろう金額がただでさえ報酬が多すぎると批判されているこのカリスマ経営者の個人的なオカネとして不法に使われていたということである。
 さらに重大な事実は、こうしたカリスマ経営者が自分の強力なリーダーシップゆえにその企業が利益を上げているとして、そこに雇用されている従業員たちもそれによって生活が潤っているという考え方の虚偽性である。
  実はこの企業が上げている莫大な利益のもととなった価値は自社の従業員を含めて世界中の関連企業や下請け企業で働く膨大な数の労働者の生みだしたものであって、決してカリスマ経営者が生みだしたものではない。彼が行っている「頭脳労働」はこうして世界中に散らばっている膨大な数の労働者たちが生みだす価値をどう資本として吸い上げ資本の拡大のために運用するかという、資本としての頭脳戦略なのであってこれは正確には決して生産的労働の一部ではありえない。 それどころか多数の労働者たちが生みだした生産的労働の成果を一握りの富裕層に集中させるための「たくらみ」なのである。それを企業の「リーダーシップ」と称しているのだ。
 このような不正な方法で一個人に集中させられた絶対的多数の労働者の生みだした成果が、その仲間であり、グローバル資本間のばかげた競争と醜い軍事的権力争いのなかで難民や貧困層に落とし込められた人々の救済のために用いられることがないという事実を知ってか知らずか、国連UNHCRは上記の様な寄付活動を「人道上の問題解決のため」に行っているというのである。
 やはりどこかがおかしい! そう思いませんか?

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2018年10月14日 (日)

Mizzさんからのコメントにお応えして

 久しぶりにMizzさんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

  そこで資本主義社会の現状とそこでのAIの位置について私が日頃考えていることを次回から少しキチンと書いてみようかと思います。

 

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2018年9月25日 (火)

10万アクセスを超えました。

 このブログを2007年に初めて、やっと10万アクセスを超えました。しかし特定のページにアクセスが集中しているので、もうすこし他のページも読んで頂けることを期待したいです。

 以前NHK-TVで放映していた中国深圳の三和人材市場のドキュメンタリーについて感想を書いたところ多くのアクセスがありました。多分ツイッターかなにかで取り上げられたのでしょうね。そのときは中国からのアクセスも少ないながらありました。
 しかし昨夜このドキュメンタリーが再放映されて再び多くのアクセスがありましたが、今回は中国からのアクセスはありませんでした。中国政府当局がアクセス規制をかけているのでしょうか?
  いまアメリカと貿易戦争で覇権を競っている世界第2位の経済大国で、その底辺で希望を失い「オレたちはもうその日暮らしの三和ゴッドから抜けられないね。絶望的だよ」と自嘲的に言い放つ若者たちは何をどこに訴えていいのか分からないのでしょう。「好景気」といわれる日本でも「格差」の拡がるいま、他人事ではありません。おそらくアメリカでも底辺では似たような状態でしょう。
 それにしても当初はこのブログへの意見や反論があると考えていたのですが、あまり反応がなく、ブログというものは一方通行なのだということが分かりました。意見交換をのぞむならばどこかにそのためのサイトを立ち上げねばならないのかもしれませんが、このトシになるとなかなか新しいことを覚えるのが大変で未だそこまで行きません。
 とりあえず何か意見がありましたら「コメント」にでも書き込んで頂ければ幸いです。

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2018年9月 2日 (日)

「ナバホ」の世界 再録

 高齢社会が進む中で最近マスコミなどでよく「よい死に方」や「終活」についてが屡々取り上げられる。そこで、7年以上も前にNHK BS-TVのある番組で放映されこのブログでも取り上げた「ナバホ」の世界の話を再録しよう。

 子宮がんが再発し、摘出手術を受けたもののいつ再発するか分からないという状況で生きる女優のHさんが、アメリカ先住民ナバホの居留地を訪問したときの記録である。

 なぜHさんがナバホの居留地を訪れようとしたのかその理由は見落としたが、Hさんは彼らの一人をガイド役としてその家族との夕食に参加した。ナバホの人々は広大な荒野の一角で羊を飼い、トウモロコシを栽培して実に質素な生活している。

 Hさんがまず彼らに投げかけたのは、「幸せとは何か?」という問いであった。ナバホの若い人々は、結婚して家族を持つこと、羊や牛を飼えること、などと答えていたが、少し年配の人たちは、美しく生きることだと答えていた。夜明けに祈りに出るときその夜明けは美しい、夕暮れもまた美しい、と彼らの中の一人の男が言った。この美しく生きるろいう言葉の意味が、最初あまりピント来なかったが、やがてそれが彼らが語り継いでいる一つの詩でだんだん分かってきた。そのナバホ語の詩はこういうものだ。

