日記・コラム・つぶやき

2017年8月21日 (月)

Nスペ「東京・戦後ゼロ年」を観て

 このところNHKスペシャルの感想ばかり書いているので「あいつはNHKの回し者ではないか?」と疑われそうだが、決してそんなことはない。

 昨夜(20日)は「東京・戦後ゼロ年」というタイトルで俳優山田孝之が終戦直後の東京にタイムスリップし当時の映像や写真の中に溶け込んでいろいろな体験をするという設定だったのでちょっとドラマ仕立てで抵抗があったが、中身は私が5才の頃見た終戦直後の東京の景色や有様が映像として登場し、私の内部に眠っていた古い記憶を呼び覚ましてくれた。
 戦時中わが家は強制疎開のため全部取り壊され、父の診療所もその後の空襲で丸焼けになってしまったので、疎開先から帰ってきた私たち家族は杉並で貸間住まいをしていた。焼け跡生々しい町並みの通りにも当時、露店が並び、蒸かしたサツマイモを一山拾円で売っていた。焼けトタンで作った屋根だけの粗末な「バラック」住宅に住んでいた人が多く、夕方になると野外でドラム缶のフロに入っているのを見かけることもあった。 ときたま母と青梅街道を走っていた都電に乗って新宿まで出かけたが沿線の成子坂下あたりに空襲で焼けただれたクルマの残骸が山のように積まれていたのを思い出す。これが私にとっての「生まれ故郷・東京」の姿の原点であった。
 それはともかくとして、昨夜のNスペでは、終戦の年から翌年の8月までの1年間の東京が描かれており、ヤミ市の誕生と浮浪児たちの有様などが映像で描かれていた。
  上野の山に多くたむろしていた「浮浪児」たちはみな戦争で両親や兄弟を奪われ家を焼かれた戦災孤児である。食べ物もなく、何かあれば奪い合いとなるような中で何とか生き延びていた彼らはその孤独で苛烈な生活にも拘わらず大人達からはまるで「ゴミ」の様に扱われていたのである。
 当時のアメリカを中心とした占領軍は「進駐軍」と呼ばれていたが、飢えた子供達は進駐軍の兵士に群がって食べ物やチョコレートをねだっていた。そして女性達は生きて行くために自分の身体を兵士達に売った。当時はそういう女性達は「パンパンガール」と呼ばれていた。
 そして驚くべきことに、当時RAA(Recreations and Amusements Association)という進駐軍兵士のための慰安団体が組織され、日本版「慰安婦」が公募されたのである。そしてその高給に釣られて多くの女性たちがそれに応募したのである。
 その一方で、こうして食うに困っていた多くの人々を尻目に終戦間近に軍や政府が密かに蓄えた「財産」が進駐軍に流れていったという話は衝撃的だった。これらの資金は進駐軍関係の施設建設やサービスに注がれ、また進駐軍の特権につけ込んだ「政商」たちに流れていった。
  当時アメリカ軍がソ連などの共産主義運動への歯止めとして日本を位置づけ始めた中で、そうした闇のカネや特権に群がった旧軍部の上層部や政府要人はそれを自分たちの延命と利権獲得のチャンスとして利用し、罪に問われることもなくその後も何十年かに渡って戦後の政界や財界の仕掛け人として舞台裏で動き回っていたのである。ロッキード事件の児玉などもその一人である。
 こうした話を知るにつけ、あの戦後ゼロ・リセットを掛けられた日本がその後高度経済成長を遂げ、やがてバブル崩壊を境に下り坂を下り始め、いまや未来の姿すら描けなくなって行きつつある状態になっていった有様をすべて見届けてしまったわれわれの世代は、いったいどう考え何をすべきなのだろう?
 明治維新から始まった日本の「近代化」が坂の上の雲を目指して世界列強の一員にまで登りつめた後、戦争に向かってどんどん転がり落ち、ついにはあの悲惨な戦争の中ですべてを失ってしまった歴史を考えてみても、戦後、ふたたび坂の上を目指して登りつめたとき、そこに見えたのは何だったのだろうか?過去の幻影ではなかったのか?
  これは一口にいえば「反省なき戦後がもたらした現在の悲劇」といえるのではないだろうか?

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2017年8月19日 (土)

いまなぜ若者はテロリズムに走るのだろう?

