経済・政治・国際

2019年5月20日 (月)

基本的問題について考えよう!

 いま地球温暖化による自然環境悪化の危機が叫ばれ、二酸化炭素排出量の削減が求められている。経済成長が進むと温暖化も進む、これはまぎれもない事実である。だから経済成長を押さえねなければダメだと言えば、そうなれば世界経済が破綻するという。自然エネルギーの利用を新産業として育成すれば経済成長が維持されたまま温暖化も防げるという。しかし、その膨大なエネルギーをいったい誰が何のために使うのか?今の経済は必要もないモノを次々生みだしてそれをドンドン買わせて捨てさせることで成り立っているのではないか?つまり無駄の生産でしか生き延びるこことができなくなっているのがいまの資本主義経済ではないのか?それを「生活が豊かになった」と思わせるのがいまの支配層のイデオロギーだ。その中で人々は自分の人生はモノをドンドン買うことにあると思うようになり、生活にモノは増えるがドンドン心の中身が薄くなっていく。モノをドンドン買える生活のためにはお金が必要だし、子どもが将来いい就職先に雇ってもらえるための教育にも「ハンパない」金がかかるので、そのためにいやな仕事でも我慢して長時間働かねばならない。そして頭の良い人間はうまく金儲けのできる世界へと泳ぎ出し、富裕層や支配層になっていく。しかしフツーの人間はだんだんこういう生活に疲れてきて落ちこぼれていく人もドンドン出てくる。そしてそこから一瞬でも解放されたい人は「バーチャル」なゲームやファンタジーの世界に逃げ込む。こうして世の中の「格差」が可視化されていく。

 そもそも「経済成長」ってナニ?こういう生きにくい現実をビジネスチャンスとしてとらえ、その中で少しでも金を儲けて資本を蓄積していくのが資本家的企業だ。要するに「経済成長」=「資本の成長」なのだ。その中で人生の中身はすべて「商品化」され金儲けの対象となる。それは決して「人類の成長」ではない。そもそも競争で個人的富を増やすことが原則の資本主義社会を支えるための「経済学」は限られた地球資源をもっとも有効にしかも長く人類の存続のために用いることができるように、無駄なく必要なモノだけをつくりながら、人類社会全体が地球環境の一部としてその物質代謝を支えていく方法を考えるという経済の原則を忘れ、それと真っ向から対立する方法で「経済成長」を捉えている。

 こうした基本的問題を考える人はまだあまり多くない。しかし、特に若い世代の人たちにとって自分の将来を考えるとき、それは避けて通ることのできない問題ではないだろうか?

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2019年5月17日 (金)

「MMT体制」はいつ破綻するか? それは明日かもしれない!

 最近Modern Monetary Technologyなる理論がまかり通っているらしい。今朝の朝日新聞「投資透視」欄でも野村證券の人が取り上げていたが、「インフレを招かないかぎり財政赤字は心配ない」という考え方らしい。巨額の政府借金を抱えて低金利、低インフレが続いていても経済破綻せず、「円」も安定しているいまの日本がその証明だといっているらしい。アベノミクスの「ヨイショ」理論とも受け止められるが、一方でデフレ気味の現在、消費税の引き上げは間違っているという見解をしめしているらしい。しかしこのコラムの筆者も言うように、財政赤字を野放図に拡大させ続けるとある時点で、中央銀行が国の債権を引き受けざるを得なくなり、通貨が大量発行され通貨の価値への疑念が生じ始めると急激なインフレが起きる可能性がある。個人や私企業間では借金を返済できなければたちまち信用を失い経済的に成り立たなくなるのは当たり前だ。それを中央銀行が国債を買い支えていれば国家はいくら借金をしても大丈夫などというのはどう考えてもおかしい。へりくつとしか思えない。私のような経済学の素人ですら分かることだ。

 少子高齢化が進み社会保障への負担がますます増大することが確実な日本でそれへの備えもなく消費増税に頼るしかないアベノミクスはもうすでに破綻しているという人も多いが、もし米中経済戦争が激化して世界経済が落ち込み、どこかで戦争でもはじまれば、たちまちインフレが起き、日本だけではなく、世界資本主義体制全体が崩壊の危機を迎えることになるかもしれない。これはかなり確度の高い予想である。もちろん資本主義の崩壊は歴史の必然といえるであろうが、その過程でもっとも大きな犠牲を払わねばならないのは労働者階級である。

 わたしたちは失業や戦争による犠牲を最小限に抑えるべく、いまからそのための準備をしておかねばならないのではないだろうか?すでにそのきっかけは始まっている。それはいまアメリカでもヨーロッパでも起き始めている労働者階級の新しい動きである。かつてはリッチなアメリカで「労働貴族」となって高賃金を条件に経営者の片棒をかついでいたAFL-CIOなどの労働組合が変化しつつある。アメリカ社会の貧困化の現れである。そしてフランスやドイツなどでは失業率が低くなってはいるがその労働内容や賃金水準の悪化は覆い隠せない。だから労働者たちは大量の移民がやってくれば危機感を持つのは当然だ。

 そしていまこうした危機感に乗じて排他的民族主義を掲げる政党の台頭がが目立つ一方でインターネットなどを通じてこうした世界中の労働者たちが互いに自分たちのおかれた実状を認知し合えるようになってきている。やがてこうしたうごきは一つの大きな労働者階級の連携した運動へとつながるに違いない。「万国の労働者、団結せよ」である。そしてそれこそが歴史を動かす本当の力になって行くに違いないと思う。2000万人以上いると言われている日本の非正規雇用労働者たちもこの動きに気づくべきだろう。

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2019年4月 6日 (土)

