経済・政治・国際

2019年2月15日 (金)

韓国政府の「天皇謝罪発言」をめぐって

 最近韓国のムン政権は、徴用工問題や自衛隊機へのレーザ標的照射問題などで対日強硬姿勢を打ち出しているが、これに対して日本の安倍政権が反発したことに対して「歴史認識に関しては日本の天皇が謝罪すれば済むことだ」と発言し、これがさらなる日本政府の猛反発と日本人の多くに「嫌韓」意識を刺激しているようである。
 これに対していわゆる民族主義的な人たちは当然「嫌韓」を丸出しにしているが、いわゆる左翼の人たちは戸惑っているように見える。というのもムン大統領が北朝鮮との融和を前面に打ち出しているのは彼がリベラルの一翼を担っているからであり、それを「良し」としていたのに、そのムン大統領がなぜいま日本にことさら強硬な態度を取るのかが理解しかねるからであろう。
 多分、その理由は第1に、ムン大統領がパク前大統領の不正問題への韓国の人々の猛烈な批判を受けて、大統領に当選したことで、その支持層の要望に応える必要があるからだろう。ムン大統領の支持層が抱くパク前大統領への不信感の中に慰安婦問題への前大統領の決着の付け方があったのだと思う。日本の安倍政権はこの条約をもって国家間の約束事であるからいまさらこれを破棄するようなことは許されない、と強硬な姿勢を取るが、韓国のムン大統領支持派にしてみればこれは自分たちの本意を反映していないということだろう。
 そして第2に、ムン政権の北朝鮮への融和政策があると思われる。南北問題はキム北朝鮮主席の挑発的核兵器開発に対するアメリカのトランプ大統領の猛反発から始まり、両者の間で意外な形で「手打ち」が成立したことがきっかけで融和への動きが始まったのであるが、ムン大統領はこの融和への動きに自分の政治生命を賭けた。そのためキム主席の強硬な反日姿勢に一定程度迎合する必要があったのだろう。
 この二つの理由でムン大統領のいまの対日強硬姿勢があるのだと考えられる。
 これに対して日本の大半の人たちは韓国政府の態度にある種の怒りを感じており「嫌韓」意識を高めているようだ。この現状は善かれ悪しかれ韓国の人々にとっても決してよい結果をもたらさないだろう。

