日記・コラム・つぶやき

2017年4月14日 (金)

資本論を理解することの私なりの意味

 もう半世紀近く前の話ですが、私はかつて学生運動をやっていた友人に触発されて資本論を読み始めたのですが、第1巻まで読み終わったところで自分の生活状況の変化などからずっとその先を読まないままでいました。その間宇野弘蔵の経済原論や価値論などから多くの資本論研究の成果を学び、私なりにある程度理解が進んだ様に思っていました。しかし、その後いわゆる「社会主義圏」の崩壊、そしてアメリカを中心とした資本主義が世界を席巻することになり、それによって「(アメリカ的な)自由と民主主義」という社会観がいわば普遍化されていく中で、資本はグローバル化され続け、その矛盾がありとあらゆる場所で様々な形で噴出するのを見ていて、再び資本論をキチンと読み直そうと決心しました。

 ちょうど学生時代の先輩からある資本論購読会を紹介され、そこに加わりましたが、そのグループは宇野弘蔵のマルクス研究を評価せず、「俗流経済学者」と決めつけていたので、宇野経済学から多くのものを学んだ私には抵抗感がありましたが、資本論をキチンと理解しようとする真摯な姿勢に私は共感しまた。その会を通じて私は初めて難解な第2巻の前半部をなんとか読み終えることができました。これはおそらく自分一人では難しかっただろうと思っています。後半の再生産表式を巡る理論に関してはすでに一部読んでいたのと宇野経済学から学んだ知識もあるので、前半ほど難渋はしないで済むのではないかと思っています。そして第3巻までなんとか読み終わりたいと考えています。
 こうして資本論を読み進むことによって、マルクスの分析の科学的・論理的冷徹さをますます感じ始めました。これはいわゆる「選択肢としてのイデオロギーの一つ」などという範疇をはるかに超えて、自然史的レベルまでをも視野に入れた研究・分析だとわかります。しかもそれは単なる現実社会のへの「科学的理解」だけではなく、同時に人類社会の未来とはどのようなものであるべきかを指し示す社会科学的根拠をもたらす、実践の基盤になるものだと思います。これを安易な「理解」で歪曲したり、無視しようとすることは簡単でしょうが、そんな歪曲や無視はいずれ歴史からしっぺ返しを受けることになるでしょう。
 もちろんマルクスの研究成果をさらに発展させるための批判は必要で、それが生産的批判であるためには、現実社会が歴史の中でどのように展開されているのかをつぶさに見る必要があります。マルクスが死んで130年以上も経ち、激動の20世紀を超えて現在があります。この歴史過程の中でいま目の前で起きている矛盾に充ちた事実をどう理解するのか、そのとき、マルクスの研究成果が必要になり、しかもそれをできうる限り理解して自分のものにしているべきなのだと思います。
 そしてその理解された限りでの理論を武器として目の前の現実社会で起きている矛盾を分析し、問題の根拠と構造を解明し(現状分析として)、それを表明することがまず必要です。その上でそれを巡ってのディスカッションが必要で、こうした過程を経て、資本論への理解が進むと同時にその成果をさらに高いレベルに発展させることができ、私たちの目指すべき未来社会の姿が具体化されていくのだと思います。
 イデオロギーはこうした真摯なディスカッションを経た冷徹な論理・科学的理解のうえに築かれる思想としてあるべきであって、独断的な解釈やトップダウン的決めつけによる「イデオロギー主義」や、感性だけに訴えるどこかの宗教を信じることと同じではありません。
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 このような考えで私は不十分な理解と承知しながらこのブログ上で自分の分析や意見を表明してきましたし今後も続けていくつもりです。しかし知名度が低いブログであるせいか、読者からの批判やコメントが少なく、肝心のディスカッションはあまりできていません。その点は残念です。

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2017年4月 2日 (日)

内閣府世論調査の結果をどう考えるか?

