日記・コラム・つぶやき

2018年9月25日 (火)

10万アクセスを超えました。

 このブログを2007年に初めて、やっと10万アクセスを超えました。しかし特定のページにアクセスが集中しているので、もうすこし他のページも読んで頂けることを期待したいです。

 以前NHK-TVで放映していた中国深圳の三和人材市場のドキュメンタリーについて感想を書いたところ多くのアクセスがありました。多分ツイッターかなにかで取り上げられたのでしょうね。そのときは中国からのアクセスも少ないながらありました。
 しかし昨夜このドキュメンタリーが再放映されて再び多くのアクセスがありましたが、今回は中国からのアクセスはありませんでした。中国政府当局がアクセス規制をかけているのでしょうか?
  いまアメリカと貿易戦争で覇権を競っている世界第2位の経済大国で、その底辺で希望を失い「オレたちはもうその日暮らしの三和ゴッドから抜けられないね。絶望的だよ」と自嘲的に言い放つ若者たちは何をどこに訴えていいのか分からないのでしょう。「好景気」といわれる日本でも「格差」の拡がるいま、他人事ではありません。おそらくアメリカでも底辺では似たような状態でしょう。
 それにしても当初はこのブログへの意見や反論があると考えていたのですが、あまり反応がなく、ブログというものは一方通行なのだということが分かりました。意見交換をのぞむならばどこかにそのためのサイトを立ち上げねばならないのかもしれませんが、このトシになるとなかなか新しいことを覚えるのが大変で未だそこまで行きません。
 とりあえず何か意見がありましたら「コメント」にでも書き込んで頂ければ幸いです。

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2018年9月 2日 (日)

「ナバホ」の世界 再録

 高齢社会が進む中で最近マスコミなどでよく「よい死に方」や「終活」についてが屡々取り上げられる。そこで、7年以上も前にNHK BS-TVのある番組で放映されこのブログでも取り上げた「ナバホ」の世界の話を再録しよう。

 子宮がんが再発し、摘出手術を受けたもののいつ再発するか分からないという状況で生きる女優のHさんが、アメリカ先住民ナバホの居留地を訪問したときの記録である。

 なぜHさんがナバホの居留地を訪れようとしたのかその理由は見落としたが、Hさんは彼らの一人をガイド役としてその家族との夕食に参加した。ナバホの人々は広大な荒野の一角で羊を飼い、トウモロコシを栽培して実に質素な生活している。

 Hさんがまず彼らに投げかけたのは、「幸せとは何か?」という問いであった。ナバホの若い人々は、結婚して家族を持つこと、羊や牛を飼えること、などと答えていたが、少し年配の人たちは、美しく生きることだと答えていた。夜明けに祈りに出るときその夜明けは美しい、夕暮れもまた美しい、と彼らの中の一人の男が言った。この美しく生きるろいう言葉の意味が、最初あまりピント来なかったが、やがてそれが彼らが語り継いでいる一つの詩でだんだん分かってきた。そのナバホ語の詩はこういうものだ。

 私は晴れやかに美の中を歩む

  私の前にある美の中を歩む

 私の上にある美の中を歩む

 私の側面にある美の中を歩む

 そしてその歩みは美の中で終わる

 つまりわれわれはつねにどこにいても「美」に囲まれてているのだ。その中で生きているということこそ幸せなのだ、ということである。

 結婚を間近に控えているという一人の若い娘は、寂しくなるとときどき先祖に会いに行くという。Hさんは彼女と一緒にそこに行った。そこにはときどき動物の姿になった先祖たちがやってきて娘に語りかけるという。あるとき二羽のイヌワシが彼女の頭上を輪を描いて飛んだ。彼女はすぐにそれが祖父と祖母であることが分かった。彼女は自分が寂しいことを告げると二羽のイヌワシは彼女の心に「いつもおまえと一緒に居るのだから寂しがることはない」と語りかけてくれたというのである。 Hさんは彼女の話を聞きながら涙を抑えることができなかった。