 そこでここで少し歴史を遡ってこの問題を考えてみよう。韓国政府の主張の背景にはかつての日本による朝鮮半島の植民地化や韓国人へのいわれなき差別意識の助長は天皇を頂点とする日本の帝国主義的政策があったからだということだろう。このことはわれわれもしっかりと歴史的事実として受け止めねばならないと思う。
  戦争中日本国民は「天皇の国」を護るために戦争に駆り出され、兵隊に採られた農民や労働者たちは天皇の国(皇国)をまもる捨て石なって死ね、と言われて必死に闘い、まったく個人的には何の恨みもない人々を上官から「敵国民」として殺戮の対象とされ、自らもそういう人たちとの殺し合いの中で命を落としていった。そしてそのような軍隊の最高司令官として天皇が祭り上げられていたのである。
 明治維新以来、日本の「富国強兵」策のもとで進められた帝国主義的アジア侵略のもとで他国の人々との殺し合いを強いられ、「世界に冠たるニッポンの国民」という支配者のイデオロギーを植え付けられ、何百万もの人々がその命を「天皇」に捧げてきた。その意味では日本の農民、労働者もまた天皇制の犠牲者であるといってもいいだろう。そうした中で否応なしに日本帝国の一部に組み込まれてしまった朝鮮半島の人々へのいわれなき差別意識も植え付けられていったのだろう。
 そこで天皇の第2次大戦での責任が当然問題となる。第2次大戦で敗戦国となった日本で多くの戦犯が刑にふされ昭和天皇自身もおそらくは一時は戦犯に問われることを覚悟していたのではないだろうか。戦後の「東京裁判」では軍部の指導者の多くが戦犯となり処刑された。しかし最高司令官だった天皇は罪を問われなかったのである。これはいままでの世界史の中でも希なことだと思う。
 その背景には当時のマッカーサー司令部の政治的判断があった。明治維新以来80年近くにわたって植え付けられてきた皇国史観イデオロギーに染め上げられた日本人民にとって天皇を戦犯にすることは日本をうまく治めていく必要がある占領軍司令部としては得策ではないと判断したのだろう。そしてその後、当時のソ連との対立が深まり、いわゆる東西冷戦に突入することとなり、日本を「防共の砦」とする必要上、この処置は恒久的なものとなり、マッカーサー司令部の監督のもとで新憲法が出来上り、その中で天皇は「象徴」として位置づけられたのだ。
 そしてその後日本は朝鮮戦争の「特需景気」をきっかっけにして経済復興を遂げ、アジアでの経済大国となったのである。そうした中で「天皇の戦争犯罪」を口にすることはだんだん憚られるようになっていった。
 しかし昭和天皇が亡くなり、平成天皇が後を継いだとき、おそらく平成天皇がもっとも考慮したのがこの戦争での戦死者や他国の被害者たちのことであっただろう。その心中では父親の犯した罪を自分なりに償わなければならないという意識があったに違いない。だから平成天皇はその在位中ずっと慰霊の旅を続けてきたし、自分の「象徴」としての位置をどう捉えてよいか常に悩み続けていたと思われる。彼は「象徴」という立場として「謝罪」を口にすることが
できない状況に置かれていたのだ。
 これに対して現韓国政権は、これもまた政治的に韓国人の反日感情を利用して、天皇に謝罪を求めるような発言をしたのだろう。歴史の真実を正面切って捉えようとしない安倍政権とたいして違わない政治的態度である。
 問題は日本の人々も韓国の人々も、互いに「国家意識」とか「民族意識」による排外的アイデンティティーで結束するのではなく、お互いにあの戦争では当時の日本の帝国主義的支配者たちの犠牲になってきたという意味では同じ立場にあるということを認識すべきなのだと思う。もちろんわれわれは一方的な加害者として行動させられてきたのではあるが。その上で再びいまの支配階級が自分たちの政治的立場を維持するために互いにこうした問題を政治的に利用していがみ合っていることに対してもっと冷静に捉えることが必要なのではないだろうか?
 明治維新で生まれた政府によって中央集権化のために政治的に利用されて誕生した近代の天皇制が結局、その後の富国強兵策の強行にも利用され、日清・日露戦争で辛くも勝ってきた軍が自身を深めて、突入した第二次大戦において、その帝国主義的国家の結束を高めるために頂点に押し上げた天皇が、その悲惨な結果を招いた敗戦後も存続し、「平和憲法」の中で「象徴」となっているという皮肉。そしてそのことにより天皇自身も「フツーの人」になれなくなってしっまているという矛盾。これを何の疑問もなく考えたこともないという方が不自然なのではないだろうか?
 

 
 

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2019年2月11日 (月)

「モノづくり立国」はなぜ長続きしないのか?

 2月10日の朝日朝刊4面に、「総合電機解体への歩み」という記事が載っていた。かつて日本では高度成長時代の花形産業として登場した電機メーカーがその周辺の関連メーカーを傘下に収めていく形が主流だった。重電から始まった日立、東芝、三菱電機などと、家電や音響機器から始まった松下電器、ソニー、シャープ、などなどである。その後いわゆるIT革命が訪れて、IT関係のメーカーが急成長し、NEC、富士通、などがこの総合電機メーカーの一員として加わった。そしてこの親会社の傘下に無数の子会社、孫会社がネットワークを形成することでそれが巨大化し、日本のモノづくり産業を代表する存在となった。
 しかし、2008年のリーマンショック以後、これらの総合電機メーカー全体が危機的経営状況となり、統廃合やリストラを繰り返しながら縮小していったのである。
 それとともに、中国やアジア諸国などの電機メーカーが台頭し、その市場での競争力が瞬く間に日本の企業を追い越し、主導権を奪って行った。
 そして近年、家電大手のシャープが台湾企業の傘下に入り、東芝や日立もいくつかの不祥事でますますその状況は危うくなり、一時の隆盛期からは想像もできないような惨めな状況に陥っている。
 こうした状況はそれより以前にアメリカでもあった。かつての自動車王国はその関連企業も含めて見る影もなく衰退し、それらの企業で経済的に繁栄していたオハイオやイリノイなどは今では「ラスト・ベルト」と呼ばれるような荒廃した地域になってしまった。またデジタル化の進んだ写真業界でも世界的フィルムメーカーだったコダックはそれに追いついて行けずに倒産した。そうしてアメリカのモノづくり産業は衰退の一途を辿った。
 それと平行してアメリカでは生活消費財などの工業製品のほとんどが中国などのアジアや中南米諸国などで作られたモノになっていった。まさに"America is made in China"となってしまったのである。いまこうした状況で中国とアメリカが「貿易戦争」に突入しているのもある意味で必然的な結果だろう。
 そしてそれより80年以上も前にはイギリスでもかつての「世界の工場「が崩壊していった。

