書籍・雑誌

2010年7月22日 (木)

 資本論を理解するために

 あの膨大な書である「資本論」を完全読破するのは容易ではない。特に私が七転八倒した向坂逸郎訳の岩波書店版「資本論」(全3巻4分冊)は読みにくい。またこの定本となっている日本語版「資本論」がドイツ語版からの訳であるのに対して、最近サミュエル・ムーアがエンゲルスの監修の元に英語訳した資本論をmizzさんがメルマガ(http://archive.mag2.com/0001025661/index.html)で逐次日本語化しており、向坂版との違いを比べながら読むと、理解を助けることになると思う(所々に入っている「訳者注」もおもしろい)。

 そこで最近いくつか出てきた資本論の入門書を当たってみたが、まず、的場昭弘先生の「超訳 資本論」(洋伝社新書,2008-2009)は、たしかに原典よりは読みやすいが、あくまでも「超訳」であって、資本論のエッセンスを的確に理解するにはほど遠い内容である。また、東大名誉教授の伊藤誠先生以下、旧宇野派の流れを汲むと見られる著者たちによる、「マルクス「資本論」入門(河出書房新社,2009)、という本は、6つのレクチャーをそれぞれ別の著者が担当して書いているのであるが、それら6つのテーマ間の関連性が理解し難く、著者が得意とするテーマの断片だけが羅列されているという感じである。さらに全体の俯瞰図的位置づけで書かれている、的場先生による「資本論」完全解読は、原典に表出されているマルクスの「濃い」意図とこの書に掛けたすさまじい熱意を、完全に薄めた上で冷たく冷やした食後の飲み物のようにしてしまっている。

 こうした「資本論入門書」を読み、さらに柄谷行人の「可能なるコミュニズム」(太田出版,2000)などを読んで、マルクスの思想が理解できた、などと思われてはとんでもないことになるので注意しよう。

 そこで私がおすすめするのが、宇野弘蔵の名著「経済原論」(岩波全書, 1964)である。宇野弘蔵先生は、20世紀中葉に「資本論」解釈の主流であった、ソ連共産党の公式解釈の持つ問題点を批判しつつ、資本論の独自の解釈を行ってきた数少ないマルクス経済学者であるが、マルクスの意図を主体的に受け止め、自分なりに理解し、論理的な整合性を持った形でそのエッセンスをまとめたのが、この書である。宇野派では、原理論のテキストとして用いられたこの本は、「超訳」とは比べものにならないほど内容的にしっかりした論理性を持っている。

 この「経済原論」は久しく絶版状態になっていたが、最近、装丁も新たになって、岩波全書から再販が出ている。大して厚くなく、その気になれば、一気に読める。特に、私のように、資本論第1巻を読み終えた後、第2巻、第3巻に読み進む意欲を削がれてしまった人には、そのモチベーションを起こさせるのによい本である。私は、その中で特に、「社会的総資本の再生産過程」という章から多くを学び、資本論第2巻を読むためのモチベーションを得た。

 しかし、「経済原論」を読むことで「資本論」を理解できたと思うのは大きな間違いであり、これはあくまで、「資本論」を「完全解読」するための有力なナビゲータであるに過ぎない。宇野「経済原論」は、資本主義的経済の背後でその批判により明らかにされる普遍的な意味での「経済原則」を描き出そうとした本であると思うが、そこにはひとつ足りないものがある。それは、資本論が労働者の「自覚」の書であるという視点である。

 世の中を支えている労働者が実は「労働力商品」として、つまり価値を生む商品として用いられているということを自覚し、自らの労働過程が自らを支配する仕組みの再生産の中に組み込まれ、それら全体と過去のすべての労働の成果が「資本」として我々の生活を支配している資本主義経済の仕組みを理解させようとするマルクスの意図を正しく汲み取ることこそ、資本論を読むことの意味であり、われわれの、実存を資本の圧迫から解放させるための出発点であるということを肝に銘じるべきであろう。

 私のようなマルクス経済学の素人である人間には、おそらく「資本論」の「完全解読」はライフワーク的目標であり、生きているうちに「完全解読」出来る自信はまったくない。それでも私が「資本論」を読もうとするのは、自分が生きているこの社会がどのような社会であり、自分がその中で生きていることの意味を知りたいからである。

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