 私は晴れやかに美の中を歩む

  私の前にある美の中を歩む

 私の上にある美の中を歩む

 私の側面にある美の中を歩む

 そしてその歩みは美の中で終わる

 つまりわれわれはつねにどこにいても「美」に囲まれてているのだ。その中で生きているということこそ幸せなのだ、ということである。

 結婚を間近に控えているという一人の若い娘は、寂しくなるとときどき先祖に会いに行くという。Hさんは彼女と一緒にそこに行った。そこにはときどき動物の姿になった先祖たちがやってきて娘に語りかけるという。あるとき二羽のイヌワシが彼女の頭上を輪を描いて飛んだ。彼女はすぐにそれが祖父と祖母であることが分かった。彼女は自分が寂しいことを告げると二羽のイヌワシは彼女の心に「いつもおまえと一緒に居るのだから寂しがることはない」と語りかけてくれたというのである。 Hさんは彼女の話を聞きながら涙を抑えることができなかった。

 Hさんは、次に荒野のまっただ中の古い小屋でたった一人で生活するナバホの老人を訪ねた。老人は英語がうまくないこともあってか、無口でいつも笑わない。ガイド役の男が介添えをした。Hさんは老人がなぜこんな荒野の真ん中に一人で暮らしているのかを尋ねた。

すると彼は「私はここで生まれた、そしてここが私の住む場所だからだ」と答えた。疑問の余地のないほどシンプルで明快な答えである。

 そして最後に、Hさんは、この老人が「死」についてどう考えているかを問うた。それはいつも「死」を意識しているHさんにとってもっとも重い問いであったと思う。老人は介添えの男を通じて次のように答えた。

 われわれナバホは「死」については語らない。そんなことは考えない。それは考えてはいけないことなのだ。われわれはいつも美の中に生きている。それだけで充分ではないか?

 Hさんは「あ〜、そうなんだ。まったくその通り。もうグーの音も出ない」としばし感慨に浸っていた。

 最後にガイド役の男は、粗末な片張り太鼓を持ってきて、それを叩きながら上の詩をナバホ語で唄い始めた。哀調をもったアイヌの叙事詩の唄に似ている旋律だった。しかし、それは英語では表現できない力強い意味を持った言葉だと彼は言っていた。

 1万年も前にわれわれと同じアジアの一角に住んでいた彼らの先祖たちはベーリング海峡を渡って、アメリカの地に移り住んだのである。そしていまヨーロッパやアフリカなどから来た異邦人たちに先祖から受け継いだこの地を支配され、彼らの「消費文明」を押しつけられようとしている。

 しかし、彼らが護り続けている、「美」はそんなものよりもずっとシンプルで力強い「生」の世界を持っており、それがこの汚れきった文明社会に生きるわれわれの心を洗ってくれるのだ。

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2018年7月23日 (月)

閑話休題(お笑いで暑気払い)

 このところ歳のせいもあってか、健康診断でいろいろな異常が発見され、検査漬けになっていたので、なかなかこのブログも書けなかった。検査の結果は「無罪放免」にはならなかったが、半年ごとに精密検査が必要ということで、取りあえずあと半年は自由に暮らせそうである。

 さてこのところの暑さで頭脳の回転がストップしてしまったので、例によって落語もどきのジョークでごまかすことにした。悪しからず。
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*その1 ある日のホワイトハウスにて:
執務室補佐官:「大統領閣下、いま中国の習近平主席からメールが入り、アメリカが中国のハイテク製品の輸入に高関税を掛けるなら、中国はアメリカからの航空機の輸入を制限することにするそうです。」
大統領:「うむ、それで?」
執務室補佐官:「アメリカの基幹産業である航空機製造会社では、ただでさえ中国製のハイテク部品が高関税で高くなって製造コストが上がるのに、中国が輸入制限を実施すれば、飛行機が売れなくって収益が著しく悪化します。」
大統領:「君はバカだね、アメリカで飛行機のハイテク部品を作ればいいじゃないか、そうすれば技術漏洩も心配しなくてよいし、国内ハイテク産業の雇用も増えるじゃないか。それで飛行機は中国以外の国々にドンドン売り込めばいい。」
執務室補佐官:「はい閣下、しかしわが国でハイテク部品を作ればおそろしく高いものになりますし国際市場でも高い航空機は買い手がつきません。」
大統領:「じゃ、わが国の航空機メーカーが中国で飛行機を作らせればいいではないか。ハイテク部品も中国内で安く買えるし、安くて優秀な労働力も買える。我が国の誇るアップル社もそうしているじゃないか!」
執務室補佐官:「。。。。。。。。。。」
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*その2 日本のある大企業社長室にて:
社長室秘書「社長、わが社の製品検査部門の検査で手抜きがあったということがデカデカと今日の新聞に載っていますが!」
社長「そうか、それならまずはそんな事実はないとマスコミには突っ張っておいて、これからはJIS認定審査機関のトップに毎月付け届けをしないといけないな。」
社長室秘書:「社長、そんなことで手抜きを見逃してくれるでしょうか?」
社長:「そりゃ見逃してくれるさ、あの審査機関のトップの息子は、我が社の入社試験に落第点を取ったにも関わらず、私の一言で入社できたんだからな!」
社長室秘書:「さすが世界に冠たる品質を誇るわが社の社長ですな!」
以上はすべてフィクションです。

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2018年6月25日 (月)

「万引き家族」の是枝監督に拍手!

 カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「万引き家族」の監督、是枝裕和氏が、今日の朝日新聞朝刊「文化・文芸」欄で記者のインタービューに応じた記事が載っている。

 「万引き家族」が文化庁の補助金をもらって作られたにもかかわらず、日本の恥部を描いているとか、この受賞に対して文科省からの祝意を受けることを「公権力とは距離を保ちたい」という理由で断ったことに対して、SNSなどでバッシングを受けていることへの彼の回答である。
 是枝は「炎上商法じゃないよ」とことわった上で、「芸術への助成を国の施しと考える風潮は映画に限ったことじゃない。大学の科研費もそうだし、生活保護世帯への攻撃も同じです。本来、大衆、国民の権利のはずですよね。」と語っているのは、その通りだと思う。
  かつて大学教員として在職した独立法人化された大学で政府予算が削減され「競争的資金による研究補助」が推進されたため、研究者はこぞって科研費の獲得に走った。そこではできるだけ文科省の「受け」が良い内容の研究が目指され、同じような内容の研究テーマ間での資金獲得競争が起きた。結果的には、政府御用達の研究はリッチな資金を獲得し、そうでない研究は疲弊した。さらに最近では防衛省御用達の研究補助獲得競争が行われている。これは長い目で見て科学研究に良い結果をもたらすとは到底思えない。
 是枝は映画芸術の世界でこうした世の中の風潮に挑戦しているんだと思う。さらに「この映画が犯罪を擁護している」というバッシングがあるようだが、これに対して是枝は「「罪の意識が芽生えた男の子の哀しみをきちんと繊細に追っている。そこがこの映画の軸なんだけどね。これはよく観てもらえば分かる」と言っている。そして「補助金をもらって政府を批判するのはまっとうな態度なんだ、という欧州的な価値観を日本にも定着させたい。公金を入れると公権力に従わなければならない、ということになったら、文化は死にますよ。」と言う。まったくその通りだと思う。死ぬのは文化だけではなく科学もだ。
 いまの風潮は既得権をもった行政・官僚の「慇懃な上から目線」に対して民衆は従順に従うのが一番無難と言う風になっている。これは長い目で見るとこの国を滅ぼすことになるかもしれない。あれだけひどいインチキをしても支持率30%を割らない首相や世襲の大臣がまるで昔の摂関家のような世襲で支配権を持ついまの政治は末期的症状だ。いずれ「下からの革命」でも起きてこうした旧体制が打破されねば事態は根本的には解決できないだろう。
 朝日の記者は是枝に「反社会的映像はどこまで許容されるのか?」とただした。これに対して是枝は、目黒での幼い少女の虐待死事件などでも、あの両親は断罪されるが、たとえば独りで子育てをしている母親は一歩間違えたら自分も、と思うだろう。」と応えている。そして「人々を極限まで追い込まないためのセーフティネットを充実させることでしか、こうした犯罪は軽減できません。」と言う。これもまったくその通りだと思う。犯罪者を安手の正義感で断罪しバッシングしてみても何も生まれない。問題はなぜこうした犯罪や事件が起きるのか、その原因を深く究明することなのではないか?
 さらに朝日の記者は「SNSが浸透した社会で、意見を同じくする人たちにしか響かないコトバばかり飛び交っているが、意見を異にする人たちに伝えるにはどうすればいいか?」と問うた。是枝は「「意図的に長い文章を書いています。ツイッターを140字以内でなく、140字以上でないと送信できないようにすれば良いのでは?「クソ」と言ったって何もそこから生まれてこない」と言っている。
  これも私は大賛成。事実私はツイッターはやっておらずこのブログでいつも長々と文章を書き連ねている(実は私の作文力が乏しいのかもしれないが(笑))。そして現代のメディアが「分かりやすさ至上主義」に陥りがちなのに対して是枝は「世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要なのではない。むしろ、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えて行かねばならないと思っている」と言った。
私は分かりやすく語ることは必要だと思うが、そのためには実は分かりにくい事実をどう理解すべきなのかという話者の知的能力が要求されるのだと思う。どっかの哲学者みたいに分かってもいないことを「分かりやすく語る」なんてのはウソを言ってることになるもんね。是枝さんそうでしょ?

