日記・コラム・つぶやき

2018年6月25日 (月)

「万引き家族」の是枝監督に拍手!

 カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「万引き家族」の監督、是枝裕和氏が、今日の朝日新聞朝刊「文化・文芸」欄で記者のインタービューに応じた記事が載っている。

 「万引き家族」が文化庁の補助金をもらって作られたにもかかわらず、日本の恥部を描いているとか、この受賞に対して文科省からの祝意を受けることを「公権力とは距離を保ちたい」という理由で断ったことに対して、SNSなどでバッシングを受けていることへの彼の回答である。
 是枝は「炎上商法じゃないよ」とことわった上で、「芸術への助成を国の施しと考える風潮は映画に限ったことじゃない。大学の科研費もそうだし、生活保護世帯への攻撃も同じです。本来、大衆、国民の権利のはずですよね。」と語っているのは、その通りだと思う。
  かつて大学教員として在職した独立法人化された大学で政府予算が削減され「競争的資金による研究補助」が推進されたため、研究者はこぞって科研費の獲得に走った。そこではできるだけ文科省の「受け」が良い内容の研究が目指され、同じような内容の研究テーマ間での資金獲得競争が起きた。結果的には、政府御用達の研究はリッチな資金を獲得し、そうでない研究は疲弊した。さらに最近では防衛省御用達の研究補助獲得競争が行われている。これは長い目で見て科学研究に良い結果をもたらすとは到底思えない。
 是枝は映画芸術の世界でこうした世の中の風潮に挑戦しているんだと思う。さらに「この映画が犯罪を擁護している」というバッシングがあるようだが、これに対して是枝は「「罪の意識が芽生えた男の子の哀しみをきちんと繊細に追っている。そこがこの映画の軸なんだけどね。これはよく観てもらえば分かる」と言っている。そして「補助金をもらって政府を批判するのはまっとうな態度なんだ、という欧州的な価値観を日本にも定着させたい。公金を入れると公権力に従わなければならない、ということになったら、文化は死にますよ。」と言う。まったくその通りだと思う。死ぬのは文化だけではなく科学もだ。
 いまの風潮は既得権をもった行政・官僚の「慇懃な上から目線」に対して民衆は従順に従うのが一番無難と言う風になっている。これは長い目で見るとこの国を滅ぼすことになるかもしれない。あれだけひどいインチキをしても支持率30%を割らない首相や世襲の大臣がまるで昔の摂関家のような世襲で支配権を持ついまの政治は末期的症状だ。いずれ「下からの革命」でも起きてこうした旧体制が打破されねば事態は根本的には解決できないだろう。
 朝日の記者は是枝に「反社会的映像はどこまで許容されるのか?」とただした。これに対して是枝は、目黒での幼い少女の虐待死事件などでも、あの両親は断罪されるが、たとえば独りで子育てをしている母親は一歩間違えたら自分も、と思うだろう。」と応えている。そして「人々を極限まで追い込まないためのセーフティネットを充実させることでしか、こうした犯罪は軽減できません。」と言う。これもまったくその通りだと思う。犯罪者を安手の正義感で断罪しバッシングしてみても何も生まれない。問題はなぜこうした犯罪や事件が起きるのか、その原因を深く究明することなのではないか?
 さらに朝日の記者は「SNSが浸透した社会で、意見を同じくする人たちにしか響かないコトバばかり飛び交っているが、意見を異にする人たちに伝えるにはどうすればいいか?」と問うた。是枝は「「意図的に長い文章を書いています。ツイッターを140字以内でなく、140字以上でないと送信できないようにすれば良いのでは?「クソ」と言ったって何もそこから生まれてこない」と言っている。
  これも私は大賛成。事実私はツイッターはやっておらずこのブログでいつも長々と文章を書き連ねている(実は私の作文力が乏しいのかもしれないが(笑))。そして現代のメディアが「分かりやすさ至上主義」に陥りがちなのに対して是枝は「世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要なのではない。むしろ、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えて行かねばならないと思っている」と言った。
私は分かりやすく語ることは必要だと思うが、そのためには実は分かりにくい事実をどう理解すべきなのかという話者の知的能力が要求されるのだと思う。どっかの哲学者みたいに分かってもいないことを「分かりやすく語る」なんてのはウソを言ってることになるもんね。是枝さんそうでしょ?