 Hさんは、次に荒野のまっただ中の古い小屋でたった一人で生活するナバホの老人を訪ねた。老人は英語がうまくないこともあってか、無口でいつも笑わない。ガイド役の男が介添えをした。Hさんは老人がなぜこんな荒野の真ん中に一人で暮らしているのかを尋ねた。

すると彼は「私はここで生まれた、そしてここが私の住む場所だからだ」と答えた。疑問の余地のないほどシンプルで明快な答えである。

 そして最後に、Hさんは、この老人が「死」についてどう考えているかを問うた。それはいつも「死」を意識しているHさんにとってもっとも重い問いであったと思う。老人は介添えの男を通じて次のように答えた。

 われわれナバホは「死」については語らない。そんなことは考えない。それは考えてはいけないことなのだ。われわれはいつも美の中に生きている。それだけで充分ではないか?

 Hさんは「あ〜、そうなんだ。まったくその通り。もうグーの音も出ない」としばし感慨に浸っていた。

 最後にガイド役の男は、粗末な片張り太鼓を持ってきて、それを叩きながら上の詩をナバホ語で唄い始めた。哀調をもったアイヌの叙事詩の唄に似ている旋律だった。しかし、それは英語では表現できない力強い意味を持った言葉だと彼は言っていた。

 1万年も前にわれわれと同じアジアの一角に住んでいた彼らの先祖たちはベーリング海峡を渡って、アメリカの地に移り住んだのである。そしていまヨーロッパやアフリカなどから来た異邦人たちに先祖から受け継いだこの地を支配され、彼らの「消費文明」を押しつけられようとしている。

 しかし、彼らが護り続けている、「美」はそんなものよりもずっとシンプルで力強い「生」の世界を持っており、それがこの汚れきった文明社会に生きるわれわれの心を洗ってくれるのだ。

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2018年7月23日 (月)

閑話休題(お笑いで暑気払い)

 このところ歳のせいもあってか、健康診断でいろいろな異常が発見され、検査漬けになっていたので、なかなかこのブログも書けなかった。検査の結果は「無罪放免」にはならなかったが、半年ごとに精密検査が必要ということで、取りあえずあと半年は自由に暮らせそうである。

 さてこのところの暑さで頭脳の回転がストップしてしまったので、例によって落語もどきのジョークでごまかすことにした。悪しからず。
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*その1 ある日のホワイトハウスにて:
執務室補佐官:「大統領閣下、いま中国の習近平主席からメールが入り、アメリカが中国のハイテク製品の輸入に高関税を掛けるなら、中国はアメリカからの航空機の輸入を制限することにするそうです。」
大統領:「うむ、それで?」
執務室補佐官:「アメリカの基幹産業である航空機製造会社では、ただでさえ中国製のハイテク部品が高関税で高くなって製造コストが上がるのに、中国が輸入制限を実施すれば、飛行機が売れなくって収益が著しく悪化します。」
大統領:「君はバカだね、アメリカで飛行機のハイテク部品を作ればいいじゃないか、そうすれば技術漏洩も心配しなくてよいし、国内ハイテク産業の雇用も増えるじゃないか。それで飛行機は中国以外の国々にドンドン売り込めばいい。」
執務室補佐官:「はい閣下、しかしわが国でハイテク部品を作ればおそろしく高いものになりますし国際市場でも高い航空機は買い手がつきません。」
大統領:「じゃ、わが国の航空機メーカーが中国で飛行機を作らせればいいではないか。ハイテク部品も中国内で安く買えるし、安くて優秀な労働力も買える。我が国の誇るアップル社もそうしているじゃないか!」
執務室補佐官:「。。。。。。。。。。」
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*その2 日本のある大企業社長室にて:
社長室秘書「社長、わが社の製品検査部門の検査で手抜きがあったということがデカデカと今日の新聞に載っていますが!」
社長「そうか、それならまずはそんな事実はないとマスコミには突っ張っておいて、これからはJIS認定審査機関のトップに毎月付け届けをしないといけないな。」
社長室秘書:「社長、そんなことで手抜きを見逃してくれるでしょうか?」
社長:「そりゃ見逃してくれるさ、あの審査機関のトップの息子は、我が社の入社試験に落第点を取ったにも関わらず、私の一言で入社できたんだからな!」
社長室秘書:「さすが世界に冠たる品質を誇るわが社の社長ですな!」
以上はすべてフィクションです。

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2018年6月25日 (月)

「万引き家族」の是枝監督に拍手!

 カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「万引き家族」の監督、是枝裕和氏が、今日の朝日新聞朝刊「文化・文芸」欄で記者のインタービューに応じた記事が載っている。

 「万引き家族」が文化庁の補助金をもらって作られたにもかかわらず、日本の恥部を描いているとか、この受賞に対して文科省からの祝意を受けることを「公権力とは距離を保ちたい」という理由で断ったことに対して、SNSなどでバッシングを受けていることへの彼の回答である。
 是枝は「炎上商法じゃないよ」とことわった上で、「芸術への助成を国の施しと考える風潮は映画に限ったことじゃない。大学の科研費もそうだし、生活保護世帯への攻撃も同じです。本来、大衆、国民の権利のはずですよね。」と語っているのは、その通りだと思う。
  かつて大学教員として在職した独立法人化された大学で政府予算が削減され「競争的資金による研究補助」が推進されたため、研究者はこぞって科研費の獲得に走った。そこではできるだけ文科省の「受け」が良い内容の研究が目指され、同じような内容の研究テーマ間での資金獲得競争が起きた。結果的には、政府御用達の研究はリッチな資金を獲得し、そうでない研究は疲弊した。さらに最近では防衛省御用達の研究補助獲得競争が行われている。これは長い目で見て科学研究に良い結果をもたらすとは到底思えない。
 是枝は映画芸術の世界でこうした世の中の風潮に挑戦しているんだと思う。さらに「この映画が犯罪を擁護している」というバッシングがあるようだが、これに対して是枝は「「罪の意識が芽生えた男の子の哀しみをきちんと繊細に追っている。そこがこの映画の軸なんだけどね。これはよく観てもらえば分かる」と言っている。そして「補助金をもらって政府を批判するのはまっとうな態度なんだ、という欧州的な価値観を日本にも定着させたい。公金を入れると公権力に従わなければならない、ということになったら、文化は死にますよ。」と言う。まったくその通りだと思う。死ぬのは文化だけではなく科学もだ。
 いまの風潮は既得権をもった行政・官僚の「慇懃な上から目線」に対して民衆は従順に従うのが一番無難と言う風になっている。これは長い目で見るとこの国を滅ぼすことになるかもしれない。あれだけひどいインチキをしても支持率30%を割らない首相や世襲の大臣がまるで昔の摂関家のような世襲で支配権を持ついまの政治は末期的症状だ。いずれ「下からの革命」でも起きてこうした旧体制が打破されねば事態は根本的には解決できないだろう。
 朝日の記者は是枝に「反社会的映像はどこまで許容されるのか?」とただした。これに対して是枝は、目黒での幼い少女の虐待死事件などでも、あの両親は断罪されるが、たとえば独りで子育てをしている母親は一歩間違えたら自分も、と思うだろう。」と応えている。そして「人々を極限まで追い込まないためのセーフティネットを充実させることでしか、こうした犯罪は軽減できません。」と言う。これもまったくその通りだと思う。犯罪者を安手の正義感で断罪しバッシングしてみても何も生まれない。問題はなぜこうした犯罪や事件が起きるのか、その原因を深く究明することなのではないか?
 さらに朝日の記者は「SNSが浸透した社会で、意見を同じくする人たちにしか響かないコトバばかり飛び交っているが、意見を異にする人たちに伝えるにはどうすればいいか?」と問うた。是枝は「「意図的に長い文章を書いています。ツイッターを140字以内でなく、140字以上でないと送信できないようにすれば良いのでは?「クソ」と言ったって何もそこから生まれてこない」と言っている。
  これも私は大賛成。事実私はツイッターはやっておらずこのブログでいつも長々と文章を書き連ねている(実は私の作文力が乏しいのかもしれないが(笑))。そして現代のメディアが「分かりやすさ至上主義」に陥りがちなのに対して是枝は「世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要なのではない。むしろ、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えて行かねばならないと思っている」と言った。
私は分かりやすく語ることは必要だと思うが、そのためには実は分かりにくい事実をどう理解すべきなのかという話者の知的能力が要求されるのだと思う。どっかの哲学者みたいに分かってもいないことを「分かりやすく語る」なんてのはウソを言ってることになるもんね。是枝さんそうでしょ?