 ところでどうしてこのように「無敵のモノづくり立国」が衰退していくのかについて、考えてみよう。
 まず、多くの系列会社を傘下に収めた逆ツリー構造の綜合モノづくりメーカーでは、たしかに親会社の意図が通りやすく、連携プレーがし易いので効率よく複雑な部品構成のモノを作りやすい。しかし、その一方で市場での競争に勝つためのコストダウンが要求され、それぞれの系列企業の生産場面で「合理化」が進められることでそこでの労働内容が細分化・単純化されロボットなどの生産手段が導入されて資本構成の高度化(労働力に対する設備機械などの生産手段の増大)が進み、労働内容が高度な特殊技能を要しなくなってくことにより、労働力の価値(可変資本)が低下していったと考えられる。
 その結果、一方では少ない労働力数で大量の生産物ができるようになり、労賃分の経費が節減されることで、確かに生産コストは劇的に下がるが、他方で、その安く出来るようになった製品を、より大量に商品として販売しなければ企業全体としての利益が得られなくなるというジレンマに陥る。
 こうして大量生産して製品単価を下げれば下げるほど大量販売しなければならなくなるという圧力が増大し、一つの親会社がすべての関連メーカーを傘下に収める逆ツリー型構造では、その中の単独部品などを生みだすメーカーが自律的に競争に勝つための努力が出来にくくなり、総合的に効率よく利益を上げることが困難な状態を生みだして行ったと考えられる。
 そして国際市場の突然の変化で企業全体の売り上げが落ちればたちまち、その歪みが顕在化して経営が危機的になっていく。そこで親会社は個々の系列企業をどを逆ツリー型の系列から外し、自立化させることでその競争力を高め、いわゆる「アウトソーシング」型の体制によって企業全体としての競争力を強化して利益を維持していくことが行われた。
 ところがそのような状況になったときに、かつては安い部品の供給先として捉えていた海外の部品メーカーがその技術力を蓄え、自国の安い労働力を武器に急成長し、あっというまに国内の部品メーカーを圧倒していくことになった。そこで今度は傘下のメーカーは工場を労働力の安い国々に移転して国内に拠点を置く親会社で設計された製品を海外の工場で作るようになり、総合電機メーカーは事実上ほとんど海外の安い労働力で作られた製品を自社ブランドで売ることになっていった。その際に急速に追い上げる海外の新興企業との競争に勝つために「日本製ブランド力」による利益に頼ることしかできなくなっていった。
 この「日本製ブランド力」はかつて高度な労働技能を有し几帳面に品質管理を行っていた日本の労働者の誠実な仕事が築き上げた"Japan Quality"と言われる様な国際的信頼を得ていた「評判」を逆手に取った販売戦略である。ところが最近はますます強くなる新興国企業からの競争圧力の中でこの「ブランド力」も持ちきれなくなり、品質検査の手抜きや不正が横行し、いまや"Japan Quality"の信頼感は暴落しつつある。このままではそう近くない将来、モノづくり産業はほんの少しを残して大半が日本から消えて行くことになるかもしれない。
 モノづくり労働は価値の源泉であり、世界中の富の根源はモノづくり労働から生まれるといってもよいだろう。しかしそのモノづくり産業が衰退すべくして衰退した後には、サービス産業や金融業が経済を支えるようになっていく。これは海外で生みだされた富を自国に落とさせるという意味での産業の「寄生化」である。別の言い方をすれば「腐朽化した資本主義」である。

