日記・コラム・つぶやき

2020年7月 4日 (土)

近況

 このところ、COVID-19の第2波がやってきそうなので、また緊張を強いられている。もう4ヶ月近く電車やバスにも乗っておらず、都心へも出かけていない。相変わらずの「引きこもり状態」で運動不足解消のため一日5000歩以上を目標に散歩に出ている。

 家にいるときには、例の「新デザイン論」の原稿修正作業をやっており、読み直せば読み直すほど修正したくなる箇所が出てくるのできりがない。しかし、自分が「コロナ」にやられてしまう前に何とか納得のいく形で完成させたいという気持ちは強いのだが、なんせもう80歳という「末期高齢者」の域に突入したので、頭脳も肉体も目に見えて衰えてきており、少々あせっている。現在までにA4紙で171ページほどになっており、かなりのボリュームになりそうだ。この本はいわば、自分のデザイン研究の集大成として書き残そうと思って始めたのだが、書きたいことが山ほどあり、それをいかにうまくまとめてストーリー的に構成できるかがカギとなる。以前、井上先生と共著で出した「モノづくりの創造性」は配本業者から「売れそうもない本」とみなされた様で、最初から300部しか刷ってもらえなかったため、書店の店頭にはほとんど並ばなかった。これでは「闘わずして負けた」ようなものだったので、もう同じ出版社からは出してもらわないことにした。

 昨今の出版業界は、「売れそうな本」しか出してくれないので、それを目論んでいない今執筆中の「新デザイン論」も多分最初からハンディーを付けられることだろう。しかし、私としては内容に自信はあり、これまでの「デザイン論」とは一線を画するものだと自負している。

 世の中の状勢は、COVID-19の世界的パンデミックなどで刻々と変化しており、まさにこれまでの資本主義社会の矛盾が一気に吹き出しているという実感をもっている。世の中の変わり目にさしかかっていることは確かだ。コロナの感染防止措置をとれば「経済」が行き詰まる、経済活動を開放すればコロナのパンデミックが襲いかかる、というジレンマを各国の政権指導部は抱えているが、いまは多少の生命の義性を払ってでも「経済活動の維持」(株価を維持して投資家からカネを出させることがその中心にある)を優先しようとする方向に動いているようだ。その結果、明らかにグローバル資本に労働を搾取されている「開発途上国」の貧困な労働者や、低賃金で「先進国」の下支えをしているエッセンシャル・ワーカーたちが大きな犠牲を払わされている。こうした形で莫大な利潤を得ているグローバル企業に投資して株でもうけた富裕層やそのおこぼれを頂戴している中間層は開発される高価な治療薬の取り合いを演じているようだ。そして彼らを支持層にもつ政治指導者が「コロナなどは風邪と同じだ」とか「私はマスクはかけない」などとうそぶいているのだ。それなのに、一部の労働者たちは「オレたちに雇用のチャンスを与えてくれる」ということで、こうした独裁的リーダーを支持している。こうして資本主義社会はもはやガタガタになっているにも拘わらず、何とかぶっこわれずに「強いリーダー」を杖にしていまだに歩き続けているのだ。

 その一方でCOVID-19の震源となった中国では、流行が収まってきたので、強権的な政権がここぞとばかり、香港の民主化運動に圧力を加え、南シナ海での領土拡張を軍事力を背景にごり押ししだしている。中国はかつてリーマンショックの際には、高度成長を強味にして世界の資本主義経済を不況から「救った」が、その後、その莫大な富を用いて、アフリカや太平洋地域などの「開発途上国」の指導者たちのほっぺたを札束でひっぱたくようにして、経済的に支配し始める一方、「一帯一路計画」でヨーロッパからアジアにいたるグローバルな資本の流れを中国が中心となってコントロールしていこうと画策し始めた。しかし、最近ではこうした中国の動きに対するアメリカの経済制裁やCOVID-19へのWHOの対応などから西欧世界での中国への警戒感や反発が強まっており、世界は「新東西冷戦」の様相を呈している。困ったものだ。

 そんなわけで、世の中の状勢分析もしなければならず、「新デザイン論」も完成させたいのでかなりあっせている今日この頃である。

 

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2020年4月26日 (日)

コロナ感染半ば放置で70%免疫獲得を目指すのか?