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2018年6月 8日 (金)

映画「マルクス・エンゲルス」を観て

 マルクス生誕200年記念作品ラウル・ペック監督の表記の映画を観てきた。

若い頃のマルクスと妻イェンニーとの生活そしてエンゲルスの出会いから、さまざまな論客や活動家たちとの交流・対立の中から共産党宣言作成までの過程を描いた作品だが、なかなかリアルに描かれていると思った。
 青年ヘーゲル派の論客達との激しいやりとりなど、若い頃のマルクスはこんな感じの過激な青年ジャーナリストだったのだろうと思う。ドイツの名門ヴェストファーレン家のお嬢様であるイェンニーは一文無しのマルクスと引かれ合い、子どもができて貧乏のどん底でもなんとか共に生きていこうとしている姿は共感を覚えた。
 この映画はマルクスの思想や理論の形成過程を追いかけているわけではないので、その点は内容が浅いと思うが、産業革命まっただ中のイギリスでのエンゲルスの父が経営する工場の実状やその中で労働者達の生活の実状を知るフリードリッヒの苦悶、そして改宗ユダヤ人を父とした裕福なインテリ出身のマルクスも同様なある種の内的矛盾を感じつつ、互いにその考え方に惹かれて行く過程は見事に描かれていたと思う。
 そしてプルードンが、「正義者同盟」の労働者たちを前に「人類愛や平等思想」のアジテーション演説をブチ上げる場面で労働者たちが拍手と歓声でそれを称えているときに、エンゲルスが「本当に人類愛と平等なのか?」と問いかけ、「じゃ資本家と労働者はどうなんだ」とたたみかけると、労働者達は一瞬黙り込んでしまうが次の瞬間、「ちがう!」と叫び始める場面は印象的だった。そこからこの同盟は共産主義者同盟になっていくのであるが、1848年の革命は失敗に終わる。この辺の話は映画には出てこない。
 しかしこの場面は、170年後のいまの労働組合の幹部やいわゆる「リベラル派」の論客達が、労働者大衆を前にブチ上げる演説を彷彿とさせる。
  労働者の地位向上、生活保障云々は確かに重要だが、それによっていまだに続く資本主義社会が根底から覆るわけではない。あくまで修正資本主義という形で資本主義の「悪い部分」を直して「良い資本主義社会」にしていくことが現実的改革なのだ、という主張であってその先の展望がないのである。
  いかに世の資本家達が「世の中のために仕事を生み出してやっているのだ」と叫んでもそれは資本を獲得するという目的なしにはありえないし、その「仕事」とは資本主義生産様式特有の非人間的分割労働の変種でしかなく、それによって労働者の労働をいかに効率よくしかも労働者の不満を抑えながら搾取するかが目的であり、いかに資本家達やその代表政府が「より豊で便利な生活」や「充実した社会保障」と叫んでみても、所詮それは資本を維持拡大(彼らの言葉で言えば経済成長) させるために富の源泉である労働者の存在が必須の条件であること、そして彼らの不満を抑えまがらその体制を維持しつつ労働者を資本のための道具として使用し続けること以外にないからである。
 現代の労働者階級は現代のプルードンたちに間違った考え方を吹き込まれているのではないのか?ここで「現代のマルクス」が登場しなければならないのではないか?
 マルクスたちが目指した世界は彼らの死後、途中でトンデモナイ迷路に迷い込み、マルクス達の思想とは全く無縁な「社会主義」が登場し、それがあたかもマルクスの思想であったかのごとく受け止められる時代となってしまった。嘆かわしいことである。
 この映画がすでに遠い過去になってしまった産業資本主義隆盛期の労働者の世界を描いているとしてもその社会の基本的構造はいまだに存続している。20世紀になってグローバルな規模に拡大した資本は人類史上もっとも悲惨な戦争を2度も起こさせ、その後自滅した自称「社会主義圏」の廃墟の上で、あたかも「共産主義」に勝ったかの様に振る舞っている現代の資本主義社会に渦巻く矛盾の実状やその根拠を明らかにしながら、過去の運動の誤りを正していくことこそがいま必要なのではないだろうか?
 特にいま本当の意味での希望を見失い、目先の楽しさやおもしろさにのめり込むことで自分たちの未来を描くことが出来なくなってしまっている若い世代は、その生活が実は資本の賃金奴隷としての人生であることに気づくべきであり、そこから抜け出すために資本主義社会の実状とメカニズムを理解し、その根拠がどこからくるものであり、それとどう対決しあらたな社会を目指していくべきなのかを考えるきっかけにしてほしいと思った。そしてその中から「現代のマルクス」が登場して欲しいと思う。