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2018年6月 8日 (金)

映画「マルクス・エンゲルス」を観て

 マルクス生誕200年記念作品ラウル・ペック監督の表記の映画を観てきた。

若い頃のマルクスと妻イェンニーとの生活そしてエンゲルスの出会いから、さまざまな論客や活動家たちとの交流・対立の中から共産党宣言作成までの過程を描いた作品だが、なかなかリアルに描かれていると思った。
 青年ヘーゲル派の論客達との激しいやりとりなど、若い頃のマルクスはこんな感じの過激な青年ジャーナリストだったのだろうと思う。ドイツの名門ヴェストファーレン家のお嬢様であるイェンニーは一文無しのマルクスと引かれ合い、子どもができて貧乏のどん底でもなんとか共に生きていこうとしている姿は共感を覚えた。
 この映画はマルクスの思想や理論の形成過程を追いかけているわけではないので、その点は内容が浅いと思うが、産業革命まっただ中のイギリスでのエンゲルスの父が経営する工場の実状やその中で労働者達の生活の実状を知るフリードリッヒの苦悶、そして改宗ユダヤ人を父とした裕福なインテリ出身のマルクスも同様なある種の内的矛盾を感じつつ、互いにその考え方に惹かれて行く過程は見事に描かれていたと思う。
 そしてプルードンが、「正義者同盟」の労働者たちを前に「人類愛や平等思想」のアジテーション演説をブチ上げる場面で労働者たちが拍手と歓声でそれを称えているときに、エンゲルスが「本当に人類愛と平等なのか?」と問いかけ、「じゃ資本家と労働者はどうなんだ」とたたみかけると、労働者達は一瞬黙り込んでしまうが次の瞬間、「ちがう!」と叫び始める場面は印象的だった。そこからこの同盟は共産主義者同盟になっていくのであるが、1848年の革命は失敗に終わる。この辺の話は映画には出てこない。
 しかしこの場面は、170年後のいまの労働組合の幹部やいわゆる「リベラル派」の論客達が、労働者大衆を前にブチ上げる演説を彷彿とさせる。
  労働者の地位向上、生活保障云々は確かに重要だが、それによっていまだに続く資本主義社会が根底から覆るわけではない。あくまで修正資本主義という形で資本主義の「悪い部分」を直して「良い資本主義社会」にしていくことが現実的改革なのだ、という主張であってその先の展望がないのである。
  いかに世の資本家達が「世の中のために仕事を生み出してやっているのだ」と叫んでもそれは資本を獲得するという目的なしにはありえないし、その「仕事」とは資本主義生産様式特有の非人間的分割労働の変種でしかなく、それによって労働者の労働をいかに効率よくしかも労働者の不満を抑えながら搾取するかが目的であり、いかに資本家達やその代表政府が「より豊で便利な生活」や「充実した社会保障」と叫んでみても、所詮それは資本を維持拡大(彼らの言葉で言えば経済成長) させるために富の源泉である労働者の存在が必須の条件であること、そして彼らの不満を抑えまがらその体制を維持しつつ労働者を資本のための道具として使用し続けること以外にないからである。
 現代の労働者階級は現代のプルードンたちに間違った考え方を吹き込まれているのではないのか?ここで「現代のマルクス」が登場しなければならないのではないか?
 マルクスたちが目指した世界は彼らの死後、途中でトンデモナイ迷路に迷い込み、マルクス達の思想とは全く無縁な「社会主義」が登場し、それがあたかもマルクスの思想であったかのごとく受け止められる時代となってしまった。嘆かわしいことである。
 この映画がすでに遠い過去になってしまった産業資本主義隆盛期の労働者の世界を描いているとしてもその社会の基本的構造はいまだに存続している。20世紀になってグローバルな規模に拡大した資本は人類史上もっとも悲惨な戦争を2度も起こさせ、その後自滅した自称「社会主義圏」の廃墟の上で、あたかも「共産主義」に勝ったかの様に振る舞っている現代の資本主義社会に渦巻く矛盾の実状やその根拠を明らかにしながら、過去の運動の誤りを正していくことこそがいま必要なのではないだろうか?
 特にいま本当の意味での希望を見失い、目先の楽しさやおもしろさにのめり込むことで自分たちの未来を描くことが出来なくなってしまっている若い世代は、その生活が実は資本の賃金奴隷としての人生であることに気づくべきであり、そこから抜け出すために資本主義社会の実状とメカニズムを理解し、その根拠がどこからくるものであり、それとどう対決しあらたな社会を目指していくべきなのかを考えるきっかけにしてほしいと思った。そしてその中から「現代のマルクス」が登場して欲しいと思う。

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