 いま日本ではコロナウイルス流行の展開が微妙な段階に来ている。ゴールデンウィーク中の自宅待機を促す「ステイホーム週間」だそうだが、それによって観光地の人手は大幅に少なくなった。しかし、全国的に見れば、感染者数も死者数も決して減っておらず、漸増傾向にある。しかも日本ではPCR検査の数が圧倒的に少なく、実際の感染者巣は発表数の10倍にも上るのではないかといわれている。現に、病院での院内感染や感染経路不明の患者数がどんどん増えている。韓国や台湾で押さえ込みにほぼ成功しているのに比べると日本の防疫対策を疑いたくなる。

 一方でヨーロッパやアメリカNY州などでは医療崩壊が生じ手が付けられない状態になった国が多く、そのような国では、国民の70%位が感染して抗体を持つようになれば流行は自然に収まるという過去の研究結果から、そうするしかないとする動きもでているらしい。その背景にはコロナで外出禁止令を長く続ければ、企業経済が破綻し、失業者や貧困層の急増につながり、社会そのものが崩壊する危険があるという見方がある。アメリカのトランプやブラジルのボルソナロ大統領などがその代表だ。このまま放って置いていつものように企業活動を続けるべきで、その間感染して死ぬのは主に高齢者や基礎疾患を持った人たちだ。そういう人たちは生きていても働き手にならず、公的な資金ばかり食っていくことになる。だからウイルスに任せておけばよい、と言う考え方だ。おそらく表に出さなくてもこうした考えを内心持っている政治家は多いことだろう。

 野党からの政府の政策に対する批判は貧困層を救うための政府予算を投入した社会的セーフティネットが必要だという意見に集中するだろうし、政権側はそのためには国家予算も底をつくので経済活動を再開させることを急ぐべきだということになるだろう。結局いまの野党はそれ以上切り込めなくなる。企業としては自分の会社が倒産するのを防ぐために労働者を「人員整理」するが結局は労働者がいなければ成り立たないことを知っている。価値を生みだす源泉である労働者がいなければその労働の成果を吸い上げて成長する資本もあり得ないからだ。だから労働者の生存を維持するために尽力するが、それは自分の企業の利益が得られることが前提だ。自分の企業が競争資金に溜め込んだ莫大な内部留保を犠牲にしてまでそれをやりたくないのだ。その莫大な内部留保とは、実はすべて労働者自身が生みだした価値であり、その莫大な価値部分は本来、社会的な公的共通経費の蓄積として積み上げられていなければならないのを資本家企業は私的にそれを保有しているのだ。だからこのような社会的危機に直面したときに資本家代表政府である政権は「経済活動維持と雇用の維持のために」と称して結局は労働者に犠牲を強いることになる。

 いったい人間の命とはなんだろう?社会の経済活動とは何だろう?ひとの人生とはなんだろう?働き手になれない人々は「生産性がない」ので早く死んだ方がよいのだろうか?あるいはかつて東北の貧しい農村で高齢者が働けなくなると自ら山奥の「でんでらの」に引きこもって一人で生活しながら死を待つといった社会が再び登場するのか?

 いまこうした重大な問題が私たちに突きつけられている。生物学的にはウイルスが人間の遺伝子に入り込み、人間の遺伝子はそれを受け入れることで、リスクを冒しながら自らの進化を促す引き金とするという仕組みがあるのかもしれないが、そのようなウイルスと人との「共存関係」は、かたや生物と無生物の中間のような存在であるウイルスに対して生物の高度な進化形である人類という進化の両極にある相手同士であることを考えれば、人類は社会を形成し、他者との役割分担を担う共働的共同体を形成しながら生きる生物であることを忘れるべきではないだろう。人類はその社会をともに維持して行かねば生きていけないと同時に、その社会には必ずそれまで社会に貢献しながらいまは高齢で働けなくなった人々や生まれながらに障がいを持った人たちが必ず存在するのだ。それらの人々は「生産性がない」から存在意義がないのではなく、ともにその社会の中に生きていること自体が意味があるはずなのだ。そういう社会的存在としてその中で暮らすことの中で出生から死までの諸個人のさまざまな人生が存在するのだ。それがウイルスと人類の違うところなのだ。

 人間をウイルスと同等に扱ってはならない!