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2018年6月 8日 (金)

映画「マルクス・エンゲルス」を観て

 マルクス生誕200年記念作品ラウル・ペック監督の表記の映画を観てきた。

若い頃のマルクスと妻イェンニーとの生活そしてエンゲルスの出会いから、さまざまな論客や活動家たちとの交流・対立の中から共産党宣言作成までの過程を描いた作品だが、なかなかリアルに描かれていると思った。
 青年ヘーゲル派の論客達との激しいやりとりなど、若い頃のマルクスはこんな感じの過激な青年ジャーナリストだったのだろうと思う。ドイツの名門ヴェストファーレン家のお嬢様であるイェンニーは一文無しのマルクスと引かれ合い、子どもができて貧乏のどん底でもなんとか共に生きていこうとしている姿は共感を覚えた。
 この映画はマルクスの思想や理論の形成過程を追いかけているわけではないので、その点は内容が浅いと思うが、産業革命まっただ中のイギリスでのエンゲルスの父が経営する工場の実状やその中で労働者達の生活の実状を知るフリードリッヒの苦悶、そして改宗ユダヤ人を父とした裕福なインテリ出身のマルクスも同様なある種の内的矛盾を感じつつ、互いにその考え方に惹かれて行く過程は見事に描かれていたと思う。
 そしてプルードンが、「正義者同盟」の労働者たちを前に「人類愛や平等思想」のアジテーション演説をブチ上げる場面で労働者たちが拍手と歓声でそれを称えているときに、エンゲルスが「本当に人類愛と平等なのか?」と問いかけ、「じゃ資本家と労働者はどうなんだ」とたたみかけると、労働者達は一瞬黙り込んでしまうが次の瞬間、「ちがう!」と叫び始める場面は印象的だった。そこからこの同盟は共産主義者同盟になっていくのであるが、1848年の革命は失敗に終わる。この辺の話は映画には出てこない。
 しかしこの場面は、170年後のいまの労働組合の幹部やいわゆる「リベラル派」の論客達が、労働者大衆を前にブチ上げる演説を彷彿とさせる。
  労働者の地位向上、生活保障云々は確かに重要だが、それによっていまだに続く資本主義社会が根底から覆るわけではない。あくまで修正資本主義という形で資本主義の「悪い部分」を直して「良い資本主義社会」にしていくことが現実的改革なのだ、という主張であってその先の展望がないのである。
  いかに世の資本家達が「世の中のために仕事を生み出してやっているのだ」と叫んでもそれは資本を獲得するという目的なしにはありえないし、その「仕事」とは資本主義生産様式特有の非人間的分割労働の変種でしかなく、それによって労働者の労働をいかに効率よくしかも労働者の不満を抑えながら搾取するかが目的であり、いかに資本家達やその代表政府が「より豊で便利な生活」や「充実した社会保障」と叫んでみても、所詮それは資本を維持拡大(彼らの言葉で言えば経済成長) させるために富の源泉である労働者の存在が必須の条件であること、そして彼らの不満を抑えまがらその体制を維持しつつ労働者を資本のための道具として使用し続けること以外にないからである。
 現代の労働者階級は現代のプルードンたちに間違った考え方を吹き込まれているのではないのか?ここで「現代のマルクス」が登場しなければならないのではないか?
 マルクスたちが目指した世界は彼らの死後、途中でトンデモナイ迷路に迷い込み、マルクス達の思想とは全く無縁な「社会主義」が登場し、それがあたかもマルクスの思想であったかのごとく受け止められる時代となってしまった。嘆かわしいことである。
 この映画がすでに遠い過去になってしまった産業資本主義隆盛期の労働者の世界を描いているとしてもその社会の基本的構造はいまだに存続している。20世紀になってグローバルな規模に拡大した資本は人類史上もっとも悲惨な戦争を2度も起こさせ、その後自滅した自称「社会主義圏」の廃墟の上で、あたかも「共産主義」に勝ったかの様に振る舞っている現代の資本主義社会に渦巻く矛盾の実状やその根拠を明らかにしながら、過去の運動の誤りを正していくことこそがいま必要なのではないだろうか?
 特にいま本当の意味での希望を見失い、目先の楽しさやおもしろさにのめり込むことで自分たちの未来を描くことが出来なくなってしまっている若い世代は、その生活が実は資本の賃金奴隷としての人生であることに気づくべきであり、そこから抜け出すために資本主義社会の実状とメカニズムを理解し、その根拠がどこからくるものであり、それとどう対決しあらたな社会を目指していくべきなのかを考えるきっかけにしてほしいと思った。そしてその中から「現代のマルクス」が登場して欲しいと思う。

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2018年5月24日 (木)