市場経済型民主主義の矛盾

 これほどまでに社会全体にしかもグローバルに資本主義市場経済が浸透すると、社会における人間の在り方や個々の人々の意識、そして政治体制そのものまでが資本主義的市場原理に支配されてしまうようだ。そのもっとも典型的で危険な現れが、いわゆる「民主主義国家」の現状である。民主主義の総本家を自認するアメリカを初めとして、そのルーツであったイギリスやフランスといった西欧諸国の政治状態がいまや混乱と限界を呈してるように見える。もちろん日本もその例外ではない。

 アメリカでは共和党と民主党という2大政党による考え方の違いがそのときどきの世界情勢や経済情勢に反映されて、「民主的選挙」によって政権が何度も交代してきた。得票結果の多かった政党が国家の政治の主導権を握るが、アメリカではこの議会による政治を大統領という指導者が舵取りすることになっている。下院、上院議員選挙と別に大統領選挙というのが重要な「民」の意思表示機能を担う。議会制民主主義がいわゆる「衆愚政治」に陥るのを防ぐためもあろうが、要するに資本家企業の運営組織体制に近い形態であると思われる。株主総会、運営取締役会、執行取締役会、そして社長という具合にだんだんに責任体制を少数化して最後は一人の人間が執行責任を負う形で「決断」を行う。だからこの大統領(President:社長もおなじ単語)は大きな権限を持つ。大統領は社長なのである。トランプはその典型であり、すべての重要な決断を彼が"My deal"(オレの取引)として行う。彼の周りにブレーンや取り巻きがいるがみな彼の「お気に入り」ばかりである。こうして「民主主義的」に選ばれた「社長」がアメリカ株式会社を運営している。もちろんこの「民主主義」体制のもとで、つねに失業や差別、そしていわゆる社会の格差化がどんどん進行している。そうした中で下層化した人たちの不満の声に迎合し、彼らを代弁するかのように"Ameria first!"と受け狙いをして当選したのがいまのトランプ「社長」である。民主主義政治では選挙は「政治における商品市場」である。ここで国民は「購買者」とみなされ「候補者商品」の「売り込みキャッチフレーズ」(選挙公約)によってどの「候補者商品」を買うかを決める。そして首尾良く広告宣伝が功を奏して買ってもらえた(つまり当選した)候補者は、購買者の期待に添うべく、公約を果たすが、その公約自体が「受け狙い」以外の何物でもなく、分かりやすいが底が浅く内容に乏しい。だからこの公約は矛盾だらけであってボロが出まくる。しかしそれでも「トランプ・ファン」はそれを気にしない。そうこうするうちにアメリカ株式会社はどんどん危険な方向に向かいつつあるようだ。FRBが利上げを止めても結局、「独裁的資本主義体制」によりアメリカよりはるかに効率よく労働の搾取と資本の蓄積を進めている中国とのグローバル市場での「ディール」が失敗すればアメリカ株式会社は大変なことになるだろう。

 一方、議会制民主政治の「元祖?」であるイギリスでは、EUからの離脱問題(BREXIT)をめぐって保守党と労働党という2大政党体制が崩れ、党内での対立や多党派との流動的絡み合いによってメイ首相の堤案が次々に否決されている。このまま「合意なき離脱」ということになれば、イギリスもグローバル市場で危ないことになる。そもそもEU自体が、西欧のベネルックス3国から始まった経済共同体EECを基盤にして発展していったのであるが、それが「東西冷戦崩壊」により東欧諸国が加わることで、経済的事情や生活水準が異なる国々の間で統一通貨を用いて関税撤廃するなどというかなり無茶なやり方を通したため、いま中東からの難民受け入れなどをめぐってその歪みが大きくのしかっかってきているように見える。イギリスもこのEU自体の内部矛盾との関係でBREXITへの道を歩み始めたことになるが、それによって失う物は大きいようだ。しかしイギリスの場合、アメリカと違うのは、カリスマ的指導者に頼らなかったことである。民主主義の矛盾をカリスマ政治によって補完するのはいまに始まったことではないが、あの第2次世界大戦の経験からイギリスはその結果どうなるかを知っている(と思いたい)。しかしその反面としての「決められない政治」になってしまっているのである。

 いま、「民主主義」と称する政治体制は矛盾の両極に振れている。一方では「決められない政治」の混乱をカリスマ的指導者に救ってもらうことで「民主主義」の本質を喪失するか、他方で独裁を否定して民主主義の本質を護り「決められない政治」や「結論に時間がかかる政治」を続けていくことで、めまぐるしく変化する世界情勢から取り残されてしまうのか、というジレンマである。

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2019年3月24日 (日)