 4月1日に内閣府・社会世論調査の結果が発表された。その主な内容は以下の通り。
 
  現在の社会に全体として「満足している」との回答が65・9%で、前回調査(平成28年2月)から3・9ポイント増加した。質問を始めた21年以降で最高となった。一方、「満足していない」は3・9ポイント減の33・3%で、過去最低だった。
 満足している点は「良質な生活環境」が43・2%で最も多く、「心身の健康が保たれる」(27・0%)、「向上心、向学心を伸ばしやすい」(17・8%)、「人と人が認め合い交流しやすい」(17・1%)、「働きやすい環境」(15・7%)などが続いた。反対に、満足していない理由のトップは「経済的なゆとりと見通しが持てない」(43・0%)だった。
 民意が国の政策に「反映されている」と思う人は、4・7ポイント増の34・6%で、過去最高水準に迫った。日本が良い方向に向かっていると思う分野では「医療・福祉」(31・4%)、「科学技術」(25・8%)、「治安」(22・0%)などが上位に挙がった。
 というわけであるが、これは18歳以上の人、1万人に面接方式で調査し、5993人から回答を得た結果だそうだ。つい先日世界「幸福度」ランキングで日本は51位、先進国で最下位だったという記事が新聞に出ていたばかりである。4月1日だからエイプリルフールの悪戯ではないかと思われた人も多いだろう。サンプリングは本当にランダムだったのだろうか?安倍首相を喜ばせる結果である。しかも森友学園問題などでさんざんマスコミに取り上げられていても安倍政権の支持率は下がっていない。これはどういうわけか?
 確かにいまの日本はシリアなど中東諸国の悲惨な現状からみれば「夢のような国」であるかもしれない。「安全・安心」が叫ばれ、「便利さ」が優先され、「サービス」が過剰なまでに演じられる社会である。日々の暮らしの中で特に深く悩んだり将来のことを心配したりしなければ、スルスルと毎日が過ぎて行くからだ。
 一方で子供の貧困が深刻化し、一人親の家庭は子供にまともな教育も与えられず、生活苦に喘いでいるし、非正規雇用やアルバイトで生活する若者たちは自分の存在意義に疑問を持ち、将来の不安を抱えながら結婚もする気が起きず日々鬱々として生活しているし、増え続ける高齢者が増えない介護予算や介護者の減少への不安を現実としながらも半分あきらめの境地で何とか日々生きていても、TVを観れば楽しい娯楽番組やスポーツなどで気を紛らわすことができるし、若者はスマホでゲームをしたり互いにおしゃべりし合っていれば気持ちも紛れる。
 マスコミ界ではどこでも「すばらしいニッポン」をテーマに日本の伝統的事物や習慣を称え、技術の素晴らしさを称え、外国人が日本を称えていることを伝える。そしてスポーツでも「がんばれニッポン」の大合唱が持ち上がる。私たちは「ニッポン」という良い国に生まれ育って良かったと思わせるための一大キャンペーンとして行われている。こうした雰囲気の中で「暗い面ばかり見ないで前向きに生きよう!」というメッセージがどんどん浸透する。
 それはそれで否定する気はないが、これがどういう背景や暗黙の意図のもとに行われているのかも問題だろう。わざわざこうした一大キャンペーンをしなければならないほどその反面の日本は深刻で未来を描けない暗い状態なのである。 この一大キャンペーンが行われる中で日本の本当の姿は見失われ、この深刻な状況に正面から取り組もうとする人が少なくなっていると思われる。その結果「現在の社会に満足」と考える人が増えているのだろう。
 ちなみにこの世論調査の後半ではこういう結果がでている。
 現在の社会に満足していない理由のトップは「経済的なゆとりと見通しが持てない」が43・0%だった。一方で「国を愛する気持ちが他人と比べ強い」と答えたのは55・9%、「弱い」が6・0%で、ともに横ばいだった。国を愛する気持ちを育てる必要があるかについて「そう思う」との回答は73・4%で、23年(81・0%)以降、6年連続の減少となった。
 「経済的なゆとりと見通しが持てない」43%の人は貧困層かそれに近い人々と考えれば、 「国を愛する気持ちが他人と比べて強い」と答えた55.9%の人の何割がそれに属するのだろうか?いずれにしてもその割合は減少しつつあるのだ。
どちらにしても「国を愛する気持ち」とその反面である他国や他民族を排斥したり低く見ることとの矛盾関係をどう克服するのか?そもそも「国」という抽象的概念とその国に暮らす一人一人の具体的人間の間にある巨大なギャップをどう考えるのか、といった大きな問題はどこかにぶっ飛んでしまっている。