 

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2020年3月25日 (水)

コロナウイルスのオーバーシュートがもたらすもの

 いまヨーロッパに続いてアメリカでもコロナウイルス感染が急速に拡大している。そして日本では何とか持ちこたえているかのように見えるが、東京では感染源がたどれない感染者が徐々に増加している。もう東京でのオーバーシュートは時間の問題かもしれない。

 そこでもし東京がニューヨークと同じような危機に見舞われた場合、どうなるかを考えてみよう。小池知事は「ロックダウン」もあり得ると言っていたが、もしロックダウンということになれば、まずは人々が食料品などの買い出しに殺到するだろう。たちまちコンビニやスーパーでは品薄が生じ、生活必需品の供給網が断たれ、たちまちパニック状態がきそうだ。そして次に病院の備えが追いつかなくなり、感染者が爆発的に増加していても検査もできず、重症者が続出しても治療体制が追いつかなくなる。そして高齢者が次々と倒れるだろう。次に企業活動が停止され、公共交通機関がほとんど動かなくなる。そこで働いている労働者たちは仕事ができなくなり、その分賃金もカットされる。政府からのオカネのばらまきなどでは到底労働者の生活は維持できなくなるだろう。そしてこの状態につけ込んだ犯罪が横行するだろう。また東京は政府機関が集中しているので、政府官僚たちも制約を受け、場合によっては政府機関を東京以外の場所に移さねばならなくなるかもしれない。

 こうした最初の段階での危機は、やがて次の段階で東京を飛び越し日本全国に拡大し、より大きな危機をもたらすかもしれない。企業経営者や金融機関、投資家などの資本家階級に属する人々は、あらゆる手立てを尽くして資産の安全と損失の可能な限りでの縮小を目指すだろう。彼らはそのためには手段を選ばないだろう。それにもかかわらず体力のない企業は倒産し、そのどさくさに紛れて大資本はその倒産した企業のしかばねを食い散らし、自分の資産を維持拡大しようとするだろう。その過程で、「企業の存続を図るため」という大義名分のもと、労働者はつぎつぎに雇い止めとなり、政府からの名ばかりの「補助金」で数週間はなんとか食いつなぐかもしれないが、それ以後は「自助努力」で生きぬかねばならなくなるだろう。その間にも「自助努力」が不可能な高齢者や障がい者などの弱者はどんどん犠牲となり、火葬場が対処しきれなくなるかもしれない。やがて街には餓死者や重症者の死体が転がっているようになり、当初、「生産性の低い」高齢者や障がい者の人口が減れば、国家の負担が減ると腹の中では思っていたかもしれない政府高官たちもやがて自らの存続すら危うくなってくれば、この状態を放棄して逃げ出すかもしれない。

やがて何年か経ってコロナの世界的パンデミックが終息に向かうとき、日本は、そして世界はいまと全く違った様相になるのではないか?政治的・経済的破綻は無秩序な混乱と抗争を生みだし、まるでかつての戦国時代に逆戻りしたかのような状態になるかもしれない。

 これはもちろん最悪のシナリオ想定であるが、現状に安心しているとこうなる可能性もあり得ると思う。こうならないようにいま現在の対策を怠らないようにしよう。

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2019年9月17日 (火)

スマホからの書き込み

入院の準備のため、ガラケーからスマホに切り替えて、初めてブログに投稿してみました。

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2019年5月 9日 (木)

「新デザイン論(仮題)」その後の経過

 最近このブログに投稿する頻度が落ちている。いろいろな事情があるが、そのうちでもっとも大きいな理由は、いま執筆中の「新デザイン論(仮題)」に多くの時間を取られているせいである。