 また無差別テロがバルセロナで起きた。このところヨーロッパでは毎月のように一般市民など「ソフト・ターゲット」を標的にした無差別テロが相次いで起きている。

 これらのテロがIS組織と関連が問われるのが常であるが、ISのメンバーではなく直接のつながりも薄い場合も多い。いわゆる「ホームグローン・テロ」がほとんどである。
 こうした動きは20世紀まではほとんどなかったように思う。強いて言えばオウム真理教などがその先鞭ではなかっただろうか?そしていまの無差別テロがそれらとも違うのは、ほとんどの場合、「自爆テロ」であることだ。つまり自分の命と引き替えに無差別に市民を殺害するという形である。それはおそらく2001年の9.11事件が始まりではなかっただろうか。
 かつて太平洋戦争中の日本の特攻隊は、国家や軍の指揮のもとに行われた自爆攻撃であったが、いまの自爆テロは自らの「主体的」意志に基づくものである。
 こうした「主体的」自爆テロは、銀行強盗などのようなカネ目当ての利己的犯罪とは全く質の違う、「自己犠牲」を常とする犯罪である。
 もちろんこうした自己犠牲が「主体的」意志のもとに決行される背景には宗教的あるいはイデオロギー的信念があることがほとんどである。これを「狂信」といってしまえばそれまでなのであるが、ヨーロッパの文化的生活の中で育った若者がなぜそのような行為に走ることになったのか、これは現代社会の病巣を探るには重要なテーマではないだろうか?
 ひとつはよく言われるように、西欧文明の生活の中での「差別」の問題があるだろう。単に同じ街に生活する異国人や異民族であるだけでは感情的・感覚的な差別はあっても互いに命を掛けるような対立はありえないだろう。命をかけて対立するようになる背景には、互いに死活問題となるような生存・生活権の掛かっている問題が存在する場合であろう。例えば、自分たちの職が奪われる危機に瀕した場合、相手の生活行動が自分たちの生活行動を侵食する様な場合などであろう。
 しかし、そのような場合にたとえ血で血を洗うような殺し合いに発展したとしてもそれがそのまま「自爆テロ」につながることは少ないだろうと思う。
 やはり「自爆テロ」の背景には、いまの社会で自分の存在意義を感じられなくなり、将来に希望を見失い、 そして自分がいま生きている意味が、自分にそうした絶望感を植えつけた世の中すべてを破壊するような行為に出て、その中で自分の命を燃え尽き果てさせることにあるのだと考えるようになることではないだろうか?
 こうした精神状態が表面には現れなくとも潜在的に心の中にあるときに、ISなどのような組織から流されるプロパガンダにつき動かされ、自爆テロを実行しようという気持ちに動いていくのではないだろうか?
 一口に言えばいまの社会が内包する「閉塞感」とその中での自己の存在意義の喪失感である。そしていまの社会は表面的には、華やかで楽しいことやおもしろいことがたくさんあるが、そうした外面的「幸福」の裏側に常にある「閉塞感」や「自己喪失感」にふと気づかされたとき、若者の心は言いようのない絶望感と孤独感にさいなまれることになるのではないだろうか?むしろ心の底に潜在するこうした「閉塞感」や「自己喪失感」から逃れ、自分に「それなりに幸福ではないか」と言い聞かせるために目先の「おもしろさ」や「楽しさ」に埋没していくのではないだろうか?
 私はこうした悲惨な精神状態に追い込まれている若者が日本にも想像以上に多いのではないかと察している。これが私の杞憂であればよいのだが。

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2017年8月15日 (火)