 こうして世界の「モノづくり立国」は次々と主役を代えて行ったがその過程で確実に起きている歴史的変化がある。それは資本は必ず国境を越えてグローバル化するが、それを支える労働は労働賃金の国による格差をもたらす「生活水準の違い」を資本に利用されてますます差別化されていく。資本がグローバル化してモノづくり労働が世界中に分散し、その賃金格差が資本の「成長」を支えるという状況の中でも着実に世界規模でのモノづくり労働の国際分業化が進んでいくという事実だ。そこでは同じ時間、同じ内容の労働を行っても受け取る賃金は大きな差がある。その賃金の実際の価値の差は国際的な通貨の為替相場というメカニズムで表面上は覆い隠されている。その様な状況で資本の商品市場では国際貿易によってどんどん儲けを増やしていく。だから世界中で必要な生活資料を実際に作っているさまざまな国の労働者たちは一方で自ら生みだした莫大な価値をグローバル資本に吸い上げられながら、他方であるときには資本家たちの「リベラルで機会均等な貿易」を主張するイデオロギーに、そしてまたあるときには彼らの中の「自国中心主義」を主張するイデオロギーに翻弄され続けている。こうした資本家たちの立場を代表する「支配的イデオロギー」によって、各国の労働者たちはお互いに手を結び合うべき仲間である他国の労働者たちと対立し合い、もしかすると戦争にまでなってしまうかもしれない状態に追い込まれている。
 その国際分業化したモノづくりを一握りの巨大グローバル資本が支配していることの不自然さと矛盾がこうしていまや日々顕在化している。
 しかし、この矛盾と虚偽の渦巻く状況の足下の大地に隠れている真実が見えてきたときにはきっと世界はその彼方に新しい未来の景色を見せてくれるに違いない。

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2018年12月 3日 (月)

フランス「黄色いベスト運動」と1968年「パリ5月革命」との違い

 いまフランスではマクロン政権下で燃料税引き上げに対する民衆の反対運動「黄色いベスト」運動が盛り上がっている。一昨日にはパリでのデモの一部が暴徒化しメインストリートや凱旋門などで破壊行為をを働いた。マクロンはアルゼンチンでのG20から帰国して非常事態宣言を出すかどうか検討中とのことだ。

 この事件を見てまず思い出すのが1968年当時のフランスでの反体制運動だ。パリを中心として多くの学生や民衆がデモに参加し、一時は暴動となった。そして当時日本でも学生運動が盛り上がり、東京周辺を初めとして各地で大規模な学生や民衆によるデモや抗議活動が起きた。当時大学院を修了して大学の助手になっていた私もこの運動の渦中にあった。
 そこで考えるのはこの半世紀の間にこうした民衆の反体制運動がどう変わったかである。まず一つは1968年当時はフランスでも日本でもデモの主導役は学生であった。パリ・カルチエラタンでの学生と官憲との闘いはすさまじいものであったし、東京でも東大、早稲田、明大、日大、などの学生が中心的存在だった。しかし、いまの「黄色いベスト」運動の主体は一般市民であるようだ。
 1968年当時はフランスでも日本でも大学生はいわばエリート層に属する中産階級出身が多く、いわば「プチブル・インテリ」の若者たちの「自己否定」的側面が強かった。そこには「一般市民」と学生達の間の意識の乖離があった。それがやがて過激化して行き詰まり、全体としては学生達の「体制」への屈服と同化という形での運動の終息化の要因があったように思える。
  しかしいまの「黄色いベスト」運動ではむしろ生活苦にあえぐ民衆、その中には多くの労働者階級や大衆化した大学の教育を受けて労働者階級となったが貧困から脱出できない学生たちが多く混じっているように思える。つまりいまの大学生たちは大衆化した大学を出ても一般労働者と同様な生活苦が待っており、そこに「エリート意識」など入る隙間がないのである。
  見方を変えれば、いまではエリートが「一握りの恵まれた人たち」となって、民衆からはさらに遠い存在となり、そのエリートたちが「民主主義」を唱えて体制を維持しているからだ。つまり支配階級が「民主主義」を唱える中で、現実の社会格差の溝が半世紀の間にさらに拡がってということだ。形だけの「民主政治」の中で置いて行かれた大多数の労働者階級を中心とした人々の反発は高まる一方である。
 エリートであるマクロンが「彼らと話し合う用意があるから代表をよこせ」と言っているようだが、デモ参加者は「オレたちは一人一人の市民であって代表なんかいない」といってこれに拒否反応を示していることにそれが象徴的に現れている。
  一方でこうした反体制運動自体が統制の取れた組織的運動ではないのだ。
 これは日本でも「SEALs」などに似た現象があるように思う。かつての学生運動が必ずしも「民主的組織」による運動ではなく一部エリートの先鋭化し過激化した指導部による運動、というイメージが残っていて、その反発としていまの市民運動はより自然発生的な面を重要視しているのだろう。
 しかし、本当にそれで良いのだろうか?「自然発生的」デモは、ここ十数年のインターネットの普及による「ネット社会化」によってすぐに誰かの呼びかけに応じて多くの人たちが集まる傾向が強くなった。「アラブの春」や「雨傘運動」など近年の政治的デモはほとんどそうだ。そして周知のようにそれらの運動は強圧的体制のもとですぐに崩壊し、例えばシリア内戦のような悲劇的結果を招いている。
 ほんとうに民衆の怒りをくみ上げ、その根底にある本質的問題をキチンと掘り起こし、しっかりした戦略と戦術を立てて闘わない限りこうした民衆運動によって示された社会的危機の本質はあいまいにされ、混乱や悲劇を生むこととなり、決して解決され得ないだろう。