 内容は私が約50年間にわたって考えてきたデザインに関する考察とそこから発展していったひとつの歴史観と近未来の社会に必須な要件など、基本的には現代デザイン批判であるが、書いていくうちに、あれも書いておかねばこれも書いておかねばと内容がふくれあがってきて、ついには「次世代社会の基本的デザイン」といった内容にまで範囲を拡げてしまったのである。途中で目を通してみるとあちこち叙述に不十分な箇所や論実の矛盾した箇所などが多く見いだされ、それを修正しつつ必要な文献を見直したり、そこからまたあらたなことに気づくなどしている。最初は一応思いついたことをどんどん書いてゆくことで後でそれを必要最小限の内容に切り詰めてコンパクト化しようとしたのであるが、これがなかなか難しいのである。

 内容は3つの部分に分かれており、第1部はデザイナーという職能が生まれてくるまでの「モノづくり」の概略的歴史、そこでは、産業革命や近代デザイン運動を通じて登場したいまのデザイナーという職能がもつ「存在の矛盾」をその「発生の論理」に見いだすことが中心的課題である。第2部は、その矛盾に充ちたデザイナーの仕事を普遍的なものとして一般化しようとする現代デザイン理論への批判である。その批判を通して「あるべき本来のデザイン行為」の姿を浮き彫りにすることがここでの中心的課題であり、いま私はこの第2部にほとんど全力投球をしている。そして第3部はこの「あるべき本来のデザイン行為」を実現するための社会がもつ基本的条件について述べる。ここでは資本主義社会の矛盾を克服しようとしてきた20世紀のソ連型「社会主義」の矛盾と挫折やその後登場したヨーロッパ「脱開発派」や環境保護運動運動への批判、そして現在の中国に見るような偽物の「社会主義」への批判など、とくに「モノづくり」の在り方を中心にその矛盾を批判し、それを乗り越えるべき方向を探るところまで書くつもりである。

 どこまで書けるか分からないがとにかくやれるところまでやっておこうと思っている。

 

 

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2019年3月23日 (土)

閑話休題

 このところ、いろいろなことがあって、このブログをしばらく休んでいたが、忘れられてしまわないように、久々に「閑話休題」と行こう。
NHK-BS「世界のニュース」から。フランス・ドゥーのニュース。
このところ毎週行われるガソリン税引上げや労働法改正に反対する労働者たちによる「黄色いベスト運動」の大規模デモに関して、フランス政府は、破壊行為防止のため、軍隊を導入することを決定した。フランス・ドゥーの記者がそのデモ規制に出動する兵士にインタビューした。彼はこう答えた「われわれは国民に銃を向けるのではなく、フランスを護るために出動するのだ」。う〜ん、ということは「黄色いベスト運動」の人たちはフランス国民じゃないってことか?
 もう一つ、フランスではこのごろ睡眠時間が短くなる傾向が強く、労働者の平均睡眠時間が7時間を割るようになった。そこで職場では臨時のテントを作ってその中で従業員が昼食後30分ほど昼寝をしてよいことにした。15分間の浅い眠りでも生産性が30%上がるという研究結果もあるそうだ。しかし、ここでいう「生産性」っていったい誰のための生産性なの?すくなくても労働者自身の生活にとっては何の意味もないことだと思われるが。ついでにこの昼寝場所を有料で貸す業者も現れたそうだ。労働者の長時間労働への対処もまた「ビジネス・チャンス」なのだ!
 そして今度はわがニッポンの話。
 人手不足のため、コンビニ店長たちが24時間営業による長時間労働に反対して休業時間を設ける様に本社に要望した。ところが本社は「お客様(コンビニ利用者)への迷惑となる」としてこの申し出を断った。帰宅が夜中になる店長もおそらくコンビニの客となる場面もあるのではないのか?「お客様の迷惑」よりも従業員の健康を軽視するのは「お客様が迷惑」という理由は表向きであって本当は他社コンビニとの熾烈な競争に勝つためだからなのだろう。これはコンビニ会社に限らない。「顧客」もまた労働者である。うした経営者の「購買者のため」とか「便利になるから」という偽善的態度に騙されないように気をつけよう。さもないと結局自分のクビを絞める形になるからだ。

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2019年2月 8日 (金)