Nスペ「戦慄のインパール」を観て

 昨夜の「731部隊の真実」に続いて、終戦記念日の今日のNHKスペシャルでは、「戦慄のインパール」を放映していた。

 かつて若い頃に竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んで、深い感銘を受けた記憶と、私が高校時代に英語の教師だった人がインパール作戦に参加した兵士だったことを思い出した。
 戦争の敗色が濃くなっていった頃、大本営ではすでに占領していたビルマからインドに進出することで戦局の劣勢を跳ね返そうとするインパール侵攻作戦を立てた。その作戦は最初から無理を承知でその兵站の困難さから3週間の短期決戦により決着をつけようというものだった。しかもこの作戦は大本営内部での人脈関係の中でそれぞれ上層部の「業績」を上げさせるためのチャンスとして進められ、牟田口司令官がそのトップに立って実行する運びとなった。
 そしてその作戦は400キロ以上もの密林中の道なき道の行軍によって行うため、トラック輸送もままならず、現地の少数民族のムラから牛を調達して荷物を運ぶような状態だった。
 そのような無理な状況で開始した作戦で、途中イギリス軍からの猛攻に遭い多くの戦死者が出たが、作戦は継続された。とっくに3週間を過ぎて何ヶ月も続けられた作戦で食料は尽き、兵士は弱っていき、戦死者や病死者が続出したが作戦は停止されなかった。
 その背景では、この勝ち目のない戦いに終止符を打たせようとする軍内部の反対意見を強硬に退け、失敗を現地指揮官の不手際としてそのクビをすげ替えてあくまで「死守」の命令を出し続けた牟田口司令官の存在があった。しかし、ついに牟田口も最前線の悲惨な状況を知るにおよび、作戦の中止を余儀なくされることになった。
 そこから数万の兵士の悲惨な撤退が始まった。追撃するイギリス軍の猛攻とすでに兵站もなく、始まった雨期の猛烈な雨の中を空腹や伝染病や負傷で弱った兵士を見捨てて撤退する日が続いた。この作戦の生き残りの元兵士の発言や当時牟田口司令官の部下でこの作戦の進捗状況を記録していた斉藤少尉の手記からは凄惨な戦場の姿と司令官の引っ込みのつかなくなった強硬な態度が紹介されていた。まさに地獄の様な有様で、密林の道は死体の山を築いていった。そして途中大河を渡りきれずそのほとりで多くの兵士が死んでいった。
 この作戦で死んだ兵士は3万人に上り戦傷者は4万にもなったそうである。
ところが司令官牟田口は作戦中止後いち早く戦場から日本に帰国した。そして敗戦後の戦争裁判での法廷ではこの作戦の命令は上部からのものだったと証言していた。
 しかも、牟田口は戦後20年以上生き延び、その子孫が初めて公開した資料によると、回顧の中で当時ビルマ戦線で戦った相手のイギリス軍の司令官と手紙のやりとりをしていた。イギリスの元司令官が牟田口に「イギリス軍が苦しめられた」としてあの作戦に一定の評価をしたと感じ、そのことを回顧録的録音テープに収めていた。
 牟田口はその中で「私は戦後ずっと牟田口は馬鹿野郎だとさんざん悪口を叩かれてつらい思いをしてきたが、やはり私のやったことは正しかったということが分かってうれしい」と言っているのである。
 何ということだろう!大本営の無責任体制の中で身勝手に発せられた作戦命令のもとで、どれほどの兵士が地獄のような経験をし、命が失なわれたのか、その痛みを司令官として何一つ感じ取っていないこの男!こういう人間があの戦争を牛耳り、何十万という尊い命を奪い街を破壊させ、そして自分たちはおめおめと戦後に生き延び何も反省していないという事実。
  一方彼の部下だった斉藤元少尉は、いまも存命中でクルマ椅子に乗せられてインタビューに応じていた。彼は自分の書いた記録を見せられると顔を歪めて「見たくない」とつぶやいた。そしてしばらく沈黙したのち涙声で「悲しい!」と叫んだのである
 731部隊で「マルタ」を人体実験材料に使ったにも拘わらず戦後学会の権威にまでなった学者先生といい、このインパール作戦を強行した司令官たちといい、失われた一人一人の兵士や市民の生活と命の重さを何一つ感じていないのである。
 例の私の高校時代の英語教師だった人はこの作戦でどれほどつらく過酷な経験をしたのであろうか、彼はそれについてあまり多くを語らなかったので分からない。しかしあるとき、修学旅行のときであったろうか、その先生とフロ場で顔を合わせたとき、その背中に大きな傷跡が残っていることを知った。
 人の真価はその人の生き様で分かる。どうすることもできない歴史の流れの中で翻弄され地獄の苦しみを経験しても人間としての真価を持ち続けることの出来た人と、己の地位と立場と名誉のために何万人の人が死んでも意に介しない人がいるということをキモに銘じておこう。
 戦争はその違いを見事にあぶり出してくれるのだ。

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2017年8月13日 (日)