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2017年4月 1日 (土)

コメントにお応えして

 mizzさんから久しぶりにコメント頂いた。朝日朝刊の小熊氏の論壇記事への私の意見に関してである。

 おっしゃるとおり、たとえ非正規雇用労働者の時給が2,500円になったとしても彼らが正規雇用を選ぶか非正規雇用を選ぶかではなく、雇用する企業側の問題なのだ。労働者が自由に自分の雇用者を選ぶことは資本主義社会ではできない。
額面上はそうなっていて、就活などでもインターネットで自分の行きたい会社を選んで就職試験を受けに行くが、そのときすでに自分がその会社に雇ってもらる可能性の予測のもとに出かけるだろう。卒業大学の「ブランド価値」、専門領域、年齢などなど雇用者が注目してくれそうな項目を自己評価して出かけるだろう。
つまりそこではすでに企業の選択基準を先取りしているし、企業はそれを見越して求人している。いわく「やる気があるか、職場での人間関係をうまくやれるか、企業にとって手足まといにならないか」などなどである。そして大学や高校でもこうした企業の選択基準に合わせるよう学生の就職訓練を行う。
結局選ばれたほんの一握りの学生だけが「企業を選ぶ」立場になれる。残りのほとんどの労働者予備軍は希望に添わず条件が悪い会社でも黙って従わねばならなくなる。しかもその選ばれた一握りの学生でさえ、自ら資本の論理のもとで将来は労働者を雇用していかに効率よく働かせ、企業の利益を上げるかを考える立場になるのである。人格化した資本として。
 資本主義社会の労働者は資本家企業に雇ってもらえなければ生きていけないため、こうして圧倒的に弱い立場であるし、教育の過程でさまざまな個性がつぶされながら企業の求める人材、つまり優れた労働力商品としての条件に合わせて、本来の自分の個性を殺していかねば生きていけないのである。
 ところで、最近のニュースでは国内の失業率が過去最低レベルまで下がり、雇用が増大したそうである。しかし、その内実は、非正規雇用労働者が仕事に耐えられず、どんどん辞めていくため、つねに人手不足が起きており、非正規雇用労働者は条件の悪い企業を渡り歩きながら生活せざるを得ないという状況があることを忘れてはならないだろう。つまりいま労働力市場では労働力が不足しているが賃金が上がらないという状況が生じているのである。それが証拠に失業率が減っても賃金水準は少しも上がっていない。

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2017年3月30日 (木)