安倍政権を手本とする悪しきトップダウン社会

 森友・加計問題で、次々と国会での答弁と矛盾する証拠が見つかっても、虚偽証言や公文書廃棄という法律無視を認めようともせず、いまだに平然として総理大臣や財務大臣は彼らの政策を強引に推し進めようとしている。公僕であるはずの官僚達もその強権性を忖度し、安部をかばうとともに自己保身に走り、「自分は関係ない、知らない」と言い張ってきた。

  政権が、下がったとはいえまだ30%程度の支持率を維持しているからであろう。
 そしてこの安部政権の強権的でトップダウン的体質を手本とする組織がさまざまな場面で現れている。日大アメフト部の体質もその一つである。相手チームの選手を「壊してこい」と暴力団の親分のような命令を下し、仕方なくそれに従った学生は、結局自責の念に堪えきれずアメフトを辞めると宣言した。監督は「私がその様な指示は与えていない」と主張し、あたかもコーチが言ったコトバを選手が誤解してああいうことをやったとばかりの言いっぷりである。
 このほかにも不当な金銭的利益やセクハラ問題を起こす議員や市長がつぎつぎ暴露され、いずれも形だけの「謝罪」をしながら内心は少しも反省していない様子であった。
 いまの支配層の「こころ」はまったく地に落ちている。欲望と権威主義の権化である。
そしてこうした連中を選挙で選んでしまう選挙民も問題であろう。結局「力のある人を選べば世の中任せられる」という意識がこういう風潮を生み出し、強権的トップダウン社会を許してしまっているのだろう。
 現実にそれぞれの場で社会のために働いている自分たち自身が社会をかたちづくって行くべきのだという、本当の意味での民主主義的社会はまだまだ遠い未来のことなのであろうか?

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2018年5月21日 (月)

Sad girl in rose garden

 以前にも何度かここに投稿したが、私のよく行く自然公園の中にあるバラ園に小さな少女のブロンズ像がある。リスや小鳥に囲まれて平和で幸せそうな雰囲気の中で、なぜか孤独で悲しい表情でうつむいている。いまちょうどバラは花盛り、見学客が絶えないが、彼女に注目する人はほとんどいない。

 私はこの公園に来ると、いつもこの像の前にしゃがんで少女をの顔を見上げる。そのうつろで悲しそうなまなざしは私に何かを訴えているように思えて仕方ない。
 親がいないのか?兄弟もいないのか?それとも誰も遊んでくれる友達がいないのか?この子の悲しさの中にはすでにこれからやってくる彼女の人生の悲しさが予感されているのかもしれない。
 そしてその悲しさが、発達障害で孤独な人生を歩んでいる私の息子の人生と重なるのかもしれない。
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2018年5月11日 (金)