Nスペ「731部隊の真実」を観て

 さきほどNHK-TVで放映されていた「731部隊の真実」は久しぶりに見応えのある番組であった。731部隊は戦争中に旧満州で細菌兵器の研究開発をやっていた軍の研究組織であるが、そこに東大や京大など日本のトップクラスの大学から多くの研究者が送り込まれていた。そしてそこでは、中国人やロシア人などの捕虜を使った人体実験が行われていたのである。

 この話自体は私も前から知っており、これについて書かれた本もあったが、今回のNHKの番組ではロシアから提供されたハバロフスク裁判での当時の日本人戦犯の裁判記録のテープが放映されてたことで、そこでの証言に具体的な内容や人名が動かぬ証拠として出てきたのである。
 この731部隊ではチフス菌やペスト菌などを培養し、その「兵器」としての摂取方法や散布方法などの効果を実証するために人体実験が行われ、ほとんどの捕虜がそれによって死んだ。そして戦争末期には実際にその細菌兵器が戦場で用いられたのである。
 この731部隊の研究施設に派遣されたトップクラスの大学の研究者のうち、京都大学の関係者については実名が出されていた。しかし東大ではこの関係者を公開するのを良しとしなかったようで、今回名前が一人も公開されていなかった。
 戦争当時、世間では日本軍に反抗する中国人や「匪賊」を極悪人として報じる当時のマスコミの影響が強く、そうした犯罪人をどう処理しようとかまわないという「空気」があったようだ。
 そして大学の研究者にも、お国のために貢献できるのなら有能な人材を派遣しようという「空気」があり、しかも巨額の「見返り金」が軍から支払われるということから、大学側も進んで人材を派遣したようだ。
 しかも敗戦時、いち早く満州から特別列車で帰国した多くの研究者たちは、当時の日本を支配していたアメリカ軍から、彼らが持ち帰った実験データと引き替えに戦犯としての罪に問わない約束が交わされたのである。
  なんということであろうか!ABCCで原爆被爆者の治療を行うと称してそこから貴重な原爆による「人体実験結果」を得ていたのもアメリカである。
 こうして帰国後も彼らは大学で研究者として働き続け、その分野の権威として出世し、ある人は学長にまでなっているのである。
 ドイツではユダヤ人虐殺に関わりながら逃げ延びたナチスの残党をイスラエルの「モサド」が徹底的に追求し、何十年も経ってから逮捕し刑を受けた例もあるというのに、日本ではこんなことが許されたのである。
 そしていま、また防衛庁からの巨額の研究費を目当てに委託研究を受けるか受けないかが問題となっている中、学術会議の会長が「防衛関係の研究といっても全部が兵器開発に関係するわけではない」などと言って、物議をもたらしている。
 研究者や技術者の倫理が問題にされたのはもう半世紀以上も前のことである。しかし、いままた、大学の研究は「国益のため」として軍事研究に手を染め始めているのである。意識ある研究者は「国益のため」「経済成長のため」という抽象的な美名に惑わされてはならない。
 今日のNHK番組でも、731部隊で細菌培養の責任者だった研究者がハバロフスク裁判で、自分がやってきたことの罪は、もし自分が生まれ変わってくることができるなら、かならずそれを償うことで人生を費やしたいと涙ながらに発言していたのが印象的だった。そしてその研究者はロシアで刑期を終えて帰国してからまもなく自ら命を絶ってしまったのである。
 無事に帰国して罪にも問われることなく、自ら反省の言葉を口にすることもなく学会の権威になっていった研究者たちと比べ、ロシア軍の捕虜となってしまった研究者の運命は過酷であった。
しかし、どちらが人間としてまともであったかは70年経ったいま誰の目にも明らかであろう。

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2017年8月12日 (土)