「経済成長」とともに労働者の生活は貧困化する実状

いま、少子高齢化が大きな社会問題となっているが、これに対する政府の対策ははっきり言って小手先のごまかし程度しか成されていない。
 なぜ、「ゆたかになった」と言われる生活の中で若者が結婚して子どもを持つことが少なくなっていったのか、という問題には大きな落とし穴があるからだ。
 私が4〜5歳の幼児だった頃、日本は戦争のまっただ中で、若者が徴兵で前戦に送り込まれ消耗品の様にどんどん死んで行っていた時代であった。そして当時の政府は「生めよ増やせよ!」と宣伝して兵士として育つよう子どもを増やそうとした。戦争中の食糧難で厳しい生活の中でも、若い夫婦は子どもを生もうとしていた。表面上は「お国のため」そして本当は家族が多い方が良いからだ。
 そして終戦。親が戦死したり空襲で死んでしまった子供達は、「戦災孤児」(「浮浪時」とも呼ばれていた)として都会にあふれていた。ラジオではこうした子供達の生活を描いた連続放送劇「鐘の鳴る丘」が人気を集めていた。当時はまた、戦場やかっての植民地からどんどん人が帰国し始めて国内の人口は増えていった。それと同時に、戦争が終わって若者が戦場に駆り出されることがなくなったので、安心して子どもを産む夫婦が増えてこどもの人口も増えていった。そうした復員兵や帰国者、およびその子どもたちたちがやがて日本の資本主義復活に必要だった労働力となっていわゆる高度成長の原動力になっていったのである。
 そして、そのころ日本資本主義の復活と成長を支え、「ゆたかな生活」という目標をともかくも達成させてきた労働者階級が高齢化し、いま一方でその後の世代を担うべき若い労働者の数が少しづつ減ってきたのである。いまやハイテク技術と国境を越えた豊富な物流の中で、人々は高水準化した労働賃金をどんどん生活消費財や趣味娯楽の世界に支出して「ゆたかな生活」を送っているように見える。
 しかしその反面で、昔は「びんぼう」ではあったが、子どもが多くても何とか生活できた社会的基盤があったのが、いまは「ゆたかな生活」になっても子育てするための社会的基盤が失われてしまったのである。
 その主要な原因は、「ゆたかな生活」が実は、モノ(商品)を出来るだけ多く売るために、どんどん買わせて消費(あるいは廃棄)させ、より多くの貨幣をできるだけ早く回転させ、それによって資本家企業がより大きな利益を獲得することが「経済の成長」であるとされ、その経済的メカニズムの上に世の中が成り立っているからだといえる。
 労働者の賃金は昔に比べて高騰し見かけの給料は増えたが、次々と購買欲をそそるモノが売りに出されるため、その多くの部分がそうしたモノを買うために支出される。残りを貯金して将来に備えようとすれば、今度は子どもの教育費がかさむようになり、そのためにこの貯金を使わなければならなくなる。いまでは企業が高度な知識を持った頭脳労働者を必要とし、その育成に必要な教育機関もビジネスになりどんどんオカネを使わせるようになっているからだ。生活必需品である住む場所としての家も持ちたいが、労働年齢の大半を費やしてローン(給料の前借り)で購入しなければ手に入らない。ようやく子どもが大学を出て新たな労働力として資本家企業に雇用されても、自分は退職金を老後の生活保障のために用いなければならず、子どもは再び、消費財の購入で賃金の多くを支出し、自分の家も持てず、子育てもお金がかかり過ぎて無理、だから結婚もしないで、自分だけの「お一人様人生」を楽しむ生き方を選ぶことになる。
 政府は税金を引き上げてそれを高齢者の介護や子育て支援に用いようとするが、ただでさえ余裕のない生活を送っている労働者階級には税の負担は限界があり、結局それだけでは切り回せなくなる。
 世の中は「お一人様人生を楽しむ」というある意味で惨めな生き方を選ばざるを得なくなった若者たちの消費欲をどんどん刺激し、高齢者のなけなしの貯金をどんどん崩させて消費を拡大しないと経済が「成長」しなくなるので、世の中はモノにあふれ、「ゆたかな生活」であるかの様に見える。しかしその裏側では人々の生活は実質的にどんどん崩壊しどんどん貧困化していっている。
 ここでいう「貧困化」とはモノにあふれているが、生活における幸福感や将来への希望や安心感が失われている状態を指す。だから「お一人様人生」は絶えず「楽しみ」を求めて現実社会ではなく「バーチャルな世界」に逃避しようとし、AIやアニメの壮大な妄想世界が若者の心を捉える。そしてまた資本家企業がそれをビジネス・ターゲットとして捉える。そしていつのまにか世の中から子どもが減っていき、未来への希望も失われていく。
 あのモノもオカネもなかった終戦直後の貧乏時代、3世代家族で子どもや孫たちに囲まれてそれなりに生きる意味を味わって生きていた高齢者は、いまでは孤独な介護施設で外国人看護師のお世話にならないと生きて行けなくなった。そして蓄えていた貯金はすべてそのために使い果たされる。これを「貧困な社会」と呼ばないで何と呼ぶのだろうか?
 この現実を認識することがまずは先決である。そしてそれからその本当の原因を突き止める旅に出よう。

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2019年2月15日 (金)

韓国政府の「天皇謝罪発言」をめぐって

 最近韓国のムン政権は、徴用工問題や自衛隊機へのレーザ標的照射問題などで対日強硬姿勢を打ち出しているが、これに対して日本の安倍政権が反発したことに対して「歴史認識に関しては日本の天皇が謝罪すれば済むことだ」と発言し、これがさらなる日本政府の猛反発と日本人の多くに「嫌韓」意識を刺激しているようである。
 これに対していわゆる民族主義的な人たちは当然「嫌韓」を丸出しにしているが、いわゆる左翼の人たちは戸惑っているように見える。というのもムン大統領が北朝鮮との融和を前面に打ち出しているのは彼がリベラルの一翼を担っているからであり、それを「良し」としていたのに、そのムン大統領がなぜいま日本にことさら強硬な態度を取るのかが理解しかねるからであろう。
 多分、その理由は第1に、ムン大統領がパク前大統領の不正問題への韓国の人々の猛烈な批判を受けて、大統領に当選したことで、その支持層の要望に応える必要があるからだろう。ムン大統領の支持層が抱くパク前大統領への不信感の中に慰安婦問題への前大統領の決着の付け方があったのだと思う。日本の安倍政権はこの条約をもって国家間の約束事であるからいまさらこれを破棄するようなことは許されない、と強硬な姿勢を取るが、韓国のムン大統領支持派にしてみればこれは自分たちの本意を反映していないということだろう。
 そして第2に、ムン政権の北朝鮮への融和政策があると思われる。南北問題はキム北朝鮮主席の挑発的核兵器開発に対するアメリカのトランプ大統領の猛反発から始まり、両者の間で意外な形で「手打ち」が成立したことがきっかけで融和への動きが始まったのであるが、ムン大統領はこの融和への動きに自分の政治生命を賭けた。そのためキム主席の強硬な反日姿勢に一定程度迎合する必要があったのだろう。
 この二つの理由でムン大統領のいまの対日強硬姿勢があるのだと考えられる。
 これに対して日本の大半の人たちは韓国政府の態度にある種の怒りを感じており「嫌韓」意識を高めているようだ。この現状は善かれ悪しかれ韓国の人々にとっても決してよい結果をもたらさないだろう。