ビジネス書になってしまった?資本論

 今日久しぶりで近所の書店に行ったところ、文庫本の書棚に「超訳 資本論」という本を見つけた。私は以前、的場昭宏さんの同名の本を読んだことがあるので、その再編集版かと思い、手にとってみると、著者は許成準という人で、経歴をみるとあの韓国の超エリート校KAISTを出て、ビジネス・コンサルのような仕事をしている人らしい。他にもいくつもビジネス書を出しており、その筋では知られた人の様である。
 そしてまず驚いたのは表紙の帯に、「ビジネスマンが一度は読みたい必読の書」というキャッチフレーズが書いてあるのだ! どうも資本論を捉える立場が私とは180度違うようなので、ちょっと買う気になれず、本屋の店頭でざっと目を通しただけなのだが、その中でこう言っているのが目に入った。「この社会を資本主義社会だという人は多いが、そこで自分を共産主義者だという人はいても、資本主義者だという人はほとんどいない」。そしてさらに、世の中全体が資本主義社会である以上、それはわれわれを魚とすれば海の水の様な存在であり、資本主義のメカニズムをよく知ることで、その水の中をうまく泳いで行ければよい、というような趣旨であるらしい。要するに資本主義社会を生きぬくためのビジネスマンの参考書として資本論をとらえている。
 困ったもんだ。これではマルクスがあまりにも可哀想である。
 私はこのとき、チラっと思ったのは、もしかするとあの「社会主義市場経済」を名乗る中国の共産党指導部のお偉方も、もしかするとマルクスをこのような捉え方で見ているのではないか?ということだ。いまの中国はどこから見てもカリスマ的共産党経営陣の支配による「国営資本主義社会」にしか見えない。
 マルクスがその生涯を掛けて資本論の中で言いたかったことは、要するに、資本という形で自分たちの労働の成果が日々自分たち自身を支配するような経済的メカニズムの中で仕事を続けなければならない労働者たちと、その資本の人格化された存在である資本家があたかも社会のために雇用を生みだしたやっていると言わんばかりの態度で労働者の能力をオカネで買い取り、その労働を自分の資本増殖の目的で用いながら社会的に必要なモノをそのための手段として日々生みだしている社会。その中で労働者は「賃金奴隷」として資本の増殖のために働き、そこで受け取った賃金によって、資本家に利益をもたらすために日々自分たちの生みだした生活消費財を資本家から買い戻して生活しなければならない社会。これが資本主義社会なのであって、この「賃労働と資本」という形で現れる資本主義的人間疎外からの解放こそが絶対に必要であるということだった。
 その資本主義社会では資本は一人の「資本家」に人格化されるのではなく、株主、投資家、そしてそこから得た資金を所有する企業、そしてその資本を増やすための増殖機関として機能する企業の経営者、その下でその手足となって働くビジネスマン、資本家企業のつくる商品を売買する企業の経営者、さらに資本の回転を合理的に推進するための金融機関、などなど要するに労働者を雇用してその労働の結果を資本の増殖のために直接的・間接的に吸い上げる組織とその運営を仕切る人々の集団が「資本家階級」なのである。そしてその個々の資本家企業の利己的欲求を資本主義社会全体として調整しスムースに運営していくために資本主義国家の政府機関が存在する。こうした人々が資本主義社会の支配階級なのである。
 彼らは自分たちを「資本主義者」などとは決して思っていない。なぜなら、資本主義社会こそが社会の進歩によって出来上がった普遍的社会の形であると信じており、そういう社会を「あたりまえ」の存在として肯定するならば敢えて「資本主義者」などと言う必要がないからだ。
 こうした「あたりまえ」観こそが、実は支配的階級のイデオロギーなのであり、この本の著者のいう「水の中」なのである。
 私を含めて資本論を真摯に受け止めマルクスの意図を正しく理解しようとする人たちは、いままたこうした新手の支配的イデオロギーとも対決しなければならなくなったのだ。

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2019年1月17日 (木)

不毛なディベートは何のため誰のため?