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2018年5月24日 (木)

安倍政権を手本とする悪しきトップダウン社会

 森友・加計問題で、次々と国会での答弁と矛盾する証拠が見つかっても、虚偽証言や公文書廃棄という法律無視を認めようともせず、いまだに平然として総理大臣や財務大臣は彼らの政策を強引に推し進めようとしている。公僕であるはずの官僚達もその強権性を忖度し、安部をかばうとともに自己保身に走り、「自分は関係ない、知らない」と言い張ってきた。

  政権が、下がったとはいえまだ30%程度の支持率を維持しているからであろう。
 そしてこの安部政権の強権的でトップダウン的体質を手本とする組織がさまざまな場面で現れている。日大アメフト部の体質もその一つである。相手チームの選手を「壊してこい」と暴力団の親分のような命令を下し、仕方なくそれに従った学生は、結局自責の念に堪えきれずアメフトを辞めると宣言した。監督は「私がその様な指示は与えていない」と主張し、あたかもコーチが言ったコトバを選手が誤解してああいうことをやったとばかりの言いっぷりである。
 このほかにも不当な金銭的利益やセクハラ問題を起こす議員や市長がつぎつぎ暴露され、いずれも形だけの「謝罪」をしながら内心は少しも反省していない様子であった。
 いまの支配層の「こころ」はまったく地に落ちている。欲望と権威主義の権化である。
そしてこうした連中を選挙で選んでしまう選挙民も問題であろう。結局「力のある人を選べば世の中任せられる」という意識がこういう風潮を生み出し、強権的トップダウン社会を許してしまっているのだろう。
 現実にそれぞれの場で社会のために働いている自分たち自身が社会をかたちづくって行くべきのだという、本当の意味での民主主義的社会はまだまだ遠い未来のことなのであろうか?

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2018年5月21日 (月)

Sad girl in rose garden

 以前にも何度かここに投稿したが、私のよく行く自然公園の中にあるバラ園に小さな少女のブロンズ像がある。リスや小鳥に囲まれて平和で幸せそうな雰囲気の中で、なぜか孤独で悲しい表情でうつむいている。いまちょうどバラは花盛り、見学客が絶えないが、彼女に注目する人はほとんどいない。

 私はこの公園に来ると、いつもこの像の前にしゃがんで少女をの顔を見上げる。そのうつろで悲しそうなまなざしは私に何かを訴えているように思えて仕方ない。
 親がいないのか?兄弟もいないのか?それとも誰も遊んでくれる友達がいないのか?この子の悲しさの中にはすでにこれからやってくる彼女の人生の悲しさが予感されているのかもしれない。
 そしてその悲しさが、発達障害で孤独な人生を歩んでいる私の息子の人生と重なるのかもしれない。
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2018年5月11日 (金)