朝日新聞「論壇時評」小熊英二氏の「思考実験」の落とし穴

 今朝の朝日新聞「論壇時評」に小熊氏の「思考実験:労働を買いたたかない国へ」と題する評論が載っていた。

 最近の日本が経済停滞、長時間労働の蔓延、格差増大、少子化の進行などで「幸福度」が先進国中で最下位になっている現状に、ある仮説を立ててこれらの問題をまとめて解決させる政策を考えてみようというものだ。
 それは、非正規雇用の時間給最低賃金を正社員の給与水準以上にすることだという。これは、従来正規雇用の方が給与水準が高いのが常識であるが、実はその根拠はなく、むしろ非正規の方が、社会保障や雇用安定の恩恵がない分、給与が高くても良いと考えるべきだという。例えば非正規の時給を2,500円にすれば、一日8時間労働で月収44万ほどになり、正規雇用との格差は減り、「安定しているが賃金と自由度が低い働き方」と「不安定だが賃金と自由度が高い働き方」という相違となり、正規雇用にこだわる理由が少なくなる。
 その結果、親の介護や子育てで一時離職しても不利になりにくく、ボランティア活動などもしやすくなり転職もしやすくなる。また人的交流が活発化し、アイデアや意見の多様性も高まるし、起業もしやすくなる。また給料が上がれば結婚もしやすくなり子育てもしやすくなる、というわけだ。そしてこうした賃上げのための財源は不要だという。賃上げで購買力が増え、GDPが上昇し、税収も増えるからだという。ただし、こうした高額な最低賃金が払えない労働生産性の低い企業は淘汰され、大幅な業態変更を迫られる。つまりその程度の痛みは仕方ないということのようだ。
 さて、この仮説は一見良さそうに見えるが大きな落とし穴がある。それは、なぜ日本では非正規雇用の賃金が正規雇用より安くなっているかその理由を考えてみれば分かる。
  それは現在の日本では非正規雇用に代表される低賃金労働がなければ日本企業が国際市場での競争に勝てないという事情があるからだ。一方では正規雇用労働者が「正規」ゆえに長時間労働や残業手当なしなどの過重労働などに駆り立てられ、責任を負わされこれに耐えられずに過労死や自殺が増える。そして他方では正規雇用が負い切れない分の労働は低賃金の非正規雇用労働者が担うことになる。
 労働賃金は労働市場によって決まる労働の価格であって、市場での需要供給関係で決まる。正規雇用は将来経営陣にもなりうる幹部候補でもあるため、一流大学出の優秀な学生を求める狭き門であり、正規雇用労働者になるための受験戦争ですでに労働予備軍の競争が行われ、そこでは受験産業という資本がこれを利用して利益を上げている。そして受験戦争に投じるお金もなく、フツーの人間である若者たちがこうした競争からふるい落とされ多数派になっていくため、非正規雇用労働市場にあふれる。だから非正規雇用は低賃金なのである。
 ちなみに最近移民問題でもめているEUやアメリカでは日本での非正規雇用労働にあたる社会の底辺を支える労働を担うのが移民労働者であり、彼らは母国に比べれば賃金水準の高い国でその国では低賃金である労働にも耐えるのである。日本では移民労働者が少ない(とはいうものの「研修生」の名目で低賃金労働をさせられている外国人労働者がたくさんいるが)ためにその分日本的な非正規雇用労働者が必要なのである。
 だから時給2,500円の「自由な」労働者なんて言うのはあまりにあまい考え方であり、実際ありえない。それが証拠に、安倍政権でも最低時給アップが叫ばれ、賃上げが叫ばれたが国際市場で高い競争力をもつ大企業で賃上げがあった他は実質的な賃金はほとんど上がらず、非正規雇用の時給最低額も数十円しかアップしていない。
  「働き方改革」などお題目だけで、実質的残業時間は少しも減らないだろう。公務員や大企業の恵まれた正規雇用労働者だけが「プライムフライデー」などを楽しんでいるに過ぎない。
 そして安倍首相が、労働賃金が上がり労働者の購買力が増えればGDPが増加し税収も増える(小熊氏もそれと同じことをおっしゃるが) 、という名目で実行した「アベノミクス」も惨憺たる状況で莫大な赤字国債を増やし続けながら事実上破綻している。
  結局は社会保障予算を削減し、高齢者が増えているにも拘わらず公的介護の予算が増えず、老親の介護のために勤めを辞め、非正規雇用で食いつながねばならない人が増え、生活保護を受けなければやっていけなくなった人たちにも生活保護支給額が減らされていく。
 この現実を見ず、非正規雇用の時給大幅アップですべての問題が解決するなどと考える「思考実験」は馬鹿げている。
 「労働を安く買いたたかない国へ」とおっしゃるが、「労働を安く買いたたくことで経済的に成り立っているのが、市場での無際限の競争を前提にした現代の資本主義社会なのである。

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2017年3月 7日 (火)