 そこでここで少し歴史を遡ってこの問題を考えてみよう。韓国政府の主張の背景にはかつての日本による朝鮮半島の植民地化や韓国人へのいわれなき差別意識の助長は天皇を頂点とする日本の帝国主義的政策があったからだということだろう。このことはわれわれもしっかりと歴史的事実として受け止めねばならないと思う。
  戦争中日本国民は「天皇の国」を護るために戦争に駆り出され、兵隊に採られた農民や労働者たちは天皇の国(皇国)をまもる捨て石なって死ね、と言われて必死に闘い、まったく個人的には何の恨みもない人々を上官から「敵国民」として殺戮の対象とされ、自らもそういう人たちとの殺し合いの中で命を落としていった。そしてそのような軍隊の最高司令官として天皇が祭り上げられていたのである。
 明治維新以来、日本の「富国強兵」策のもとで進められた帝国主義的アジア侵略のもとで他国の人々との殺し合いを強いられ、「世界に冠たるニッポンの国民」という支配者のイデオロギーを植え付けられ、何百万もの人々がその命を「天皇」に捧げてきた。その意味では日本の農民、労働者もまた天皇制の犠牲者であるといってもいいだろう。そうした中で否応なしに日本帝国の一部に組み込まれてしまった朝鮮半島の人々へのいわれなき差別意識も植え付けられていったのだろう。
 そこで天皇の第2次大戦での責任が当然問題となる。第2次大戦で敗戦国となった日本で多くの戦犯が刑にふされ昭和天皇自身もおそらくは一時は戦犯に問われることを覚悟していたのではないだろうか。戦後の「東京裁判」では軍部の指導者の多くが戦犯となり処刑された。しかし最高司令官だった天皇は罪を問われなかったのである。これはいままでの世界史の中でも希なことだと思う。
 その背景には当時のマッカーサー司令部の政治的判断があった。明治維新以来80年近くにわたって植え付けられてきた皇国史観イデオロギーに染め上げられた日本人民にとって天皇を戦犯にすることは日本をうまく治めていく必要がある占領軍司令部としては得策ではないと判断したのだろう。そしてその後、当時のソ連との対立が深まり、いわゆる東西冷戦に突入することとなり、日本を「防共の砦」とする必要上、この処置は恒久的なものとなり、マッカーサー司令部の監督のもとで新憲法が出来上り、その中で天皇は「象徴」として位置づけられたのだ。
 そしてその後日本は朝鮮戦争の「特需景気」をきっかっけにして経済復興を遂げ、アジアでの経済大国となったのである。そうした中で「天皇の戦争犯罪」を口にすることはだんだん憚られるようになっていった。
 しかし昭和天皇が亡くなり、平成天皇が後を継いだとき、おそらく平成天皇がもっとも考慮したのがこの戦争での戦死者や他国の被害者たちのことであっただろう。その心中では父親の犯した罪を自分なりに償わなければならないという意識があったに違いない。だから平成天皇はその在位中ずっと慰霊の旅を続けてきたし、自分の「象徴」としての位置をどう捉えてよいか常に悩み続けていたと思われる。彼は「象徴」という立場として「謝罪」を口にすることが
できない状況に置かれていたのだ。
 これに対して現韓国政権は、これもまた政治的に韓国人の反日感情を利用して、天皇に謝罪を求めるような発言をしたのだろう。歴史の真実を正面切って捉えようとしない安倍政権とたいして違わない政治的態度である。
 問題は日本の人々も韓国の人々も、互いに「国家意識」とか「民族意識」による排外的アイデンティティーで結束するのではなく、お互いにあの戦争では当時の日本の帝国主義的支配者たちの犠牲になってきたという意味では同じ立場にあるということを認識すべきなのだと思う。もちろんわれわれは一方的な加害者として行動させられてきたのではあるが。その上で再びいまの支配階級が自分たちの政治的立場を維持するために互いにこうした問題を政治的に利用していがみ合っていることに対してもっと冷静に捉えることが必要なのではないだろうか?
 明治維新で生まれた政府によって中央集権化のために政治的に利用されて誕生した近代の天皇制が結局、その後の富国強兵策の強行にも利用され、日清・日露戦争で辛くも勝ってきた軍が自身を深めて、突入した第二次大戦において、その帝国主義的国家の結束を高めるために頂点に押し上げた天皇が、その悲惨な結果を招いた敗戦後も存続し、「平和憲法」の中で「象徴」となっているという皮肉。そしてそのことにより天皇自身も「フツーの人」になれなくなってしまっているという矛盾。これを何の疑問もなく考えたこともないという方が不自然なのではないだろうか?
 

 
 

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2019年2月11日 (月)

「モノづくり立国」はなぜ長続きしないのか?