佐伯啓思氏による1968年学生運動批判の持つ欺瞞

 今朝の朝日新聞「異論のススメ」でレギュラーの佐伯啓思氏が「欺瞞を直視する気風こそ」という論説を書いている。

 佐伯氏は1968年当時フランスのパリ・カルチエラタンを中心にあった学生反乱から世界的に拡がった学生運動を批判している。日本では全共闘運動と同時に起きた様々な新左翼運動が盛り上がった。そして当時の私もまだ助手として就職したばかりの大学で学生達の意見に賛同して教授陣と対決したのである。そしてその後11年に渡って大学で「干された」状態に置かれることになってしまった。
 佐伯氏はこうした学生運動には共感を持たず、そこから離れた立場にいたそうである。そしていまこの運動を振り返ってこう言う。「これは「革命」などといえるものではなく、フランスでは学生の反乱を押さえつけたドゴールが総選挙で大勝し、日本でも大阪万博を前にした高度成長の頂点の時代であり、人々はアポロ宇宙船による月面着陸に歓声を上げていた。政治的には佐藤政権による沖縄返還の方がはるかに重要な出来事だった。(中略)マルクスや毛沢東から借用したあまりに粗雑な「理論」を疑うこともなく生真面目に信奉しつつも、まるでピクニックにでも出かけるようにデモに参加する連中をずいぶん見ていたでせいで」全共闘運動には共感を持てなかったのだそうだ。そして佐伯氏は、「しかし、それでも私は、あるひとつの点において「全共闘的なもの」に共感するところがあった。それはこの運動が、どこか、戦後日本が抱える欺瞞、たとえば、日米安保体制に守られた平和国家という欺瞞、合法的・平和的に弱者を支配する資本主義や民主主義の欺瞞、こうした欺瞞や偽善に対する反発を根底にもっていたからだ。(中略)これらの欺瞞と闘うには暴力闘争しかありえないことになる。私が共感したのはこの暴力闘争への傾斜であったが、そんなものはうまくいくはずもない。そしてその結果はその通りになった。」と言う。佐伯氏はさらに言う。「むしろ私が衝撃を受けたのは、当時生じた三島由紀夫の自衛隊乱入、割腹自殺事件であった。(中略)あの戦争を侵略戦争と断じたあげくに、とてつもない経済成長のなかでカネの亡者と化した日本、こうした戦後の欺瞞を三島は攻撃し、一種の自爆テロを起こした。三島と全共闘の間には深い部分で共鳴するものがあったのだが、全共闘はそれを直視しようとはせず、三島はそれを演劇的な出し物へと変えてしまった。」と、そしてさらに言う。「江藤淳は学生運動は「革命ごっこ」であり、三島は「軍隊ごっこ」である。どちらも現実に直面していない。真の問題は日米関係であり、アメリカからの日本の自立である。というのである。(中略)沖縄返還問題にせよ、ベトナム戦争問題にせよ、その根本にあるものは、日米安保体制によって日本の平和も高度成長も可能になっているという事実であった。そのおかげで日本は「冷戦」から目を背けることができただけである。この欺瞞が、利己心や金銭的貪欲さ、責任感の喪失、道義心の欠如といった戦後日本人の精神的退廃をもたらしている、というのが三島の主張であった。三島は精神の道義を戦後日本が失ったのではないかと問うのである。フランスの68年は、ポストモダンという思想を生み出したが、日本(の新左翼運動)は何も生み出さなかった。そして日本の左翼主義は「平和憲法と民主主義を守れ」に回収されてしまった。(以下略)」これが佐伯氏の主張である。
 この佐伯氏の主張に私はある種の怒りを感じた。確かに当時の学生運動は「革命ごっこ」であったかもしれないし、三島の主張と両極にあって通底するものがあったかもしれない。しかし、肝心なことは、佐伯氏自身はそうした歴史の渦中にあって、何をしてきたのだろうか?ということだろう。学生運動や三島の自爆テロを「離れた少し高い場所」から見ていた傍観者だったのではないか?だからこそ、いま「欺瞞を直視する」などと偉そうなことがいえるし、「私は68年はさほど評価しないが、今日の大学や学生文化にはないものがあった。それは社会的な権威や商業主義からは距離をとり、既成のものをまずは疑い、自分の頭で考え、他人と議論をするという風潮である。その自由と批判の気風こそかけがえのない大学の文化なのである。」などと上から目線で言えるのだろう。
 佐伯さん、あなたは「全共闘の暴力への傾斜」に共感を持ちながら「うまく行くはずもない」と思ったそうですが、それでは自分たちの目指すことを信じて、苦闘し、一敗地にまみれて泥沼をさまよい歩いたことがあるのですか?
  真実とはそういう苦痛に充ちた試行錯誤の中からしか把握できないのではないですか?アメリカからの真の自立を目指すことが、戦後日本人が失った「道義の精神」を取り戻すことになるのですか?戦前の日本人が本当に「道義の精神」を持っていたのですか?「道義の精神」が「お国のために敵兵を一人でも多く殺せ!」と導くのですか?
  カネの亡者になっているのは日本人だけなのですか?アメリカも中国もロシアもみなそうではないのですか?それは何故だと思いますか?フランスの68年はポストモダンを生み出したが日本の左翼運動は何も生み出さなかったとはよく言いますね。あの運動で挫折した人たちの中には確かに「まるでピクニックに出かけるようにデモに参加していた」人たちも多く、そうした人たちはいまや社会の中間層や上層部に安住しています。しかし、あの運動に参加していた人たちの中にはいまでもその苦痛に充ちた経験と反省から真実は何かを学び、世の中を新たな方向に動かそうとしてもがいている人たちがいることなどご存じないのでしょうね。

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2018年4月26日 (木)

「新デザイン論」(仮題)執筆中

 このところブログへの投稿頻度が落ちていますが、それは次の様な事情からです。

 現役をリタイアしてからの10数年間書き綴ってきた膨大なノートとブログの中から、デザインに対する私の考察をピックアップし、まとめて一冊の本にしたいと思い、少しづつ書き進めています。