 昨年末から今年の初めにかけて、私の年上の兄姉がいずれも陳知症的な症状に陥り、その関係でブログを書く時間も精神的余裕もがなかった。いずれ高齢化とともに、私もだんだんに「ボケ」が進み、あたりまえの物事の判断が難しくなるのだろうと思うと暗澹たる気持ちだ。
 ところで最近気になるのは、世の中がどんどん悪い方向に進みつつあるということだ。アメリカではトランプが国境の壁建設に強引な予算を求め、これを下院で拒否されたため、予算案が議会を通過せず政府機関の一部が閉鎖となってしまった。そこで働く職員たちは給料が出なくなり、しかも失業手当も出ないので毎日の生活にも困っているという。
 その一方でトランプが対中国貿易で大赤字を出しているアメリカの財政を護るためと称して大幅な関税引き上げを中国に対して宣言したため、「米中貿易戦争」が始まった。また中国ではハイテク技術のアメリカからの盗用や一般のネットによる国内外でのスパイ活動を浸透させているというアメリカからの非難を受け、中国のハイテク企業の経営者が逮捕されるなどの事件が続いている。
 さらにフランスではマクロンの政策に反対した労働者や中小業者農民などの怒りを集約した「黄色いベスト運動」が全土に拡がり、毎週のように大規模なデモや警官隊との衝突が起きている。
 そしてイギリスでは国民投票の結果を踏まえたEUからの離脱をめぐって、メイ首相のEUとの合意案が議会で否決され、「合意なき離脱」という最悪の事態に向かいつつある。
 そしてお隣の韓国では旧日本統治時代の徴用工の保証の問題で日本企業への差し押さえが司法で合法と認定され、その上日本の海上自衛隊と韓国海軍との間で自衛隊機への着弾誘導レーザー照射の問題で完全に対立している。北朝鮮との「仲良し」関係を強調するために「共通の敵」であるに日本をやり玉に挙げているのだろうか?
 さらにプーチンとの「仲良し」ぶりを自慢していた安部首相にラブロフ外相から、「北方領土」という言い方はやめるべきであって、あの戦争でロシア領になった土地に日本が主権を主張すること自体が間違っていると言い出した。
 どこでも互いに話はかみ合っていない。そして世界中でともにグローバル資本の支配に振り回されているわれわれとその次世代の子供たちの人生はいったいどうなるのだろう?
 こうした問題を見るに付け、対立する意見を議論によって解決を見いだすことがいかに困難であるかが分かる。1930年代にも似た状況があったようだが、そのときも結局「話し合いによる問題解決」は空論に終わり、戦争に突入した。
 最近は教育面でも、対立する意見をいかに合意に導くかという技術を授業で訓練するエリート学校も多くなっているようだが、こうした訓練によるディベートはではビジネスの世界ならまだしも、難しい国際問題を解決に至らせることができるようになるのか、私は疑問に思っている。
 かつて私も関わっていたことのある学生運動の中でも、対立するセクト同士が相手の主張を誹謗中傷し合う場面は数多く見てきている。そのようなディベートは単に技術の問題ではなく、もっと深い思想的対立が背後にあるので相手の思想を自分たちの思想によって「乗り越える」ことなどそう簡単にできるものではない。
 それはある場合には一つの党派の内部における意見対立にも言えることであって、その組織が何か問題を抱えている場合にそれがどのような問題であり、どうそれを克服するべきなのかを対立意見を持つ両者が真剣にぶっつけ合うことはまず必要であることは言うまでもない。
 しかし例えば、かつての学生運動では、相手のセクトに「レッテル貼り」をすることが多かった。「○○派のプチブルども!」とか、「俗流マルキスト!」とか、「あいつはスターリにストだ!」とかである。こうしたやり合いは「ディベート」とはとても言えないレベルであって、初めから相手の主張を排除している。それが本当に議論の対象になっている問題を解決に向けて前進させるとは到底思えない。単なるののしり合い以上の何物でもない。だからあるときには暴力沙汰になり、時には殺人にまで至ってしまう。
 また最近の様なネット社会になると、匿名性をいいことに、目立ちたいが故にいい加減なことを言ったり、過激な言葉で相手を傷つけたり、すぐに炎上したりする。そこからは何も生まれてこないし問題も解決されない。
 その点、いつも私は感服するのがマルクスによる議論の展開である。彼は若い頃ヘーゲルの哲学から多くを学んだが、後に当時社会主義を標榜していたプルードンの「貧困の哲学」に対して、「哲学の貧困」という痛烈な批判書を出しながら、ヘーゲル左派や青年ヘーゲル派の若者たちが「ヘーゲルは犬だ!」と言い捨て、自分たちはヘーゲルのような過去の遺物はとっくに乗り越えたと思っていたときに、「自分はヘーゲルの弟子であることを認める」と宣言したのである。
 そしてフォイエルバッハへの批判などを通してヘーゲル哲学の矛盾をそうした思想の物質的土台である社会の経済的基盤の矛盾として捉え、経済学の批判へと向かったのだ。
 マルクスは資本論などでの手厳しい批判のもとでも時に批判相手の主張の正当だと思われる部分はキチンと汲み上げている。彼はこうした批判による理論展開を通じてほんとの意味でヘーゲル哲学を乗り越えた新たな地平を切り拓いたのである。これこそ本来の意味での「批判」なのだと思う。
 まずは相手の思想や主張をあるがままに受け止め理解すること、その上で、その主張の何が間違っているのかを明らかにすること、そしてそれを克服するためには何が必要であるかを提示すること、これは相手にとっても自分にとってもいえることである。
 しかしいまの国際政治を担っている政治家たちはどれも党利党略的主張を繰り返し、自分の「国益」や「党」のための他国の人々を犠牲にし、人類共通の財産である地球を破壊しつつある。このままでは世界を危機に陥れるしかない。
 そしてこうした世界を本来の意味で批判的に分析し、あらたな世界を実践的に切り開いていこうとする識者や研究者もいない。マルクスが資本論を未完のまま残して逝ってしまった後の資本主義経済システムの変貌や波及について研究する学者たちもいるが、結局のところ、いまの社会でそれなりの「学者」としてのポジションを得てぬくぬくと生きることが目的であるかのように見える。またマルクスの研究成果を発展させる思想のもとに世界を変えていこうとする国際的組織的も運動もまだほとんどない。ただあるのは、世界を支配する「グローバル資本」とそのもとで日々厳しく希望のない日々を送っている数十億の人々の不満や抗議が世界中で渦巻いているという事実だけだ。