 2月10日の朝日朝刊4面に、「総合電機解体への歩み」という記事が載っていた。かつて日本では高度成長時代の花形産業として登場した電機メーカーがその周辺の関連メーカーを傘下に収めていく形が主流だった。重電から始まった日立、東芝、三菱電機などと、家電や音響機器から始まった松下電器、ソニー、シャープ、などなどである。その後いわゆるIT革命が訪れて、IT関係のメーカーが急成長し、NEC、富士通、などがこの総合電機メーカーの一員として加わった。そしてこの親会社の傘下に無数の子会社、孫会社がネットワークを形成することでそれが巨大化し、日本のモノづくり産業を代表する存在となった。
 しかし、2008年のリーマンショック以後、これらの総合電機メーカー全体が危機的経営状況となり、統廃合やリストラを繰り返しながら縮小していったのである。
 それとともに、中国やアジア諸国などの電機メーカーが台頭し、その市場での競争力が瞬く間に日本の企業を追い越し、主導権を奪って行った。
 そして近年、家電大手のシャープが台湾企業の傘下に入り、東芝や日立もいくつかの不祥事でますますその状況は危うくなり、一時の隆盛期からは想像もできないような惨めな状況に陥っている。
 こうした状況はそれより以前にアメリカでもあった。かつての自動車王国はその関連企業も含めて見る影もなく衰退し、それらの企業で経済的に繁栄していたオハイオやイリノイなどは今では「ラスト・ベルト」と呼ばれるような荒廃した地域になってしまった。またデジタル化の進んだ写真業界でも世界的フィルムメーカーだったコダックはそれに追いついて行けずに倒産した。そうしてアメリカのモノづくり産業は衰退の一途を辿った。
 それと平行してアメリカでは生活消費財などの工業製品のほとんどが中国などのアジアや中南米諸国などで作られたモノになっていった。まさに"America is made in China"となってしまったのである。いまこうした状況で中国とアメリカが「貿易戦争」に突入しているのもある意味で必然的な結果だろう。
 そしてそれより80年以上も前にはイギリスでもかつての「世界の工場「が崩壊していった。

 ところでどうしてこのように「無敵のモノづくり立国」が衰退していくのかについて、考えてみよう。
 まず、多くの系列会社を傘下に収めた逆ツリー構造の綜合モノづくりメーカーでは、たしかに親会社の意図が通りやすく、連携プレーがし易いので効率よく複雑な部品構成のモノを作りやすい。しかし、その一方で市場での競争に勝つためのコストダウンが要求され、それぞれの系列企業の生産場面で「合理化」が進められることでそこでの労働内容が細分化・単純化されロボットなどの生産手段が導入されて資本構成の高度化(労働力に対する設備機械などの生産手段の増大)が進み、労働内容が高度な特殊技能を要しなくなってくことにより、労働力の価値(可変資本)が低下していったと考えられる。
 その結果、一方では少ない労働力数で大量の生産物ができるようになり、労賃分の経費が節減されることで、確かに生産コストは劇的に下がるが、他方で、その安く出来るようになった製品を、より大量に商品として販売しなければ企業全体としての利益が得られなくなるというジレンマに陥る。
 こうして大量生産して製品単価を下げれば下げるほど大量販売しなければならなくなるという圧力が増大し、一つの親会社がすべての関連メーカーを傘下に収める逆ツリー型構造では、その中の単独部品などを生みだすメーカーが自律的に競争に勝つための努力が出来にくくなり、総合的に効率よく利益を上げることが困難な状態を生みだして行ったと考えられる。
 そして国際市場の突然の変化で企業全体の売り上げが落ちればたちまち、その歪みが顕在化して経営が危機的になっていく。そこで親会社は個々の系列企業をどを逆ツリー型の系列から外し、自立化させることでその競争力を高め、いわゆる「アウトソーシング」型の体制によって企業全体としての競争力を強化して利益を維持していくことが行われた。
 ところがそのような状況になったときに、かつては安い部品の供給先として捉えていた海外の部品メーカーがその技術力を蓄え、自国の安い労働力を武器に急成長し、あっというまに国内の部品メーカーを圧倒していくことになった。そこで今度は傘下のメーカーは工場を労働力の安い国々に移転して国内に拠点を置く親会社で設計された製品を海外の工場で作るようになり、総合電機メーカーは事実上ほとんど海外の安い労働力で作られた製品を自社ブランドで売ることになっていった。その際に急速に追い上げる海外の新興企業との競争に勝つために「日本製ブランド力」による利益に頼ることしかできなくなっていった。
 この「日本製ブランド力」はかつて高度な労働技能を有し几帳面に品質管理を行っていた日本の労働者の誠実な仕事が築き上げた"Japan Quality"と言われる様な国際的信頼を得ていた「評判」を逆手に取った販売戦略である。ところが最近はますます強くなる新興国企業からの競争圧力の中でこの「ブランド力」も持ちきれなくなり、品質検査の手抜きや不正が横行し、いまや"Japan Quality"の信頼感は暴落しつつある。このままではそう近くない将来、モノづくり産業はほんの少しを残して大半が日本から消えて行くことになるかもしれない。
 モノづくり労働は価値の源泉であり、世界中の富の根源はモノづくり労働から生まれるといってもよいだろう。しかしそのモノづくり産業が衰退すべくして衰退した後には、サービス産業や金融業が経済を支えるようになっていく。これは海外で生みだされた富を自国に落とさせるという意味での産業の「寄生化」である。別の言い方をすれば「腐朽化した資本主義」である。

 こうして世界の「モノづくり立国」は次々と主役を代えて行ったがその過程で確実に起きている歴史的変化がある。それは資本は必ず国境を越えてグローバル化するが、それを支える労働は労働賃金の国による格差をもたらす「生活水準の違い」を資本に利用されてますます差別化されていく。資本がグローバル化してモノづくり労働が世界中に分散し、その賃金格差が資本の「成長」を支えるという状況の中でも着実に世界規模でのモノづくり労働の国際分業化が進んでいくという事実だ。そこでは同じ時間、同じ内容の労働を行っても受け取る賃金は大きな差がある。その賃金の実際の価値の差は国際的な通貨の為替相場というメカニズムで表面上は覆い隠されている。その様な状況で資本の商品市場では国際貿易によってどんどん儲けを増やしていく。だから世界中で必要な生活資料を実際に作っているさまざまな国の労働者たちは一方で自ら生みだした莫大な価値をグローバル資本に吸い上げられながら、他方であるときには資本家たちの「リベラルで機会均等な貿易」を主張するイデオロギーに、そしてまたあるときには彼らの中の「自国中心主義」を主張するイデオロギーに翻弄され続けている。こうした資本家たちの立場を代表する「支配的イデオロギー」によって、各国の労働者たちはお互いに手を結び合うべき仲間である他国の労働者たちと対立し合い、もしかすると戦争にまでなってしまうかもしれない状態に追い込まれている。
 その国際分業化したモノづくりを一握りの巨大グローバル資本が支配していることの不自然さと矛盾がこうしていまや日々顕在化している。
 しかし、この矛盾と虚偽の渦巻く状況の足下の大地に隠れている真実が見えてきたときにはきっと世界はその彼方に新しい未来の景色を見せてくれるに違いない。