  前作「モノづくりの創造性」(井上勝雄氏との共著で海文堂から2014年に出版)が私の努力に反して配本業者の判断から300冊ほどしか印刷されず、ごく限られた書店でしか入手できないという事態となり、残念な結果となりましたが、今回の本も脱稿しても、出版してくれそうな会社が見つかるかどうか分かりませんので、ひょっとすると自費出版という形になるかもしれません。オカネがない私にとっては厳しいことになりそうです。
 儲かる著書しか発行しないといういまの出版・配本業者の態度は、いまの時代を反映しています。この状態では、何か目立つことをしてマスコミで話題にならなければ自分の意見も世間にその存在すら認めてもらえないという状態が定着し、地味な研究や考察はたとえこれが次の世代にとって貴重な見解を含んでいても、埋もれて行くしかないのかもしれません。
 それでもこの膨大なノートやブログの内容をまとめて筋道の通った形にまとめて一冊の本として残したいという気持ちが強いので、私は書き続けるつもりです。最近は高齢のため視力も体力も衰え、長時間のパソコン入力作業にも耐えきれないことが多いのですが、この仕事が私のデザイン研究の集大成でもあり、いわば「遺書」になるかもしれないという思いからこの孤独な作業を一生懸命続けております。
 いまのところ14万字ほどのボリュームですが、これにさらに抜けた内容を補填し、それを添削して筋の通った内容に圧縮し、図表などを入れ、参考文献や資料のリストを整えていくつもりです。あと何ヶ月掛かるか分かりませんが完成まで何とか頑張りたいと思います。

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2018年2月 4日 (日)

NHK-TV日曜討論「AIはどこまで進歩するのか?」を観て

 今朝のNHK-TV日曜討論で「AIはどこまで進歩するのか?」というテーマで、政府の研究推進機構関係者、大学の様々な分野のAI研究者、AI企業のチーフなどが一堂に会して討論を行っていた。当然ながら討論者がいずれも30代〜40代の若い人たちであったのが印象的だった。
 そこではそれぞれの立場からAIの現状と未来についてが述べられていたが、やはり、人工知能が人間の仕事を奪うのではないか、人類はやがてAIに支配されてしまうのではないか、という不安にどう向き合うかが中心的話題となっていた。要するにAIが進歩すれば人間とは何なのか?という根源的テーマがより重要な課題としてわれわれに突きつけられるようになるということである。
 私のこの問題に対する基本的考え方はすでにこのブログの1月7日の欄に「AIが人工知能であるということの再確認」というタイトルで述べてあるのでここでそれを繰り返すことはしないが、今朝の討論を観ていて気になったことを挙げてみる。
 それは、AIがやがていまの人間の労働の半分近くの種類をこなしてしまう様になるだろうというかなり確実な予測が示されていながら、一方では、諸外国との秘術開発競争に後れを取らないようにすることが必要だとする主張が大半を占め、他方ではどのような立場でAIを開発するかと、AIをどう使うかという両面から倫理の問題を考えるべきだという主張が大半を占めていたことだ。
 この問題を考えるために、ここで産業革命の歴史を顧みる必要があると思う。まず中世的な職人工房が商人に支配されることで、職人の仕事が「合理化」のために分業化され、職人は本来の「つくることの目的意識を奪われ、「売れる商品」をつくるという商人の目的意識に自らの労働を奉仕させられるようになった。また、農民達は生産手段である農地を奪われ、工場労働者として資本家企業に雇用されるようになり、そこではやはり売るための商品を作る労働に奉仕させられた。やがて工場内の労働は資本家的効率化のため細分化され、そして最後にその細分化された労働は資本家的「合理化」によって機械に置き換えられ、そこに働く労働者達は相対的剰余価値増大のための犠牲として放逐された。
  こうして19世紀の資本主義社会は機械制大工業を生み出したのであるが、やがて20世前半には電気や化学の技術が支配する「第2次産業革命(人体でいえば脈管系の社会インフラ技術の革命)」があり、その後石油などによる内燃機関の普及によって交通運輸面での社会インフラ革命があった。そして20世紀後半にはコンピュータの普及とインターネットの開発により、大量の情報やデータが瞬時にやりとりできる体制が出来上がり、 人体でいえば神経系統にあたる部分の「第3次産業革命(いわゆるIT革命)」が訪れ、それがAI技術と結びついていまの「AI革命」をもたらしているといえる。そしてこれらの産業革命においてはいずれも大量の労働者が「合理化」により解雇されたり転職させられているのである。
  AIを資本主義的産業のいわば最終段階の「合理化」という視点から観れば、現状のAIは資本主義経済での企業のいわば「必然の法則」の結果であろう。
 これらの歴史的流れはいずれも資本主義経済下での市場競争がモチベーションでありいずれも人格化された資本の意志である資本家的目的意識による「合理化」の結果である。
 だからそこに共通するものはどれも社会を支えるために働く労働者自身の目的意識ではなく、それを資本蓄積の手段とする階級の目的意識によるものであるといえるだろう。
 したがってどのようなAIを開発するかという立場もそれをどう使うかという立場も基本的には同じ目的意識の下にあるといえる。
  しかし、こうした主客転倒した矛盾的発展史の結果生み出された技術的成果であるAIを社会共通の問題を解決する立場でそれなりに用いようとする立場はもちろん擁護されるべきである。
  だからAIの倫理とはまず第一に、それが社会を支えるために働く人たちにとって本当によりよい生活(労働内容を含めて)や社会をもたらすのかどうかという判断基準のもとでつくられる倫理でなくてはならないし、それは決して企業間の国際競争に勝つための手段という立場ではありえない。
 第二に、その倫理は「企業が利益を挙げることによって国民が潤う」という間違った論理に立つ政府機関によるトップダウン的視点であっては決してならないということである。あくまでこの倫理は労働者の立場つまり現場で働く人々のボトムアップ的視点からの倫理でなければならないと思う。
 その意味で今朝の日曜討論のメンバーの中では名古屋大学で哲学専攻の久木田准教授の主張が私には一番親近感があった。