NHK戦争記録特集番組を観て

 例年8月になると、NHK-TVで戦争記録特集番組が組まれる。今日(12日)は太平洋戦争当時の日本本土空襲の記録を放映していた。

 私は終戦当時まだ5才の子供で東京の杉並に住んでいたが、昭和20年1月に新潟に疎開していたので、3月10日の東京大空襲は知らないが、疎開する直前、近くの中島航空機が空襲された時の記憶がある。空襲警報が鳴ったので庭につくった防空壕に家族と身を潜めていたが、高井戸にあった高射砲からのズンズンという射撃音とB29から投下される爆弾のものすごい爆音と地響きで壕の入り口の隙間から見えた青空に、木っ端のように建物の残骸が飛び散り、遙か上空にときどきキラリと光る日本の迎撃戦闘機が見えたのを覚えている。防空壕の上には戸板が乗せてあり、空襲警報が鳴ると母がその上に布団を乗せていたのも覚えている。今考えるとこんなものではとても攻撃を防げるものではないが、母は機銃掃射で銃弾が壕の中まで飛んでこないようにと考えていたようだ。
 今日のTV番組を観ていて知ったことは、こうして日本の迎撃機が出動していた頃はまだよかったのだが、やがて硫黄島が陥落しそこからアメリカのP51戦闘機がB29とともにやってくるようになって日本の軍事施設や航空機はほとんど壊滅的な打撃を受け、挙げ句にはB29護衛の必要がなくなったP51が民間人を狙って機銃掃射をしまくるという状況になっていったようだ。杉並で医師を開業していた父は一人東京に残ったが5月に杉並が空襲を受けて診療所は全焼した。そして命からがら逃げ回ったという手紙が疎開先に届いた。
 番組では当時アメリカ空軍の戦闘機を操縦していた人が「日本人ならだれでも殺すことが使命と思っていた」と語っていた。しかし彼も戦後しばらくして日本に来たときに子供に「ピース」サインをされて、思わず心が動揺し、当時の攻撃される側の人たちの状況が思い浮かび胸を痛めたということだ。
 あの戦争で日本本土全体で空襲で亡くなった人は46万人にもなったそうである。 しかし、私はこの番組を観て思ったことは、あの戦争の引き金を引いたのは日本の政府と軍だったという事実が後景に退いている。日本本土がアメリカから受けた空襲の被害状況をいうならば、日本軍が行った中国の重慶などへの無差別空襲やオーストラリアのダーウィンへの空襲なども同様に取り上げるべきではなかっただろうか?
 番組でも若干触れられてはいたが、アメリカから見れば、こうした無差別空襲は日本が先に行ったのであり、アメリカは日本が引き起こした戦争を終わらせるためにそれを行っても当然であると思ったであろう。
 以前ある別の番組で、戦争中に軍の上層部にいた人たちが、戦後しばらく経ってから、戦争の「反省会」を行っていたときの録音テープが流されていた。そこではあの戦争がなぜ起きてしまいなぜ防げなかったのかが主要なテーマにはなっていなかった。もっぱら、どこそこの戦いで日本側が負けたのはなぜか、どこが間違った戦術だったのか、というような話であったと記憶している。こうした人たちは、彼らが引いた引き金で、あの戦争の大惨事が起きてしまったことへの反省はなかったのであろうか?
 一方で考えさせられることは、多くの戦争回顧番組で「当時の軍部がいけなかった」ということのみが強調されていることが多いことだ。しかし、私の知る限りでは当時「日本国民として一丸となって鬼畜米英と闘おう」「一億総火の玉!」(いずれも安倍首相の最近のスローガンと似ているが)と胸をはって声高に叫んでいたのは一般市民であった。まるで今の北朝鮮とそっくりな状況であった。
 つまり、戦争の引き金を直接引いたのは当時の軍であり政府であったのだが、それを可能にさせる「空気」を生み出していたのは当時の「国民」であったといえるだろう。そしてこうした上からの浸透による「国民感情」にほとんどすべての人々が何も反論も抵抗もできず、その「空気」に呑み込まれていったという事実こそ最も恐ろしいことではないのか?
 いったんこうした戦争への「空気」が出来上がってしまえば、それは容易に引き金を引かせることになり、いったんそうなれば憎しみが憎しみを呼んで互いに殺し合うことが「使命」となってしまうのである。いまの世界情勢はそういう「空気」を生み出しつつあるのではないだろうか?