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2018年12月 3日 (月)

フランス「黄色いベスト運動」と1968年「パリ5月革命」との違い

 いまフランスではマクロン政権下で燃料税引き上げに対する民衆の反対運動「黄色いベスト」運動が盛り上がっている。一昨日にはパリでのデモの一部が暴徒化しメインストリートや凱旋門などで破壊行為をを働いた。マクロンはアルゼンチンでのG20から帰国して非常事態宣言を出すかどうか検討中とのことだ。

 この事件を見てまず思い出すのが1968年当時のフランスでの反体制運動だ。パリを中心として多くの学生や民衆がデモに参加し、一時は暴動となった。そして当時日本でも学生運動が盛り上がり、東京周辺を初めとして各地で大規模な学生や民衆によるデモや抗議活動が起きた。当時大学院を修了して大学の助手になっていた私もこの運動の渦中にあった。
 そこで考えるのはこの半世紀の間にこうした民衆の反体制運動がどう変わったかである。まず一つは1968年当時はフランスでも日本でもデモの主導役は学生であった。パリ・カルチエラタンでの学生と官憲との闘いはすさまじいものであったし、東京でも東大、早稲田、明大、日大、などの学生が中心的存在だった。しかし、いまの「黄色いベスト」運動の主体は一般市民であるようだ。
 1968年当時はフランスでも日本でも大学生はいわばエリート層に属する中産階級出身が多く、いわば「プチブル・インテリ」の若者たちの「自己否定」的側面が強かった。そこには「一般市民」と学生達の間の意識の乖離があった。それがやがて過激化して行き詰まり、全体としては学生達の「体制」への屈服と同化という形での運動の終息化の要因があったように思える。
  しかしいまの「黄色いベスト」運動ではむしろ生活苦にあえぐ民衆、その中には多くの労働者階級や大衆化した大学の教育を受けて労働者階級となったが貧困から脱出できない学生たちが多く混じっているように思える。つまりいまの大学生たちは大衆化した大学を出ても一般労働者と同様な生活苦が待っており、そこに「エリート意識」など入る隙間がないのである。
  見方を変えれば、いまではエリートが「一握りの恵まれた人たち」となって、民衆からはさらに遠い存在となり、そのエリートたちが「民主主義」を唱えて体制を維持しているからだ。つまり支配階級が「民主主義」を唱える中で、現実の社会格差の溝が半世紀の間にさらに拡がってということだ。形だけの「民主政治」の中で置いて行かれた大多数の労働者階級を中心とした人々の反発は高まる一方である。
 エリートであるマクロンが「彼らと話し合う用意があるから代表をよこせ」と言っているようだが、デモ参加者は「オレたちは一人一人の市民であって代表なんかいない」といってこれに拒否反応を示していることにそれが象徴的に現れている。
  一方でこうした反体制運動自体が統制の取れた組織的運動ではないのだ。
 これは日本でも「SEALs」などに似た現象があるように思う。かつての学生運動が必ずしも「民主的組織」による運動ではなく一部エリートの先鋭化し過激化した指導部による運動、というイメージが残っていて、その反発としていまの市民運動はより自然発生的な面を重要視しているのだろう。
 しかし、本当にそれで良いのだろうか?「自然発生的」デモは、ここ十数年のインターネットの普及による「ネット社会化」によってすぐに誰かの呼びかけに応じて多くの人たちが集まる傾向が強くなった。「アラブの春」や「雨傘運動」など近年の政治的デモはほとんどそうだ。そして周知のようにそれらの運動は強圧的体制のもとですぐに崩壊し、例えばシリア内戦のような悲劇的結果を招いている。
 ほんとうに民衆の怒りをくみ上げ、その根底にある本質的問題をキチンと掘り起こし、しっかりした戦略と戦術を立てて闘わない限りこうした民衆運動によって示された社会的危機の本質はあいまいにされ、混乱や悲劇を生むこととなり、決して解決され得ないだろう。

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2018年11月27日 (火)

GMのリストラとトランプの怒りに現れた矛盾

 今朝のABCニュースによるとアメリカのトップ自動車メーカーGMが経営難で主力モデルの一部を生産終了とし、国内5工場を閉鎖し、一万数千人の人員削減を行うそうである。これに対してトランプがGMの経営陣に「アメリカを代表する主力モデルの生産は続けるべきだ。国内の雇用確保に努力すべきだ。」と怒りをぶちまけたそうだ。