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2018年11月27日 (火)

GMのリストラとトランプの怒りに現れた矛盾

 今朝のABCニュースによるとアメリカのトップ自動車メーカーGMが経営難で主力モデルの一部を生産終了とし、国内5工場を閉鎖し、一万数千人の人員削減を行うそうである。これに対してトランプがGMの経営陣に「アメリカを代表する主力モデルの生産は続けるべきだ。国内の雇用確保に努力すべきだ。」と怒りをぶちまけたそうだ。

 ハーレーダビットソンもGMもトランプの保護貿易政策と移民阻止に便乗しようとしてかえって、資本家企業としての経営が難しくなった。これが資本主義経済の「法則」だからである。市場はますますグローバル化し、生産物も労働者も国境を越えて動き回っている。安い労働力の国々から安い部品や原料を輸入し、生産は外国人の低賃金労働(多くの企業は低賃金国に生産拠点を持つ)で行い、それによって資本家企業は「国際競争力」を付け、なんとか生き残っていくのである。
 またこうしたアメリカでは「斜陽」のハードウエア産業ばなりではなく「ドル箱」のIT産業においても大企業で優遇されるSEなどの頭脳労働者は壁にぶつかっているようだ。もともとこの分野の大企業では優れた頭脳の持ち主ならば国籍を厭わないが、しかも最近は「ギグワーカー」なるフリーのSEが世界各国から安い賃金で仕事を請け負っている。海外の「ギグワーカー」を斡旋する業者も大儲けしているらしい。こうなるとIT大企業で優雅な中産階級生活を営んでいた頭脳労働者たちも安閑としてはいられなくなる。
 さらには、自動車産業などでは常識となっている「合理化」、自動化されたロボットのラインにより生産労働者数を減らすことでコスト削減を図るという方法がいまはIT産業などの頭脳労働者の世界にも浸透しつつある。ソフトウエア開発の人工知能(AI)による「自動化」である。
 いまや頭脳労働者もハードメーカーの労働者と同じ運命に置かれているようだ。そうしなければグローバル資本主義下においては競争で負けてしまうからだ。特に一党独裁の強力なトップダウン資本主義国家である中国がその強硬な「リーダーシップ」によって国内労働者の格差増大をものともせず、「国際貿易の推進」を看板に、弱体化した西欧やアメリカ、日本の資本家企業をグローバル市場での競争から追い落とし、巨大中国マネーの側にインクルードしようとしているように見える。
 このような状況で、トランプがいかに声を大にして国境封鎖だの経済制裁だの貿易関税の引き上げだのと叫んでみても無駄というものだろう。「アメリカ株式会社」のCEOともあろうトランプが資本主義経済の「法則」を知らないなんて!
気の毒なのはそれに乗せられて、その結果割を食うアメリカの労働者階級である。
 だからいま、アメリカの労働者階級は「リベラル」だ「ナショナリズム」だという馬鹿げた対立に炎上するのではなく、自分たちの置かれた本当の立場をちゃんと認識し、互いに手を結び合わねばならないときなのだと思う。そしてそれは中国の労働者階級とアメリカの労働者階級の間でも同じ事が言えるだろう。マルクスが150年前に言った言葉を忘れてはならない。
「万国の労働者、団結せよ!」
 追記:GMのリストラに対してトランプは、これまで出していた政府補助金を減らす、と息巻いているそうだ。「オレの言ったことに従わないヤツにはバツを与える」ということだろう。しかしただでさえ赤字で経営難になっているGMへの政府補助を削減したらGMはつぶれるか、さらなる人員削減をせざるを得なくなるだろう。それこそトランプの言う労働者の擁護に反することになるし、それが資本主義経済の「法則」というものだ。「資本家大統領」失格だ。アメリカ(株)の従業員(国民)から「おまえは首だ!」と言われるぞ。