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2018年1月 3日 (水)

2018年世の中はどうなるのだろうか?

 2016年末にこのブログで2017年の予想を書いたが、「当たらずといえども遠からず」であったと思う。事態は昨年とほとんど変わっていない。相変わらずアメリカは中東問題などでトランプに振り回されているし、中国は習皇帝のもとで「一帯一路計画」などの大看板を掲げ、日本もそれに追従する構えだ。ロシアはシリアを使ったIS掃討作戦で一定の成果を上げ、EUやアメリカに対峙している。

 世界経済は近年になく「好調」なのだそうだが、何が「好調」かといえば、グローバル資本を私有する大資本や投資家たちが大儲けしながらますます競争を激化させ、世界中の労働者や農民達はそこからわずかな「おこぼれ」を頂戴して何とか生き延び、もっとも搾取されている人々はそれにもありつけずにニュースにもならない裏の世界の片隅で惨めな抑圧・貧困や死を迎えざるを得なくなっている。
 日本経済は政府の借金1000兆を誰が責任もって払うのかがまったく分からないまま「異次元金融緩和」のジャブジャブマネーによる株価や不動産の高騰でぼろ儲けする連中が続出し、外国からの富裕層観光客が落としていくマネーにありついた人々が「リッチ」」になっていく。その陰で、細々と年金生活を送るかっての企業戦士たちは国の借金の行方に明日をもしれぬ不安に脅かされ、資本家同士の競争に負けた企業から放り出された若い労働者たちは、これまた明日をも知れぬ不安な生活を送っている。
  解体されてしまった日本の労働者階級のパワー、そして「消費者」として資本家のもたらすモノ(商品)を消費することだけに生きがいを見いだす「中間層」上層部の人たち、そしてそれを「平和で豊かな生活」として演出し、それを護るために軍隊が必要であるという思想を支配的にしてしまった政権、これがいまの日本である。
 TVや新聞は「売らんかな」の派手な広告で彩られ、繁華街でも「何とかセール」で人々がごった返し、世の中は華やかな繁栄の中にあるかのような幻想が演じられている。
 なんという空虚な繁栄だろう!!これが本当の平和な世界の姿なのだろうか?
2017年はロシア革命100年の年で、今年は明治150年の年なのだそうだ。もはやあの革命の時代は遠い過去になってしまったようだが、それだけ世の中に鬱積した問題がじわじわと増しつつあるように思える。
 さて2018年はその鬱積した矛盾がどのような形で噴出するのだろうか?おそろしくもあるが、それが歴史の必然というものかもしれない。
 

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2017年10月19日 (木)

mizzさんからのコメントへのお応えと改めて「子羊」さんに向けて

 前回の「迷える子羊さんからのコメントに対するお応え」にmizzさんからコメントを頂いた。このmizzさんのコメントと同時に「迷える子羊」さんにももう一言お伝えしたいと思います。