網走「ラーゲリ」と流氷の日没

 遠い親戚の学芸員が責任者となって展示された北アメリカ北方先住民の展示を観に網走に出かけた。そのついでにオホーツク文化の遺跡や、旧網走監獄などを観てきた。

 北方先住民の解説・展示もなかなか面白かったが、旧網走監獄の遺構はなかなか見ごたえがあった。ここは元あった場所から移築再現され、放射状に造られ中央に監視所がある監獄の姿は市の観光の目玉となっている。
 「網走番外地」で有名なので名前だけはよく知っていたが、その現実の姿や歴史に関してはまったく知らなかったので良い勉強になった。
 解説によると北海道の監獄は明治初期の北海道開拓に囚人を労働力として用いるための政策的意味があったそうである。網走監獄には明治10年の西南戦争で敗れた薩摩の兵士等が、いわば「政治犯」としてここに連れて来られ、旭川、北見などと網走をつなぐ道路建設に労働力として使役されたそうである。
 その労働は過酷であり、食物も最低限のものしか与えられず、ただでさえ温暖な薩摩からやって来た元兵士たちは、重労働と寒さのため死者が続出したらしい。使役された労働者の6人に1人の割合で死者が出ている。そして死者はろくに埋葬もされず、建設中の道路の脇に土をかけられて放置された。しかし現場で監視に当たっていた監守たちもやはり過酷な任務をこなさねばならず、徐々に囚人達に同情的になり、ある種の仲間意識すら生まれていたようだ。
 こうして当時の道庁は、過酷な強制労働によりこの難工事をわずか8ヶ月でやり遂げたそうである。そしてその道路が完成した後、今度はそこに屯田兵が送り込まれ、北海道の中央部や北東部の開発がどんどん進められた。
 私はこの話しを聞いて、まずあの「イヴァン・デニーソヴィッチの一日」に出てくるスターリン時代のシベリアの強制収容所を思い出した。スターリンは政治犯(この中には敗戦でシベリア送りとなった日本の兵士たちも含まれる)をラーゲリに送り、強制労働させることによりシベリアの開発を行い、当時の「社会主義経済」を何とか維持しようとした。まさに明治期の網走監獄はラーゲリそのものである。
 こうして兵士や政治犯などが「囚人」として監獄に送り込まれ原野の開拓に必要な労働力として用いるということが北海道「近代化」の基礎として必要だったのだ。そしてそれと平行してアイヌなど原住民の生活や文化がまたたくまに破壊され尽くされていったのだ。
 これらの史跡と同時に網走名物の流氷も観たかったが、残念ながらすでに流氷は知床半島方面に風で流されてしまっていたので、親戚のクルマで斜里、ウトロまで走ってもらい、なんとかその日の夕方には接岸している流氷を観ることができた。
 50年前、学生時代に夏の知床を訪れたことがあったが、冬は初めてであった。当時とは見違えるような大きなホテルがあちこちに建ち、すっかり観光地化されていた。しかし、小高い丘の上から見る、オロンコ岩や枯れ木の並ぶ斜面の向こうに見える流氷は夕陽に映えて美しかった。村は資本主義的市場経済による変貌を遂げたが、自然はやはり以前のままであった。
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2017年2月13日 (月)