佐伯啓思氏による1968年学生運動批判の持つ欺瞞

 今朝の朝日新聞「異論のススメ」でレギュラーの佐伯啓思氏が「欺瞞を直視する気風こそ」という論説を書いている。

 佐伯氏は1968年当時フランスのパリ・カルチエラタンを中心にあった学生反乱から世界的に拡がった学生運動を批判している。日本では全共闘運動と同時に起きた様々な新左翼運動が盛り上がった。そして当時の私もまだ助手として就職したばかりの大学で学生達の意見に賛同して教授陣と対決したのである。そしてその後11年に渡って大学で「干された」状態に置かれることになってしまった。
 佐伯氏はこうした学生運動には共感を持たず、そこから離れた立場にいたそうである。そしていまこの運動を振り返ってこう言う。「これは「革命」などといえるものではなく、フランスでは学生の反乱を押さえつけたドゴールが総選挙で大勝し、日本でも大阪万博を前にした高度成長の頂点の時代であり、人々はアポロ宇宙船による月面着陸に歓声を上げていた。政治的には佐藤政権による沖縄返還の方がはるかに重要な出来事だった。(中略)マルクスや毛沢東から借用したあまりに粗雑な「理論」を疑うこともなく生真面目に信奉しつつも、まるでピクニックにでも出かけるようにデモに参加する連中をずいぶん見ていたでせいで」全共闘運動には共感を持てなかったのだそうだ。そして佐伯氏は、「しかし、それでも私は、あるひとつの点において「全共闘的なもの」に共感するところがあった。それはこの運動が、どこか、戦後日本が抱える欺瞞、たとえば、日米安保体制に守られた平和国家という欺瞞、合法的・平和的に弱者を支配する資本主義や民主主義の欺瞞、こうした欺瞞や偽善に対する反発を根底にもっていたからだ。(中略)これらの欺瞞と闘うには暴力闘争しかありえないことになる。私が共感したのはこの暴力闘争への傾斜であったが、そんなものはうまくいくはずもない。そしてその結果はその通りになった。」と言う。佐伯氏はさらに言う。「むしろ私が衝撃を受けたのは、当時生じた三島由紀夫の自衛隊乱入、割腹自殺事件であった。(中略)あの戦争を侵略戦争と断じたあげくに、とてつもない経済成長のなかでカネの亡者と化した日本、こうした戦後の欺瞞を三島は攻撃し、一種の自爆テロを起こした。三島と全共闘の間には深い部分で共鳴するものがあったのだが、全共闘はそれを直視しようとはせず、三島はそれを演劇的な出し物へと変えてしまった。」と、そしてさらに言う。「江藤淳は学生運動は「革命ごっこ」であり、三島は「軍隊ごっこ」である。どちらも現実に直面していない。真の問題は日米関係であり、アメリカからの日本の自立である。というのである。(中略)沖縄返還問題にせよ、ベトナム戦争問題にせよ、その根本にあるものは、日米安保体制によって日本の平和も高度成長も可能になっているという事実であった。そのおかげで日本は「冷戦」から目を背けることができただけである。この欺瞞が、利己心や金銭的貪欲さ、責任感の喪失、道義心の欠如といった戦後日本人の精神的退廃をもたらしている、というのが三島の主張であった。三島は精神の道義を戦後日本が失ったのではないかと問うのである。フランスの68年は、ポストモダンという思想を生み出したが、日本(の新左翼運動)は何も生み出さなかった。そして日本の左翼主義は「平和憲法と民主主義を守れ」に回収されてしまった。(以下略)」これが佐伯氏の主張である。
 この佐伯氏の主張に私はある種の怒りを感じた。確かに当時の学生運動は「革命ごっこ」であったかもしれないし、三島の主張と両極にあって通底するものがあったかもしれない。しかし、肝心なことは、佐伯氏自身はそうした歴史の渦中にあって、何をしてきたのだろうか?ということだろう。学生運動や三島の自爆テロを「離れた少し高い場所」から見ていた傍観者だったのではないか?だからこそ、いま「欺瞞を直視する」などと偉そうなことがいえるし、「私は68年はさほど評価しないが、今日の大学や学生文化にはないものがあった。それは社会的な権威や商業主義からは距離をとり、既成のものをまずは疑い、自分の頭で考え、他人と議論をするという風潮である。その自由と批判の気風こそかけがえのない大学の文化なのである。」などと上から目線で言えるのだろう。
 佐伯さん、あなたは「全共闘の暴力への傾斜」に共感を持ちながら「うまく行くはずもない」と思ったそうですが、それでは自分たちの目指すことを信じて、苦闘し、一敗地にまみれて泥沼をさまよい歩いたことがあるのですか?
  真実とはそういう苦痛に充ちた試行錯誤の中からしか把握できないのではないですか?アメリカからの真の自立を目指すことが、戦後日本人が失った「道義の精神」を取り戻すことになるのですか?戦前の日本人が本当に「道義の精神」を持っていたのですか?「道義の精神」が「お国のために敵兵を一人でも多く殺せ!」と導くのですか?
  カネの亡者になっているのは日本人だけなのですか?アメリカも中国もロシアもみなそうではないのですか?それは何故だと思いますか?フランスの68年はポストモダンを生み出したが日本の左翼運動は何も生み出さなかったとはよく言いますね。あの運動で挫折した人たちの中には確かに「まるでピクニックに出かけるようにデモに参加していた」人たちも多く、そうした人たちはいまや社会の中間層や上層部に安住しています。しかし、あの運動に参加していた人たちの中にはいまでもその苦痛に充ちた経験と反省から真実は何かを学び、世の中を新たな方向に動かそうとしてもがいている人たちがいることなどご存じないのでしょうね。