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2018年11月25日 (日)

アメリカの「新南北戦争」をめぐって

 今朝(11月25日)の朝日新聞、第4面に「米の経済モデル「南北戦争」」というタイトルの記事が掲載された。アメリカでは民主党政権のもとで進められてきた企業での労働組合加入を強制する法律がある州とそれを廃止して「労組に入らない自由」(「労働権法」という紛らわしい名前がついている法律)を決めた州での労働者の運動が対立しているという実態が報告されている。

 「労働権法」を成立させた州は、中西部と南部が多いが、リーマンショック後から、かつては労働組合が強かったラストベルトの州でも「労働権法」が成立している。
 「労働権法」の趣旨は、企業活動が労組に縛られず自由に企業活動ができるようにして、あらたな雇用を生みださせることで雇用を増やすということにあり、その一方で労働組合は弱体化され労働賃金はあまり上がらないという反面もある。
 他方「労働権法」を導入せず、組合重視の州では、労働賃金の底上げを支援し、それによって労働者の消費を促進して、経済を活性化させるという趣旨がある。しかしここではその反面として労組が強いため、新たな企業が参入しにくく、従って新たな雇用を生みだすことが難しいということになる。
  ラストベルトの労働者はかつてアメリカ産業の中核であった自動車・鉄鋼など「ものづくり」企業の中心地だった頃には強い労組のもとで中産階級化した労働者たちがリッチな生活を許されていたが、その後世界の産業情勢が変化し、アメリカの「ものづくり産業」が衰退化し、リーマンショックをきっかけに失業者が急増し、新たな雇用を求める労働者が急増した。それが「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプを大統領に押し上げるパワーとなった。
 この両者の対立の最前線だったミズーリ州では最近住民投票で「労働権法」に「ノー」が突きつけられたそうだ。
 こうしたアメリカの労働者階級の動向の中で、その背景にあるのは、この40年間横ばい状態のアメリカの平均的労働賃金水準の中で、CA, WAなど西部諸州のIT産業を中核とした地域や、金融、サービス産業が多い東部のNY周辺の地域では賃金水準が高く、中西部や南部では低い状態が続いていたことがある。
 西部IT産業地帯ではおそらく、企業形態から見て優れた頭脳労働者としての外国人労働者の受け入れに積極的であり、労働者の権利が強いと思われる。しかしラストベルトや南部諸州では労働者の力は弱体化し、むしろ新規サービス業への参入が増えて、雇用を優先する労働者の意識のもとでは労組の存在が意味を成さなくなりつつあるのだろう。
  ミズーリがこのどちらの方向に行くのかは不明だが、どちらにしてもこうしたアメリカ社会の構造変化がアメリカの格差社会化を推進しているように思え、そしてその中で労働者階級同志の対立が鮮明化しているように見える。
 しかし、そこで考えねばいけないことは、表面的には、おそらくは西部IT産業の頭脳労働者たちなどが支持しているであろう民主党的「リベラル思想」と、南部諸州やラストベルトの労働者たちが支持しているであろう共和党的「アメリカ・ファースト」思想の対立の背後では、実はグローバル資本家たちとそれがバックアップする政治家たちによる支配階級の内部で起きつつある対立が察せられる。
  IT産業にその中心が移ったアメリカ資本の「価値増殖力」と旧産業体制が過去に築いてきた巨額の資本蓄積をグローバルマネーとして右から左へと動かすことで儲けを増やしていこうとする資本家たちとの間に確執であるようだ。つまり新たな労働力が生みだす価値による現在の資本増殖力と過去の資本の運用による資本増殖力の対立があるように思える。
  前者は国境を越えた労働力と市場の確保が必要であるため国際協調主義を主張し、後者は強敵中国を意識した国内産業保護を意識した保護貿易主義に傾きつつある。そしてそうした支配層の対立が政治的には「リベラル」とナショナリズムの対立の形をとり、その支配的イデオロギー間の対立がそれに染め上げられた労働者階級間の対立を生みだしていると言えないだろうか?
 ここでも労働者階級は自分たちを苦しめているものが本当は何なのか、まだ見えていないようだ。
 いま必要なのは、「強いリーダー」として資本家達を導き、自分たちに仕事と賃金を与えてくれる「ボス」ではなく、その資本家たちの論理によって労働者たちから奪われてしまっていた、「自分たちの仕事や生活を自分たち自身の手で作り上げていく権利と能力」を再び取り戻すことにあるのだ。
  そしてこうした支配的イデオロギーの虚偽を見破り労働者に本来の自分たちの立場を明らかにしていく、そのためにこそ労働組合の存在意義があるのではないだろうか?
 