 ハーレーダビットソンもGMもトランプの保護貿易政策と移民阻止に便乗しようとしてかえって、資本家企業としての経営が難しくなった。これが資本主義経済の「法則」だからである。市場はますますグローバル化し、生産物も労働者も国境を越えて動き回っている。安い労働力の国々から安い部品や原料を輸入し、生産は外国人の低賃金労働(多くの企業は低賃金国に生産拠点を持つ)で行い、それによって資本家企業は「国際競争力」を付け、なんとか生き残っていくのである。
 またこうしたアメリカでは「斜陽」のハードウエア産業ばなりではなく「ドル箱」のIT産業においても大企業で優遇されるSEなどの頭脳労働者は壁にぶつかっているようだ。もともとこの分野の大企業では優れた頭脳の持ち主ならば国籍を厭わないが、しかも最近は「ギグワーカー」なるフリーのSEが世界各国から安い賃金で仕事を請け負っている。海外の「ギグワーカー」を斡旋する業者も大儲けしているらしい。こうなるとIT大企業で優雅な中産階級生活を営んでいた頭脳労働者たちも安閑としてはいられなくなる。
 さらには、自動車産業などでは常識となっている「合理化」、自動化されたロボットのラインにより生産労働者数を減らすことでコスト削減を図るという方法がいまはIT産業などの頭脳労働者の世界にも浸透しつつある。ソフトウエア開発の人工知能(AI)による「自動化」である。
 いまや頭脳労働者もハードメーカーの労働者と同じ運命に置かれているようだ。そうしなければグローバル資本主義下においては競争で負けてしまうからだ。特に一党独裁の強力なトップダウン資本主義国家である中国がその強硬な「リーダーシップ」によって国内労働者の格差増大をものともせず、「国際貿易の推進」を看板に、弱体化した西欧やアメリカ、日本の資本家企業をグローバル市場での競争から追い落とし、巨大中国マネーの側にインクルードしようとしているように見える。
 このような状況で、トランプがいかに声を大にして国境封鎖だの経済制裁だの貿易関税の引き上げだのと叫んでみても無駄というものだろう。「アメリカ株式会社」のCEOともあろうトランプが資本主義経済の「法則」を知らないなんて!
気の毒なのはそれに乗せられて、その結果割を食うアメリカの労働者階級である。
 だからいま、アメリカの労働者階級は「リベラル」だ「ナショナリズム」だという馬鹿げた対立に炎上するのではなく、自分たちの置かれた本当の立場をちゃんと認識し、互いに手を結び合わねばならないときなのだと思う。そしてそれは中国の労働者階級とアメリカの労働者階級の間でも同じ事が言えるだろう。マルクスが150年前に言った言葉を忘れてはならない。
「万国の労働者、団結せよ!」
 追記:GMのリストラに対してトランプは、これまで出していた政府補助金を減らす、と息巻いているそうだ。「オレの言ったことに従わないヤツにはバツを与える」ということだろう。しかしただでさえ赤字で経営難になっているGMへの政府補助を削減したらGMはつぶれるか、さらなる人員削減をせざるを得なくなるだろう。それこそトランプの言う労働者の擁護に反することになるし、それが資本主義経済の「法則」というものだ。「資本家大統領」失格だ。アメリカ(株)の従業員(国民)から「おまえは首だ!」と言われるぞ。

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2018年11月25日 (日)

アメリカの「新南北戦争」をめぐって

 今朝(11月25日)の朝日新聞、第4面に「米の経済モデル「南北戦争」」というタイトルの記事が掲載された。アメリカでは民主党政権のもとで進められてきた企業での労働組合加入を強制する法律がある州とそれを廃止して「労組に入らない自由」(「労働権法」という紛らわしい名前がついている法律)を決めた州での労働者の運動が対立しているという実態が報告されている。

 「労働権法」を成立させた州は、中西部と南部が多いが、リーマンショック後から、かつては労働組合が強かったラストベルトの州でも「労働権法」が成立している。
 「労働権法」の趣旨は、企業活動が労組に縛られず自由に企業活動ができるようにして、あらたな雇用を生みださせることで雇用を増やすということにあり、その一方で労働組合は弱体化され労働賃金はあまり上がらないという反面もある。
 他方「労働権法」を導入せず、組合重視の州では、労働賃金の底上げを支援し、それによって労働者の消費を促進して、経済を活性化させるという趣旨がある。しかしここではその反面として労組が強いため、新たな企業が参入しにくく、従って新たな雇用を生みだすことが難しいということになる。
  ラストベルトの労働者はかつてアメリカ産業の中核であった自動車・鉄鋼など「ものづくり」企業の中心地だった頃には強い労組のもとで中産階級化した労働者たちがリッチな生活を許されていたが、その後世界の産業情勢が変化し、アメリカの「ものづくり産業」が衰退化し、リーマンショックをきっかけに失業者が急増し、新たな雇用を求める労働者が急増した。それが「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプを大統領に押し上げるパワーとなった。
 この両者の対立の最前線だったミズーリ州では最近住民投票で「労働権法」に「ノー」が突きつけられたそうだ。
 こうしたアメリカの労働者階級の動向の中で、その背景にあるのは、この40年間横ばい状態のアメリカの平均的労働賃金水準の中で、CA, WAなど西部諸州のIT産業を中核とした地域や、金融、サービス産業が多い東部のNY周辺の地域では賃金水準が高く、中西部や南部では低い状態が続いていたことがある。
 西部IT産業地帯ではおそらく、企業形態から見て優れた頭脳労働者としての外国人労働者の受け入れに積極的であり、労働者の権利が強いと思われる。しかしラストベルトや南部諸州では労働者の力は弱体化し、むしろ新規サービス業への参入が増えて、雇用を優先する労働者の意識のもとでは労組の存在が意味を成さなくなりつつあるのだろう。
  ミズーリがこのどちらの方向に行くのかは不明だが、どちらにしてもこうしたアメリカ社会の構造変化がアメリカの格差社会化を推進しているように思え、そしてその中で労働者階級同志の対立が鮮明化しているように見える。
 しかし、そこで考えねばいけないことは、表面的には、おそらくは西部IT産業の頭脳労働者たちなどが支持しているであろう民主党的「リベラル思想」と、南部諸州やラストベルトの労働者たちが支持しているであろう共和党的「アメリカ・ファースト」思想の対立の背後では、実はグローバル資本家たちとそれがバックアップする政治家たちによる支配階級の内部で起きつつある対立が察せられる。
  IT産業にその中心が移ったアメリカ資本の「価値増殖力」と旧産業体制が過去に築いてきた巨額の資本蓄積をグローバルマネーとして右から左へと動かすことで儲けを増やしていこうとする資本家たちとの間に確執であるようだ。つまり新たな労働力が生みだす価値による現在の資本増殖力と過去の資本の運用による資本増殖力の対立があるように思える。
  前者は国境を越えた労働力と市場の確保が必要であるため国際協調主義を主張し、後者は強敵中国を意識した国内産業保護を意識した保護貿易主義に傾きつつある。そしてそうした支配層の対立が政治的には「リベラル」とナショナリズムの対立の形をとり、その支配的イデオロギー間の対立がそれに染め上げられた労働者階級間の対立を生みだしていると言えないだろうか?
 ここでも労働者階級は自分たちを苦しめているものが本当は何なのか、まだ見えていないようだ。
 いま必要なのは、「強いリーダー」として資本家達を導き、自分たちに仕事と賃金を与えてくれる「ボス」ではなく、その資本家たちの論理によって労働者たちから奪われてしまっていた、「自分たちの仕事や生活を自分たち自身の手で作り上げていく権利と能力」を再び取り戻すことにあるのだ。
  そしてこうした支配的イデオロギーの虚偽を見破り労働者に本来の自分たちの立場を明らかにしていく、そのためにこそ労働組合の存在意義があるのではないだろうか?
 