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2018年4月26日 (木)

「新デザイン論」(仮題)執筆中

 このところブログへの投稿頻度が落ちていますが、それは次の様な事情からです。

 現役をリタイアしてからの10数年間書き綴ってきた膨大なノートとブログの中から、デザインに対する私の考察をピックアップし、まとめて一冊の本にしたいと思い、少しづつ書き進めています。

  前作「モノづくりの創造性」(井上勝雄氏との共著で海文堂から2014年に出版)が私の努力に反して配本業者の判断から300冊ほどしか印刷されず、ごく限られた書店でしか入手できないという事態となり、残念な結果となりましたが、今回の本も脱稿しても、出版してくれそうな会社が見つかるかどうか分かりませんので、ひょっとすると自費出版という形になるかもしれません。オカネがない私にとっては厳しいことになりそうです。
 儲かる著書しか発行しないといういまの出版・配本業者の態度は、いまの時代を反映しています。この状態では、何か目立つことをしてマスコミで話題にならなければ自分の意見も世間にその存在すら認めてもらえないという状態が定着し、地味な研究や考察はたとえこれが次の世代にとって貴重な見解を含んでいても、埋もれて行くしかないのかもしれません。
 それでもこの膨大なノートやブログの内容をまとめて筋道の通った形にまとめて一冊の本として残したいという気持ちが強いので、私は書き続けるつもりです。最近は高齢のため視力も体力も衰え、長時間のパソコン入力作業にも耐えきれないことが多いのですが、この仕事が私のデザイン研究の集大成でもあり、いわば「遺書」になるかもしれないという思いからこの孤独な作業を一生懸命続けております。
 いまのところ14万字ほどのボリュームですが、これにさらに抜けた内容を補填し、それを添削して筋の通った内容に圧縮し、図表などを入れ、参考文献や資料のリストを整えていくつもりです。あと何ヶ月掛かるか分かりませんが完成まで何とか頑張りたいと思います。

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2018年2月 4日 (日)