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2018年11月21日 (水)

C. ゴーン氏に関する続報

 前回の続報。

今朝のフランス・ドゥーのカルロス・ゴーン氏の一件に関するニュースでは、日本のマスコミとは違った内容での報道があった。

 周知の通りゴーン氏はルノーの会長でもあるが、かつて日産自動車が破綻に危機に立たされたときに社長として招かれ、その辣腕指導力によって日産が再生し、いまやルノーよりも多い収益を上げているそうだ。そしていまやゴーンのカリスマ的独裁性とルノーの影響をはねのけたいという日産経営陣の意図があって、かねてからゴーン氏の内部告発を画策していたというのである。そしてルノーはゴーン氏の会長留任を決めたそうだ。
 このニュースでは出てこなかったがルノーはフランス政府も株主になっている、いわば半官半民的企業であっていうなれば国策企業である。だからマクロン大統領の意向も反映されているのではないだろうか?
 カリスマ経営者の巨額の金融商品取引法違反行為を取り上げるか、ルノーと日産の資本家企業的確執を取り上げるかのマスコミの扱い方の違いでしかないかもしれないが、そこにどうもグローバル企業への国家的バックアップ体制が見え隠れしているような気がしてならない。
 

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2018年11月20日 (火)

この数日の出来事をめぐって(UNHCRとゴーン)