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2018年11月23日 (金)

自由市場とカリスマ的経営者の関係

 日産・ルノーのカリスマ経営者カルロス・ゴーン氏の「半端ない」所得隠しがマスコミを賑わしているが、ここでちょっと考えておきたいことがある。

 いま世界は自由貿易主義と保護貿易主義が対立しているという。それが半世紀前の、日本などの保護貿易によって護られた敗戦国が急速に経済力を回復して「成長」していた時代には、こうした後発資本主義国と、アメリカ・西欧などの既存の資本主義諸国との貿易摩擦として現れていた。アメリカでの製造業労働者たちによる「日本製品バッシング」が有名だった。 
  そして20世紀末から今世紀初頭にかけては、「社会主義圏」崩壊後に生き残った中国などの「社会主義国」が「社会主義市場経済」と称して資本主義経済体制を採り入れ、低賃金労働による格安商品を売り物にして国際市場に乗り出してきた。
  こうした国と既存の資本主義諸国との貿易摩擦が始まるかに見えた。しかし、それは既存の資本主義諸国が生活資料などの商品を中国などの低賃金労働国で作られた格安商品として輸入し、自国企業の工業製品に関しては中国に生産拠点を移すことで低賃金労働を活用できるため国際市場での価格競争にごして行けることが分かり、そうした企業への投資が盛んになった。
 つまり中国から安い生活消費財を輸入して自国の労働者が安い生活費でも最低生活ができる体制を生み、賃金水準を上げずとも実質的に「可処分所得」を増やすことができ、それが国内市場を活性化させる。しかも輸出面では中国に生産拠点を置くことで、運送費を入れても国際市場での価格競争に勝っていけるという算段でどんどん中国に投資する。その結果中国経済は急速に成長してあっというまに世界第2位の経済大国になった。彼らがいうところの「ウインウインの関係」である。
 そしていまや国際貿易で中国に押され気味のアメリカが今度は自国の産業を守るために保護貿易を主張しだしたのである。かつて中国の一党独裁体制での「社会主義市場経済」体制がもつ、保護貿易的側面をたたき、自由貿易体制へと押し上げてきたアメリカが、こんどは逆に「自由貿易主義」を押し出す中国にたいして保護貿易主義の盾を立てたのである。
 かつては「自由貿易主義」イコール「リベラル」であって保護貿易主義イコール「統制経済」であったがそれが逆転したのだ。
 いや正確には逆転ではない。なぜなら中国はますます強力な一党独裁体制を推し進めているしアメリカもいまや「リベラル」ではなくカリスマ大統領による半独裁体制だからだ。
 そこでさらによく考えてみよう。日本では高度成長時代は自民党一党独裁に近い体制であり、池田、岸、佐藤、中曽根などの半カリスマ的首相が資本主義経済の成長を牽引していた。そして中国では共産党一党独裁体制のもとでの強力なトップダウン体制で「社会主義市場経済」が急成長した。
 「自由市場」は自由な競争が原則であるが、その競争に勝ち残るためには強力なトップダウン体制が必須であり、カリスマ指導者が必要なのである。だからいまグローバル企業の経営者をはじめとして、国家レベルでもアメリカではトランプがそれをやっている。中国では習近平がそしてロシアではプーチンがそれを推し進めているし、日本の安部やフランスのマクロンもそれに類する存在だ。いわく「強いリーダーシップの指導者」が求められているというのである(本当は誰が求めているのかが大問題なのだが)。
  自由市場を経済的基盤とする「自由主義」とは競争に打ち勝たねばならず、一国が経済的に圧倒的に優位である場合(かつてのアメリカの様に)を除いて、「互角」に競争する状態では決して本来「リベラル」なものではなく本質的に「トップダウン」なのである。
 この矛盾の中で、トップダウン国家どうしが競争を激化されているのが資本主義経済の現状といえるだろう。そこでつねにその競争の「道具」として使われるのが労働者であり、カリスマ指導者を選挙で当選させるための虚飾のキャンペーンや「分かりやすい」スローガンが人気取りとして駆け巡り、辣腕な指導者が労働者階級によって選出される。「強い指導者に任せておけばいいようにやってくれるし、企業の業績もあがって労働者の賃金もよくなる」という「印象操作」のもとで労働者たちは指導者にすべてをゆだねる。支配層はこれを「民主主義」と呼んでいるのだ。
  そしてやがてはその労働者たちは強力な指導者が統率する「国家」に犠牲を強いられることになる。あるときはグローバル資本企業での大規模リストラ(ゴーンがかつて日産でやったように)という形で、またあるときは国家間の戦争に「愛国心」を刷り込まれた戦力として駆り出され戦場で死ぬ。
 労働者階級はもっともっと賢くならなければいけないと思う。さもないとこれからの世界で再び大きな悲劇がやってくることになる。「自由と民主主義」とは本来どのようなものなのか、ここでよーく考えねばならない。

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