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2018年11月23日 (金)

自由市場とカリスマ的経営者の関係

 日産・ルノーのカリスマ経営者カルロス・ゴーン氏の「半端ない」所得隠しがマスコミを賑わしているが、ここでちょっと考えておきたいことがある。

 いま世界は自由貿易主義と保護貿易主義が対立しているという。それが半世紀前の、日本などの保護貿易によって護られた敗戦国が急速に経済力を回復して「成長」していた時代には、こうした後発資本主義国と、アメリカ・西欧などの既存の資本主義諸国との貿易摩擦として現れていた。アメリカでの製造業労働者たちによる「日本製品バッシング」が有名だった。 
  そして20世紀末から今世紀初頭にかけては、「社会主義圏」崩壊後に生き残った中国などの「社会主義国」が「社会主義市場経済」と称して資本主義経済体制を採り入れ、低賃金労働による格安商品を売り物にして国際市場に乗り出してきた。
  こうした国と既存の資本主義諸国との貿易摩擦が始まるかに見えた。しかし、それは既存の資本主義諸国が生活資料などの商品を中国などの低賃金労働国で作られた格安商品として輸入し、自国企業の工業製品に関しては中国に生産拠点を移すことで低賃金労働を活用できるため国際市場での価格競争にごして行けることが分かり、そうした企業への投資が盛んになった。
 つまり中国から安い生活消費財を輸入して自国の労働者が安い生活費でも最低生活ができる体制を生み、賃金水準を上げずとも実質的に「可処分所得」を増やすことができ、それが国内市場を活性化させる。しかも輸出面では中国に生産拠点を置くことで、運送費を入れても国際市場での価格競争に勝っていけるという算段でどんどん中国に投資する。その結果中国経済は急速に成長してあっというまに世界第2位の経済大国になった。彼らがいうところの「ウインウインの関係」である。
 そしていまや国際貿易で中国に押され気味のアメリカが今度は自国の産業を守るために保護貿易を主張しだしたのである。かつて中国の一党独裁体制での「社会主義市場経済」体制がもつ、保護貿易的側面をたたき、自由貿易体制へと押し上げてきたアメリカが、こんどは逆に「自由貿易主義」を押し出す中国にたいして保護貿易主義の盾を立てたのである。
 かつては「自由貿易主義」イコール「リベラル」であって保護貿易主義イコール「統制経済」であったがそれが逆転したのだ。
 いや正確には逆転ではない。なぜなら中国はますます強力な一党独裁体制を推し進めているしアメリカもいまや「リベラル」ではなくカリスマ大統領による半独裁体制だからだ。
 そこでさらによく考えてみよう。日本では高度成長時代は自民党一党独裁に近い体制であり、池田、岸、佐藤、中曽根などの半カリスマ的首相が資本主義経済の成長を牽引していた。そして中国では共産党一党独裁体制のもとでの強力なトップダウン体制で「社会主義市場経済」が急成長した。
 「自由市場」は自由な競争が原則であるが、その競争に勝ち残るためには強力なトップダウン体制が必須であり、カリスマ指導者が必要なのである。だからいまグローバル企業の経営者をはじめとして、国家レベルでもアメリカではトランプがそれをやっている。中国では習近平がそしてロシアではプーチンがそれを推し進めているし、日本の安部やフランスのマクロンもそれに類する存在だ。いわく「強いリーダーシップの指導者」が求められているというのである(本当は誰が求めているのかが大問題なのだが)。
  自由市場を経済的基盤とする「自由主義」とは競争に打ち勝たねばならず、一国が経済的に圧倒的に優位である場合(かつてのアメリカの様に)を除いて、「互角」に競争する状態では決して本来「リベラル」なものではなく本質的に「トップダウン」なのである。
 この矛盾の中で、トップダウン国家どうしが競争を激化されているのが資本主義経済の現状といえるだろう。そこでつねにその競争の「道具」として使われるのが労働者であり、カリスマ指導者を選挙で当選させるための虚飾のキャンペーンや「分かりやすい」スローガンが人気取りとして駆け巡り、辣腕な指導者が労働者階級によって選出される。「強い指導者に任せておけばいいようにやってくれるし、企業の業績もあがって労働者の賃金もよくなる」という「印象操作」のもとで労働者たちは指導者にすべてをゆだねる。支配層はこれを「民主主義」と呼んでいるのだ。
  そしてやがてはその労働者たちは強力な指導者が統率する「国家」に犠牲を強いられることになる。あるときはグローバル資本企業での大規模リストラ(ゴーンがかつて日産でやったように)という形で、またあるときは国家間の戦争に「愛国心」を刷り込まれた戦力として駆り出され戦場で死ぬ。
 労働者階級はもっともっと賢くならなければいけないと思う。さもないとこれからの世界で再び大きな悲劇がやってくることになる。「自由と民主主義」とは本来どのようなものなのか、ここでよーく考えねばならない。