 mizzさんがおっしゃる様に、個人投資家向け金融商品は国内外投資による「リスク分散型」という面だけが強調されて40年後には確実に巨額の老後資金が形成されるかに言いますが、実際には国際情勢やそれによる金融市場や為替市場全体の変化が必ずあると見るべきで、むしろそのリスクの方がはるかに大きいと考えるべきでしょう。
 それはそうだとしても、現代の若者が消費に興味を持たないという事実は、私にはある意味で世の中の「虚偽」を若者世代が見抜いているとも思えます。クルマなんか必要なし、次々と売り出される高価な新製品も買い換えるほど経済的に余裕もないし、買うことが馬鹿馬鹿しくなってきている。もっと手近なもので結構生活は楽しめる、という感覚は、資本家達が若い人たちからその給料の大半を次々と売り出される新製品の購入に充てさせ、莫大な利益を上げようとしている思惑が見事に外されている様に思えます。こういう若者達の感覚はある意味で正当だと思います。際限のない消費拡大なんてまったく馬鹿げているし、結局それが地球環境の破壊に手を貸すことにもなるからです。
  ただ、せっかくそういうある意味で正当な「消費しない生活」をしている反面でやはり将来への不安から毎月かなりのオカネを個人投資に注ぎ込んでいるというのが何だか悲しい気持ちにさせられます。
 若者の将来への不安が自分たちの労働の結果によって保障されるべきなのにそれがそうなっていないからでしょう。だから自分が働いて得た生活費としての賃金からこうして投資に回して将来に備えなければならないのだと思います。資本家企業が行き詰まって資本主義経済体制の中で「機能資本家」として必死になって会社のために利益を上げ、競争に勝たねばならないという「使命感」に燃えていること自体が世の中を行き詰まらせていく結果になっている。しかしその実態を明らかにせず、若者達にあまり多くない賃金から将来の備えを生み出すために「有利な投資」を薦めることで、若者の不安感をそういう形で覆い隠し、その一方で金融企業がオカネの回転を促進させることで、資本主義経済体制の「血液循環」を良くさせようという自負とともに自社の利益をも上げていこうというわけです。
 こういう先がない、もう崖っぷちに立たされている資本主義経済体制の最後の悪あがきが現在の見かけ上の「好景気」なのです。この見かけ上の「好景気」を生み出すために世界中の資本家グループ(グローバル化した資本が人格化した人々)は、必死になって株価のつり上げを行い、金融緩和を行って流通貨幣量を増やしてオカネの回転を良くしようとしているのです。だから「インフレ政策」が必要で、「消費が拡大しないと経済が成長しない」ことになるのです。物価が上れば消費が減るのが当然で、これ以上インフレになれば消費はますます縮小するでしょう。完全な矛盾です。
 その中で投資信託企業が薦める個人投資が思惑通り40年後に巨額のリターンを生み出すことなどあり得ません。
 NISAなんかに騙されている若い人たちはそういう矛盾に気づいてください。そして馬鹿げた無駄な消費などしなくても健全な生活が保たれ、労働者が互いに社会を支え合うために働いた結果生み出される社会的富が、私的企業の資本蓄積を増やすのではなく、社会保障や老後の生活保障を行える社会共通ファンドとして用いられる様なまっとうな社会を築くために力を注いでください。
 この衆議院議員選挙がその意志表明をするためには一つの機会です。

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2017年10月18日 (水)

「迷える子羊」さんからのコメントにお応えして

 「迷える子羊」さんからコメントを頂いた。私の前回の「すでに過剰生産恐慌状態のアベノミクス」というブログに対してですが、私の「一流大学コースに乗ることができない若者達はその段階で中間層や富裕層への道を閉ざされ、一人前の生活者としての生活もあきらめざるを得なくなる」という一文に違和感を感じられたようですね。

 まだ20代の「子羊」さんは、月収20万で「消費しない」独身生活を楽しまれ、月7万を投資に当てておられるというのだから決して「貧困層」ではなく、典型的「中間層」といえますね。そして少額投資を続けていけば将来は8000万もの財産が獲得できるということでそれを老後の資金に回そうと考えておられるようですね。実に堅実な人生計画を立てておられる様で、正直いって大変立派な若者だと感心しております。

 確かに「一流大学コース」に乗れなくても「子羊」さんのような堅実な人生計画を立てて生活することはできると思います。そういう意味では私の言い方が間違っていたかもしれません。おそらく今の安倍政権が「現在のアベノミクス体制のもとで安定した生活を送っている若者が多いのは事実だ」とおっしゃるケースの典型でもあると思われます。そこでご指摘頂いた野村総合研究所のサイトと金融庁のサイトからのデータを覗いてみました。その結果次の様なことが分かりました。