NHKスペシャル「隠れた貧困」を観て

昨夜 NHK-TV「NHKスペシャル」で隠れた貧困の実態について放映されていた。

 日本の6人に1人が貧困層(家族月収が20万円以下)に該当するという事実、そして特に子供達にその危機的状況が集約されているにも拘わらず、これが表面化していないという現実である。
 多いのは母子家庭や父子家庭での例である。親が非正規雇用の仕事で複数の職場を掛け持ちで懸命に生活費を稼いでも子供達の食事代や衣料費もろくに賄えず、子供は塾に行くオカネもなく、親が夜遅くまで働きに出ているために家事を子供が行い、子供達だけで食事を摂り、親との接触の時間もろくに持てないということだ。また子供が中学以上の場合は生計を助けるためにアルバイトに出ることが多く、高校生ではアルバイトをしている生徒が全体の半数以上にもなる。そして高校を卒業して職業を身につけようと専門学校に入学しようとしてもその入学金が高額であるため、これもあきらめねばならなくなる。貧困が貧困を生んでいく。
 そしてさらに深刻なのは、こうして親たちの苦労を知り、それをなんとか助けよう子供達も懸命に頑張るが、生活状況は少しも改善されず、その結果こうした状況に対して絶望感が深く静かに浸透して行っているということだ。
 ある県の高校での学生へのアンケートによれば、こうした貧困層に属する学生達の多くは、将来への希望など持てず、自分の存在意義にすら自信を持てなくなり無力感に陥っている。
 やがてこうした子供達が大人になっていっても家庭を持つことに意欲を失い、孤独で貧困な生活を送る可能性が高い。そしてたとえ子供を持ってもその子供達も親と同じく貧困と絶望感絶望感の中で生きねばならなくなる可能性が高い。本当に悲惨な現実である。
 「Nスペ」ではこれを貧困の「負のスパイラル」と言っていたが、それがあまり遠くない将来に社会的には41兆円もの損失をもたらすと言っていた。
 この「41兆円の損失」とはいったい何を意味するのか?誰が損失するのか?41兆円とはどこから出てくる数値なのか?もちろん経済的に何らかの計算根拠がある数値なのだろうが、貧困が社会の損失になるという考え方自体がおかしいのではないか?
 貧困層の子供達が大人になって、もし「立派な労働力商品」になれれば、大資本に雇用されそこで働き、剰余価値を無償で与えることで企業の利潤を上げ、その賃金で商品をたくさん購入でき、商品市場でも企業に利益をもたらしてくれるだろうが、もしこの子たちが貧しい生活を強いられれば、労働力としての質も落ち、生活資料への購買力も落ち、商品市場での企業利益が減り、企業からの税収が減るので社会保障費などに政府の税負担が増大するとでもいう意味なのだろうか?
 要は、こうではないのか?
こうした貧困がなぜ増えていくのか? なぜそれに対していわゆる中間層や富裕層は無関心なのか?そしてなによりも社会全体の在り様に責任がある政府がなぜこの問題を最優先課題として取り組もうとしないのか?
 社会は誰のためにあるのか?誰が社会を支えているのか?なぜ「経済成長」のためにこうした人々が犠牲にならねばならないのか?
 それは「41兆円の損失」などという問題ではなく人間そのものの喪失なのではないのか?

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2017年1月28日 (土)

帽子をかぶった少女像(続き)

 ある公園の孤独で寂しげな少女像について2度ばかり書いてきたが、その後、またその公園に行ってみると、今度は少女の膝の上に松かさがたくさん置いてあった。多分リスのエサのつもりなのだろう。彼女は相変わらずうつろな目でどこかを見つめてうつむいている。

この小さな背中に、この少女がこれから過ごすであろう人生の重さと孤独を感じるのは私だけではなさそうだ。
 ところで韓国の慰安婦少女の像が竹島にも設置されるという。あの悲しげな慰安婦の少女はさんざん政治の道具にされて、挙げ句の果てに日本海の孤島にまで連れて行かれるらしい。寒風にさらされ、彼女の孤独と悲しみはますます深くなるだろう。ほんとうに可哀想だ。
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2017年1月23日 (月)

「ザ・リアル・ボイス」続編で観るアメリカの「自由・平等」の実情

 昨年3月にNHK-BSで放映された「ザ・リアル・ボイス」(このブログでも取り上げた)という番組の続編を昨日やっていた。今回もアメリカ各地にある大衆食堂「ダイナーズ」にあつまる客の声からアメリカ社会のリアルな本音を聞き出そうという番組である。