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2017年7月30日 (日)

NHK-BSドキュメンタリー「爆走風塵」を観て

 NHK-BS1で再放送されていた中国トラック業界の実情を記録したドキュメンタリー「爆走風塵」を観た。3組のトラックドライバーに密着取材したもので、1組はベテラン2人コンビのドライバー、2組目は親子一緒に仕事をする親子ドライバー、3組目は小さな子供と妻を一緒に連れたまだ新米の家族ドライバーである。

 中国は、2000年頃からの経済の急成長の中で、物流が急増し、トラックドライバーの不足が深刻だった。その頃、急成長する沿岸部や都市部に比べて置き去りにされていた農村部から大量の農民出稼ぎがこうした労働力不足を補っていった。
 興味あるのは中国ではドライバーがほとんど自営であり、ローンを組んで高価なトラックを買い、自分で仕事を探しに行く。そして四川省成都の様な交通の要衝にある大都市には、こうしたトラックドライバーの求める仕事と製造業者などからの物流の要求を仲介をする業者が一カ所にあつまる「市場」が存在する。
  ここでドライバー達は行く先や距離などを勘案して自分にとって好都合な仕事を見つけ出し、運送料の交渉をする。運送料は荷物の届け先で受け取るが、あらかじめこの市場で交渉して決める。そしてその運送料の中に高速道路代やガソリン代などを含めてそれに自分たちの取り分を上積みした金額で交渉する。
 当初はドライバー達は人手不足で月20万以上は稼げた。しかし、近年は中国経済が減速して状況は悪化した。経済成長が頭打ちとなって物流が減った上、国の政策でガソリン代が大幅に上がった。高速道路代はインフラ整備の国家財政を補填するために高額に設定されている。一頃は石炭産地から工場・発電所などへの石炭輸送に大量のトラックドライバーを吸収したが、いまは国家のエネルギー戦略の変更でそれが激減した。そしていま中国は全体として物流量が減少し、完全に「ドライバー人口過剰」の時代に入ってしまった。
 しかしベテラン組はこれまでのノウハウをフルに生かして、ナビなどは使わずにどこにでもコストパフォーマンスのいいルートを選んで向かって行く。それでもガソリン代の値上げや高い高速道路代で運送料から多くの経費をさっ引かれることになる。それでもベテランの彼らは一回の仕事で数万は稼ぐことができる。
 しかし、親子ドライバーは想像以上の石炭輸送の減少などでさんざん苦労しても若干の赤字になってしまった。そして悲惨なのは家族ドライバーである。彼は新米でルートの選定や行き先の常態などをしかり把握していなかったこともあって、途中道を間違えたり時間が遅れたりして妻と喧嘩になったり運転席で赤ん坊が泣き止まず「うるさい!」と怒鳴ったり、無理して長時間運転をして居眠りしそうになったり、予想もしなかった山道の悪路で怖い思いをしたり、大変な苦労をするが、結局目的地に2日も遅れて到着して運送代を受け取っても大幅な赤字となってしまった。妻に気まずい表情を見せながら彼は再び新しい仕事を求めて「市場に」赴く。
 このようないまの中国のトラックドライバーの実情は、日本のそれとはかなり違うかもしれないが、共通する問題ー例えば、実際は企業に雇用されている労働者と同じ立場なのに「自営業者」とみなされ、下請け業者として搾取される技能労働者の問題などーもあると思われる。
 ここでは中国の労働者達の現状の一部を垣間見たのであるが、いま日本やヨーロッパなどでは中国からの観光客がどっと訪れてそれらの国々でオカネを落としていってくれるので「大歓迎」している。こうした観光客は中国のいわゆる「富裕層」にあたる人たちであって、彼らは鄧小平の「改革開放」以来、市場経済の中で自分たちの収入や財産を大幅に伸ばして成功した人たちであろう。
  しかしその一方で多くの労働者はこのトラックドライバーに見られるような苦境に耐えているものと思われる。そしてこうした下層労働者とともに疲弊する農村での生活も決して楽ではなさそうである。
 「経済成長」を推進させるはげしい企業資本家間の競争は他方で激しい労働力市場の競争生み、労働者は生き残るために自分の労働力を必死に企業資本家達に売り込まねばならない。まさに資本主義社会のもっともおおきな矛盾が人口13億という巨大な国で繰り広げられているのだ。
  しかもその国はなんと「社会主義国(人民共和国)」というカンバンを上げている。ほぼ完全な資本主義経済でありながらどこが「社会主義国」なのかといえば、それは共産党一党独裁体制だからである。アメリカや日本などと異なるのはいまだに資本主義的「自由市場」の中に国営企業が存在し、経済政策に関して国家が非常におおきな権限を持っていることだろう。
  この国の創立者である毛沢東の思想はマルクスの社会主義からはほど遠いものであったが、いまやその毛沢東の思想を完全に覆す鄧小平による「市場経済化」が達成され、しかもそれが毛への表だった批判もなく、「文化大革命」の指導者への処罰という形を通じてなし崩し的に行われたのである。
  そしていまなお毛沢東は「国家の創立者」として祭り上げられているとともに鄧小平もいわば「救国の祖」として祭り上がられている。不思議な国である!
  「改革開放」経済であり「人民共和国」であり、「人民解放軍」がおそるべき軍事力で周辺国に圧力を掛けているが、本当にこの国の労働者や農民は「解放」されているのだろうか???