 野村総研では金融市場のマーケット対象を「超富裕層(5億円以上)」「富裕層(1億円以上)」「準富裕層(5千万〜1億)」「アッパーマス層(3千万〜5千万)」「マス層(3千万以下)」という5つの階層で分類していますね。そして2015年には「超富裕層」の世帯数が7.3万世帯、「富裕層」が114.4万世帯、「準富裕層」が314.9万世帯、「アッパーマス層」が680.8万世帯、「マス層」がなんと4173万世帯いることになっています。つまり「アッパーマス」以上の層の4倍近い世帯が「マス」層に含まれています。また図2ではこれらの階層の純金融資産保有額の規模と世帯数の2000年〜2015年の推移が表になっていますね。これを見ると、「準富裕層」から上の階層ではアベノミクス下の株価上昇の恩恵を受けて、金融資産が増大し、「準富裕層」から「富裕層」に移行した世帯も増えているようです。つまりお金持ちは投資に資金を回してよりリッチになり、中間層以下の世帯は株式投資で儲ける人は少なかったといえるでしょう。つまり金融資産蓄積上でも「格差増大」は実証されているということでしょう。

 そこで金融庁は我が国の「マス層」の金融資産が欧米に比べると預貯金優先度が多く、これをNISAなどの少額個人投資に回させようと考え、それが「マス層」の人たちにも株価上昇の恩恵をもたらすと同時に、金融資本が潤い、人々の購買力が高まり、デフレが解消されて経済の「好循環」がもたらされると考えているだろうと思います。

 しかし、実状は別のグラフによれば、 「高度成長期」の恩恵を受けて1972年〜1987年に5%辺りで最低水準だった金融資産ゼロ世帯数が、その後どんどん上昇し続け、2014年にはなんと30.9%まで行っています。金融庁では「マス層」の中の年収1千万以下の下層に属する層を4つに分けてその金融資産ゼロ世帯の年度別推移をグラフにしていますが、それによると年を追うごとにこの4つの階層での格差が大きくなり、2014年には年収300万未満の層では42.2%なのに対して年収1000万以上の層では12.7%に留まっています。つまり「貧困層」ほど金融資産ゼロ世帯の増加率が高まっているということです。

 こういう実状を見ると、どうも「子羊」さんのような中間層でも労働賃金を投資に回せるだけの余裕がある人もいますが、とてもそんな状況ではない「貧困層」の人たちがどんどん増えているということだと思います。たとえ月収20万であっても、家族を養うため少額個人投資なんかにオカネを回す余裕はなく、毎日の暮らしや子育てをまともにできるようにすることのほうが先だ、と考えている人がどんどん増えているのではないでしょうか?

 さらに言えば、この金融庁の方針では長期に渡る海外・国内企業への分散投資によってリスクを少なくして多くの「リターン」を期待でき、それが同時に開発途上国への投資を通じて経済発展や為替市場の安定に寄与することになる、としていますが、この主張自体がすでに危うい状況です。

  この主張はあくまでいまの世界経済が行っている金融市場や為替市場への各国政府のコントロールがうまく機能していることが前提ですが、すでに私の前回のブログでも書いたように、実質的に先進資本主義諸国(中国も含めて)は「過剰生産」状態であり、この過剰生産を過剰消費(不生産的消費)で 回して行かないと成り立たない経済体制になっています。そしてそのこと自体が資源枯渇や地球環境の破壊をもたらしているのですが、こうした状態も前述のように「貧困層」が日本やアメリカなどの先進資本主義国で増大して行くことにより「消費拡大」どころか「消費縮小」に向かわざるを得なくなっているのです。

  現実にこれらの国々で「消費拡大」に寄与しているのは主として「アッパーマス層」以上の人たちでしょう。トランプ大統領を支持しているの層が賃金を生活費に回すのが精一杯という現状に不満を持つ「マス層」以下の人たちであるのもそのことを示唆しています。この体制が続けば、いずれいつかはこの世界経済体制は崩壊するだろうと思われます。そのときになって、それまで蓄積してきた個人金融資産は貨幣価値の暴落とともに減ってしまうか消えてなくなる可能性もあるのです。

 また、子育てや家庭というものに興味がないあるいはそれが煩わしいと考える若者が多いのも知っています、しかし、そういう考え方の若者が増えていけばいずれは自分たちの老後の生活が孤独で経済的にも苦しい状態に追い込まれることになるのではないでしょうか?苦しくてもこどもを生み家庭を持ちたいと望んでいる人たちに次世代のことは任せておいて、自分は自分の楽しい生活が送れればいい、と考えるのは果たしてどうなのでしょうか?私が「一人前の生活者」と言ったのは、共に社会を支え合い生きて行くのが人間の本来の姿という意味で、次世代を育てることも含めて他者の生活とともに自分の生活に存在意義を見いだせる様な生き方を指しています。

 

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