 今回はアメリカの新大統領に決まったトランプをめぐってアメリカの一般大衆の生の声を聞こうというもので、トランプ支持派が多いとされる「ラストベルト」のダイナー、メキシコからの不法移民が多いとされるアリゾナ州フェニックスのダイナーそして反トランプ派が多いとされるロサンジェルスやニューヨークのダイナーなどでの取材だった。
 まず、ロスやニューヨークでは学生達や女性達が「トランプは我々の大統領ではない」というプラカードを持って大規模なデモを行っている様子があった。そこではトランプ支持派のグループとの激しいやりとりの場面もあった。ダイナーでの本音の中にはこうした抗議の仕方そのものに疑問を持ち、こういう抗議の仕方が対立を深めることになるんだという客もいた。またトランプが大統領に選ばれてしまったのだから見守るしかないと半ばあきらめている人もいた。
 フェニックスでは食うために職を求めてアメリカにやってきた「不法移民」たちと、すでにアメリカの市民権を得ているヒスパニック系移民との間で意見が異なっていた。メキシコとの国境添いに壁を作ることに賛成しているヒスパニックもいるのである。
 そしてデトロイトなどの「ラストベルト」では、かつて「偉大なアメリカ」のシンボルだった「豊かな中産階級」の主役であった白人労働者達が、会社が労働力の安い国へ生産拠点を求めて国内の工場を閉鎖していくため、失業したり転職したりしなければならなくなった状況がある。
こうした人々がトランプを大統領に推す大きな力になってきたのであるが、いまその実情は少し予想とは違ってきていた。
 トランプがメキシコに工場を新設するといっていたGMにクレームを付けたため、GMがそれを撤回してアメリカでの雇用を増やすといったためトランプはそれを「オレの成果だ」と自慢したのだが、実はGMの多くの非正規雇用労働者がその後解雇されている。護られたのは正規雇用の労働者だけであった。そしてダイナーではそれまで親しくつきあってきた労働者達の間で、正規雇用と非正規雇用の溝が深まっていく様子が窺えた。
 こうしたアメリカの現状を見るにつけ、アメリカではこれまで何とか外面を取り繕ってきた「自由・平等」の原則がその内部では実は一度もちゃんと実現したことがなく、しかも徐々にその「たてまえ」と「本音」の間のきしみが大きくなっていっていたことが分かる。「分断」はいまに始まったことではないのだ。ただそれが覆い隠されてきたに過ぎないのだと思う。
 オバマ大統領が就任したときには、本当に「自由・平等」が実現されるかもしれないという期待から"Yes we can, yes I can"が合い言葉になったが、それは結局実現されず、内部でますますきしみが大きくなっていたのだろう。そしてその不満がトランプの「暴言」によって代弁されたため、一気に彼に期待が集まったのだろう。
 こう考えると、アメリカの「自由と平等」がいかに幻想に過ぎないものであったが分かると同時に、その根源に、多民族国家アメリカでのグローバル資本の支配の拡大とそのもとで分断され団結力を削がれてきた労働者階級の現実の複雑さが見えてくる。
 東西冷戦中は社会主義圏に対抗するための国策が戦争で過剰資本から解放され巨額の富を蓄積したたアメリカ資本と結びつき、労働者の生活資料(家電製品・クルマなどを含む)生産をもその資本の成長の一環に組み込むことができたため、労働者階級は「豊かな生活」を謳歌することができたが、その後東西冷戦は終わり、「アメリカ一極世界」となってからは資本が急速にグローバル化し他の資本主義諸国との世界市場での競争を激化させていった。
 そこでアメリカ資本主義は「自由・平等」の看板のもと「世界の警察官」として振る舞おうとする国家指導部と資本の論理のもとで労働者への搾取体制を深めざるを得なくなっていったグローバル資本との間での齟齬が生じていったのだろう。これまでの政権は何とかそれを取り繕って行こうとしたがうまく行かず、いまやその内部矛盾は覆い隠すことができなくなったのだと思う。
 トランプ政権のもとでこうした複雑な問題がうまく解決されるはずがないことは明らかだ。そしてアメリカ社会はいよいよその資本主義社会末期の混乱と苦悶の時代を迎えることになるだろう。

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2017年1月13日 (金)

帽子をかぶった少女像

 昨年12月11日のブログで書いた孤独な少女像のある公園を今日再び訪れてみた。すると何と彼女にかわいい毛糸の帽子が被せられていた。

やはり私と同じようにこの寒さの中で一人さみしげな少女の様子に心を動かされて帽子を被せて上げた人がいたのだ。
世の中捨てたもんじゃないね!
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追記:ソウルの日本大使館前に置かれた慰安婦少女像も孤独で悲しそうな顔をしてますね。
政争の道具にされてしまいさぞかし残念なのでしょうね。日本大使館の人、だれか帽子を被せてあげたら?
追記の追記:慰安婦少女像が置かれたのは釜山の日本総領事館の前でした訂正します。そして今朝の韓国のニュースを見ると、もうちゃんと暖かそうな毛糸の帽子や襟巻きが掛けられていました。もちろんこれは釜山の市民がやったのでしょうが。(14 Jan.)