NHK-TV日曜討論「AIはどこまで進歩するのか?」を観て

 今朝のNHK-TV日曜討論で「AIはどこまで進歩するのか?」というテーマで、政府の研究推進機構関係者、大学の様々な分野のAI研究者、AI企業のチーフなどが一堂に会して討論を行っていた。当然ながら討論者がいずれも30代〜40代の若い人たちであったのが印象的だった。
 そこではそれぞれの立場からAIの現状と未来についてが述べられていたが、やはり、人工知能が人間の仕事を奪うのではないか、人類はやがてAIに支配されてしまうのではないか、という不安にどう向き合うかが中心的話題となっていた。要するにAIが進歩すれば人間とは何なのか?という根源的テーマがより重要な課題としてわれわれに突きつけられるようになるということである。
 私のこの問題に対する基本的考え方はすでにこのブログの1月7日の欄に「AIが人工知能であるということの再確認」というタイトルで述べてあるのでここでそれを繰り返すことはしないが、今朝の討論を観ていて気になったことを挙げてみる。
 それは、AIがやがていまの人間の労働の半分近くの種類をこなしてしまう様になるだろうというかなり確実な予測が示されていながら、一方では、諸外国との秘術開発競争に後れを取らないようにすることが必要だとする主張が大半を占め、他方ではどのような立場でAIを開発するかと、AIをどう使うかという両面から倫理の問題を考えるべきだという主張が大半を占めていたことだ。
 この問題を考えるために、ここで産業革命の歴史を顧みる必要があると思う。まず中世的な職人工房が商人に支配されることで、職人の仕事が「合理化」のために分業化され、職人は本来の「つくることの目的意識を奪われ、「売れる商品」をつくるという商人の目的意識に自らの労働を奉仕させられるようになった。また、農民達は生産手段である農地を奪われ、工場労働者として資本家企業に雇用されるようになり、そこではやはり売るための商品を作る労働に奉仕させられた。やがて工場内の労働は資本家的効率化のため細分化され、そして最後にその細分化された労働は資本家的「合理化」によって機械に置き換えられ、そこに働く労働者達は相対的剰余価値増大のための犠牲として放逐された。
  こうして19世紀の資本主義社会は機械制大工業を生み出したのであるが、やがて20世前半には電気や化学の技術が支配する「第2次産業革命(人体でいえば脈管系の社会インフラ技術の革命)」があり、その後石油などによる内燃機関の普及によって交通運輸面での社会インフラ革命があった。そして20世紀後半にはコンピュータの普及とインターネットの開発により、大量の情報やデータが瞬時にやりとりできる体制が出来上がり、 人体でいえば神経系統にあたる部分の「第3次産業革命(いわゆるIT革命)」が訪れ、それがAI技術と結びついていまの「AI革命」をもたらしているといえる。そしてこれらの産業革命においてはいずれも大量の労働者が「合理化」により解雇されたり転職させられているのである。
  AIを資本主義的産業のいわば最終段階の「合理化」という視点から観れば、現状のAIは資本主義経済での企業のいわば「必然の法則」の結果であろう。
 これらの歴史的流れはいずれも資本主義経済下での市場競争がモチベーションでありいずれも人格化された資本の意志である資本家的目的意識による「合理化」の結果である。
 だからそこに共通するものはどれも社会を支えるために働く労働者自身の目的意識ではなく、それを資本蓄積の手段とする階級の目的意識によるものであるといえるだろう。
 したがってどのようなAIを開発するかという立場もそれをどう使うかという立場も基本的には同じ目的意識の下にあるといえる。
  しかし、こうした主客転倒した矛盾的発展史の結果生み出された技術的成果であるAIを社会共通の問題を解決する立場でそれなりに用いようとする立場はもちろん擁護されるべきである。
  だからAIの倫理とはまず第一に、それが社会を支えるために働く人たちにとって本当によりよい生活(労働内容を含めて)や社会をもたらすのかどうかという判断基準のもとでつくられる倫理でなくてはならないし、それは決して企業間の国際競争に勝つための手段という立場ではありえない。
 第二に、その倫理は「企業が利益を挙げることによって国民が潤う」という間違った論理に立つ政府機関によるトップダウン的視点であっては決してならないということである。あくまでこの倫理は労働者の立場つまり現場で働く人々のボトムアップ的視点からの倫理でなければならないと思う。
 その意味で今朝の日曜討論のメンバーの中では名古屋大学で哲学専攻の久木田准教授の主張が私には一番親近感があった。

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