 昨日私のもとに国連UNHCR協会からシリア難民の悲惨な現状と子供達の冬に向かっての防寒具の不足などを訴える文書と共に寄付依頼の文書が届いた。そしてこの封筒の中に毛布でつくったバッグが入っていた。
 私は、これを受け取って、考えた。この毛布のバッグを作るためにどれだけ安い労働力が使用されたのか?そしてこれをおそらく莫大な量のダイレクトメールで発送するのにどれだけ莫大な費用がかかったのかを思った。そして以下のような文書をしたためこの毛布のバッグをUNHCRに返納した。
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国連UNHCR協会 御中
 このたびシリア難民の子供達の防寒への備えの厳しさを伝えた文書とともに、同封の毛布のバッグが貴協会から送られてきました。私は以下のような思いから、この毛布のバッグをそのまま貴協会に返納致します。
 国連として救済のための基金不足から寄付を募るのはよく分かります。またシリアの難民、特に子供達の悲惨な状況がニュースなどで伝えられるたびに胸を痛める思いです。この状況に対して世界の富裕な国々が積極的に救済に乗り出さないことはまったく憂慮すべき事態だと思います。
 しかし、それにも拘わらず、企業の宣伝ならいざ知らず、国連の団体がこうしたものをおそらくは驚くほど多くの人々にダイレクトメールとして送りつけ、寄付を要求することは国連の精神に反するのではないでしょうか?
 この毛布は本来、寒さに震えるシリア難民の子供達の防寒具として用いられるべきものでしょう。そしてこれにかかった経費も多額なものであったでしょう。それは直接シリア難民の子供達のために費やされるべき費用であるべきでしょう。決して寄付集めの手段や費用として用いられるべきものではありません。したがって私はこれを返納致します。
 また寄付集めに関しても本来、寄付金は寄付者の好意に基づき募集されるものであって、募集者によって寄付額の枠を決められるべきではありません。
 したがって私は、クレジットによる寄付募集には応じません。しかし、シリア難民の子供達への私の思いが最大限伝えられるように私の乏しい収入に相応しい寄付額(寄付金はゆうちょ銀行の貴口座に1,000円振り込みました。
)で寄付させていただきました。
悪しからずご了承ください。
以上
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 一方で、いま日産のカルロス・ゴーン会長が長期に渡って自分の報酬額を偽り、 有価証券に50億円という巨額の「過小記載」を行っていたという事実がトップニュースで報じられている。国際ニュースではフランス・ドゥーがルノー会長でもあるゴーン氏の金融商品取引法違反行為をやはりトップニュースで伝えていた。
 この二つの出来事は一見無関係のようであるが、実は深いところで繋がっているように思える。
 それはゴーン率いる日産・ルノー連合のようなグローバル資本企業のカリスマ的経営者がおそらくは私的な財産として獲得する収入額は、一方でシリアなどで貧困や飢餓に苦しむ多くの人々のために用いれば多くの幼い人命をも救える金額であろうということ。もっといえばその巨額の不正収入額をもってすればこうした貧困にあえぐ人々が生きるための資金が出来たであろう金額がただでさえ報酬が多すぎると批判されているこのカリスマ経営者の個人的なオカネとして不法に使われていたということである。
 さらに重大な事実は、こうしたカリスマ経営者が自分の強力なリーダーシップゆえにその企業が利益を上げているとして、そこに雇用されている従業員たちもそれによって生活が潤っているという考え方の虚偽性である。
  実はこの企業が上げている莫大な利益のもととなった価値は自社の従業員を含めて世界中の関連企業や下請け企業で働く膨大な数の労働者の生みだしたものであって、決してカリスマ経営者が生みだしたものではない。彼が行っている「頭脳労働」はこうして世界中に散らばっている膨大な数の労働者たちが生みだす価値をどう資本として吸い上げ資本の拡大のために運用するかという、資本としての頭脳戦略なのであってこれは正確には決して生産的労働の一部ではありえない。 それどころか多数の労働者たちが生みだした生産的労働の成果を一握りの富裕層に集中させるための「たくらみ」なのである。それを企業の「リーダーシップ」と称しているのだ。
 このような不正な方法で一個人に集中させられた絶対的多数の労働者の生みだした成果が、その仲間であり、グローバル資本間のばかげた競争と醜い軍事的権力争いのなかで難民や貧困層に落とし込められた人々の救済のために用いられることがないという事実を知ってか知らずか、国連UNHCRは上記の様な寄付活動を「人道上の問題解決のため」に行っているというのである。
 やはりどこかがおかしい! そう思いませんか?

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