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2017年1月 6日 (金)

人工知能の「物神化」をめぐって

 今朝の朝日新聞「我々はどこから来てどこに向かうのか」シリーズで「頭脳」と称して人工知能(AI)の進化について述べられている。この記事も他のマスコミの一般的傾向が顕著に顕れており、最近の AI技術の急速な進歩によって数十年後にはAIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」が訪れるというものだ。そしていずれは人間の意識の内容をすべて外部のAIに移すことが可能になり、そうなれば人間の肉体と意識は切り離されて、肉体が死んでも意識は永遠に生きのびることができるようになるだろう、つまり人間はAI装置という機械に置き換えられてしまうだろうというものである。

 ここで問題なのは、人工知能がいつ誰によって何のために生みだされたものなのかである。人工知能は基本的に人間の道具である。しかし肉体的機能の延長としての道具ではなく、脳神経系機能の延長としての道具である。
 歴史を遡れば人類は道具を使うようになり道具を自ら生みだせるようになってから生物学的に急速に進化してきたといえる。特に頭脳はそれによって著しく進化した。しかし、本来道具は自分自身が置かれた状況においてその環境(他者という存在も含む)と自分との間に生じた不適合状態(問題)を解決するための手段として用いられ生みだされてきた。その意味で道具を用いた行為は目的意識的であり、その結果はある意味で自己と環境との関係の表現でもあった。
 ところが、人類の共同体が文明社会として発達し、そこに社会を支配する人々とその支配の元で様々な労働により実質的に社会を支える人々に分割されていった。そこに道具の意味に変化が生じたと考えられる。道具は支配される人々にとっては自分の生活を維持する手段でもあり、支配者の富や支配を維持するための道具でもあるようになった。
  そして資本主義社会が登場するに及んで、人々が生みだす富の私的所有の表象である貨幣や資本が物神化され、それを獲得することが社会的行為の目的とされるようになり、物神化された貨幣や資本の人格化である資本家達の富を生みだす手段として道具が位置づけられるようになった。
そしてこの過程で資本家の元に雇用されそれら資本家の所有する道具を用いて富を生みだす労働者は、その労働力を資本家に売り渡し日々資本家の富を生みだす労働を行うによってしか生きのびることができなくなった。そこでは労働者にとって道具は自分たちの目的を達成させる手段でもなく、それによって自己表現をすることもできない存在として自分たちを支配するものとなってしまった。
そしてその必然として「産業革命」が起きたのである。最初は肉体の延長としての機械が発達し、やがて20世紀になっていわば血管や神経系の延長である電気通信系機器が発達し、最後に20世紀後半になって脳の延長である人工知能が発達したのである。
 現代はその延長線上にあって、資本を生みだす道具としての機械やAIがまるで社会を支配しコントロールするかのようにとらえられるようになった。道具を生みだす技術の物神化である。AIは特にその特徴が顕著に顕れている。
 しかし、こうした形での道具の「進化」においてもそこに潜在する本質的な技術能力というものはおそらく将来的な人類の進化にとって必要不可欠なものとなるだろうことは確かである。しかし、その現実形態はいまの状態ではむしろ人類にとって破滅的な結果を及ぼしかねない。本質的技術力が人類にとって普遍的な力になりうるためには社会の成り立ちそのものが大きく変化しなければならないだろう。
 こうした背景のもとでAIの未来を考えることができないと、まるで人類がAIに乗っ取られてしまうかのような錯覚に陥ってしまう。資本やその物的形態にしか過ぎない機械やAIに奉仕することが生きることであり人類の普遍的姿であるなどと誤解してはいけない。AIが人類に取って代わってしまうなどという妄想はそういうところからしか生まれ得ない。
  一握りの人たちの富を増やすために働くのではなく、一人一人が自分のためにも他者のためにも働いて社会という共同体をともに支えていくことが本来の姿であり、道具はそういう社会でこそすべての人々にとって主体的な目的意識を実現させる手段なのであり、普遍的に人類を進化させる手段になり得るのだと思う。
 これが元人工知能学会のメンバーでもあった筆者の思いである。

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