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2017年6月 6日 (火)

三内丸山集落と白神山地(その2)

 (その1より続く) そして、彼らの共同体を支えていたのはその背後にある広大なブナ林であったと思われる。そこで得られる木の実や動植物の採取によって彼らは生活していたのである。そして彼らの共同体は数千年に渡って存続した後、他民族の侵入によって突然終わってしまった。しかし広大なブナ林だけは自然界のさまざまな変化に対応しながらそのまま今日まで存続しているのである。

 そこはまことに荘厳な気配に充ちていた。ブナの巨木はまるで人間どもを見下ろすように厳然としてそびえ、冬はすべての葉を落として雪に耐えて眠り、春になると再び美しい緑の葉をつけて大地を覆った。夏でも日差しの少ない森の大地には驚くほど多くの種類の植物が生きていた。命つきて倒れた巨木が朽ち果てて横たわり、そこにキノコが育っていた。
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 そしてこの 8000年も前から存続している広大なブナ林は、いまでも当時のように、遙か山並みの空に溶け込むあたりまで果てしなく続いている。
いま人生の終わりに近づいている私は、このような広大な大地の一部になることができれば、これまでのさまざまなつらく苦しい記憶は浄化され、安らかに大地を形成する元素に戻れると感じた。

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三内丸山集落と白神山地(その1)

 先日初めて、津軽地方の縄文前期の集落の蹟である三内丸山遺跡とその社会を支えた広大なブナ林が未だ手つかずで残っている白神山地を訪れた。

三内丸山集落蹟に復元された巨大な栗の木による列柱のモニュメントと巨大な茅葺きの集会所?は、当時のまだ階級社会が成立していなかった原始共同体の生活を思い起こさせるものであった。巨大な列柱モニュメントは何かの祭儀に用いられたと想像されるが、ムラのシンボル的なものであっただろう。そしてここで行われたと思われる祭儀は、おそらくは今の様なカリスマ的教祖への宗教儀式というよりは大自然を神として畏敬の念をもって扱い、その一部としての自分たちの共同体の存続と維持を祈念していたのではないだろうか。
集会所と思われる巨大な建物の内部は上座下座などの区別もなく同じ高さの土の床に座って話し合いをしたらしい。現代社会の様に、人生のすべてのシーンが金儲けの手段として利用され、恣意的に作られた空虚な「便利さ」や「おもしろさ」に囲まれることが生きる意味であると思い込まされながら老いて行き、結局社会から見捨てられるということは決してなかっただろうし、おそらくはシンプルで明快な関係のもとに共同体での支え合いの中で、力一杯の人生を生き抜き、現代よりもはるかに充実した日々を送っていたに違いないと思った。
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(その2)に続く。

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2017年5月 9日 (火)

閑話休題:お笑い想定問答 「国母」のリーダーシップ

 フランス大統領選挙に勝利したマクロン家での一場面:

ブリジット:「マニー(Manny:エマニュエルの愛称)、選挙運動中のあなたの演技は最高だったわ!」
エマニュエル:「ブリジット、君の演技指導のおかげだよ」
ブリジット:「でも私心配だったのよ」
エマニュエル:「何が?」
ブリジット:「あのルペンってなんとなく”フランスの母”って感じじゃない」
エマニュエル:「それで?」
ブリジット:「いまのヨーロッパはそれぞれの国が”救国の母”を欲しがっているように見えるの」
エマニュエル:「確かにイギリスもドイツもスコットランドもそうだね」
ブリジット:「そうなの」
エマニュエル:「でも、大丈夫、僕にはブリジットという”裏のフランスの母”が居るからね」
ブリジット:「ううん(首を横に振りながら)、あなたがフランスの大統領になれば、EUは安泰だけど、EUのお母さんでもあるメルケルにあなたが引きずられるんじゃないかと心配なの」
エマニュエル:「大丈夫、僕はああいう人は好みじゃないから」
ブリジット:「でもフランスはEUのいわば家族でしょ?家族の長はメルケルよ。あなたはああいう人を頼りにしたがるわきっと」
するとそこにロンドンから電話が掛かってきた。
メイ首相:「マクロンさん、次期大統領ご当選おめでとうございます。イギリスのメイです」
エマニュエル:「メイ首相ありがとうございます」
メイ首相:「これで私のBREXITもやりやすくなりました」
エマニュエル:「なぜ?」
メイ首相:「おほほほ、それは言わずにおきましょう」
エマニュエル:「..............」

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2017年4月14日 (金)

資本論を理解することの私なりの意味

 もう半世紀近く前の話ですが、私はかつて学生運動をやっていた友人に触発されて資本論を読み始めたのですが、第1巻まで読み終わったところで自分の生活状況の変化などからずっとその先を読まないままでいました。その間宇野弘蔵の経済原論や価値論などから多くの資本論研究の成果を学び、私なりにある程度理解が進んだ様に思っていました。しかし、その後いわゆる「社会主義圏」の崩壊、そしてアメリカを中心とした資本主義が世界を席巻することになり、それによって「(アメリカ的な)自由と民主主義」という社会観がいわば普遍化されていく中で、資本はグローバル化され続け、その矛盾がありとあらゆる場所で様々な形で噴出するのを見ていて、再び資本論をキチンと読み直そうと決心しました。

 ちょうど学生時代の先輩からある資本論購読会を紹介され、そこに加わりましたが、そのグループは宇野弘蔵のマルクス研究を評価せず、「俗流経済学者」と決めつけていたので、宇野経済学から多くのものを学んだ私には抵抗感がありましたが、資本論をキチンと理解しようとする真摯な姿勢に私は共感しまた。その会を通じて私は初めて難解な第2巻の前半部をなんとか読み終えることができました。これはおそらく自分一人では難しかっただろうと思っています。後半の再生産表式を巡る理論に関してはすでに一部読んでいたのと宇野経済学から学んだ知識もあるので、前半ほど難渋はしないで済むのではないかと思っています。そして第3巻までなんとか読み終わりたいと考えています。
 こうして資本論を読み進むことによって、マルクスの分析の科学的・論理的冷徹さをますます感じ始めました。これはいわゆる「選択肢としてのイデオロギーの一つ」などという範疇をはるかに超えて、自然史的レベルまでをも視野に入れた研究・分析だとわかります。しかもそれは単なる現実社会のへの「科学的理解」だけではなく、同時に人類社会の未来とはどのようなものであるべきかを指し示す社会科学的根拠をもたらす、実践の基盤になるものだと思います。これを安易な「理解」で歪曲したり、無視しようとすることは簡単でしょうが、そんな歪曲や無視はいずれ歴史からしっぺ返しを受けることになるでしょう。
 もちろんマルクスの研究成果をさらに発展させるための批判は必要で、それが生産的批判であるためには、現実社会が歴史の中でどのように展開されているのかをつぶさに見る必要があります。マルクスが死んで130年以上も経ち、激動の20世紀を超えて現在があります。この歴史過程の中でいま目の前で起きている矛盾に充ちた事実をどう理解するのか、そのとき、マルクスの研究成果が必要になり、しかもそれをできうる限り理解して自分のものにしているべきなのだと思います。
 そしてその理解された限りでの理論を武器として目の前の現実社会で起きている矛盾を分析し、問題の根拠と構造を解明し(現状分析として)、それを表明することがまず必要です。その上でそれを巡ってのディスカッションが必要で、こうした過程を経て、資本論への理解が進むと同時にその成果をさらに高いレベルに発展させることができ、私たちの目指すべき未来社会の姿が具体化されていくのだと思います。
 イデオロギーはこうした真摯なディスカッションを経た冷徹な論理・科学的理解のうえに築かれる思想としてあるべきであって、独断的な解釈やトップダウン的決めつけによる「イデオロギー主義」や、感性だけに訴えるどこかの宗教を信じることと同じではありません。
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 このような考えで私は不十分な理解と承知しながらこのブログ上で自分の分析や意見を表明してきましたし今後も続けていくつもりです。しかし知名度が低いブログであるせいか、読者からの批判やコメントが少なく、肝心のディスカッションはあまりできていません。その点は残念です。

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