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2018年11月 7日 (水)

独裁体制を生みだす「自由と民主主義」

 アメリカで中間選挙の結果がそろそろ出る。「アメリカ・ファースト」を唱えるカリスマ的大統領トランプに代表される共和党が下院で民主党に敗れるかどうかが焦点となっている。

 第2次世界大戦後、アメリカは世界の「自由と民主主義」のシンボルとなってきた。対抗するソ連圏が崩壊した後、それはいわば「世界標準」となり、それとともに資本のグローバル化が急速に進んだ。そしてその結果としていまやアメリカは格差社会・分断社会となり、「強いリーダー」を求めるポピュリズムの坩堝と化してしまったようだ。
 かつてヨーロッパでは第1次世界大戦後、ワイマール憲法が成立したドイツに登場した民主主義政権は、社会民主主義的方向に向かったが、結局行き詰まり、やがてヒトラーの独裁体制へとひた走った。ここでも「強いリーダー」が求められたのだ。
 日本でも2008年に民主党政権が誕生したが、やがて行き詰まり、その後に自民党と公明党の「安部一極体制」が登場した。ここでも民主党の「ぶれる政治」に対して「決められる政治」が宣伝された。人々はここでも「強いリーダー」を求めたのだ。
 民主主義は「民」の代表たる政党間の意見の違いをディスカッションによって合意にもたらし、「民」のための政治を行うということが原則となっているはずだが、決してそうはならず、その政策や行政が行き詰まると必ず「強いリーダー」が求められ、独裁的政権が登場し、そのリーダーに従っていけば正しい方向に持って行ってくれるという心情を「民」に植え付ける。
 なぜ「民主主義」は独裁体制を生むのだろうか?それはまず、ここでいわれる「自由と民主」がその担い手である「市民」やそれによって形作られる「国家」という概念が実は基本的に利害が対立する階級社会を隠蔽する政治体制のイデオロギーだからであるといえる。
 表向きには富を持つ者と持たぬ者は政治的には「同権」だとしつつ、実はその富を生みだしている人々が富を持つ人々に社会的・経済的に支配され、支配されている人々の労働から生みだされる富を支配する人々が不当に獲得している現実を、「互いに利益を分配している」として隠蔽しているのである。この基本的支配/被支配関係はまさに階級関係であって、その関係が社会における生産と消費のサイクルの中で常に再生産されている社会、それが「市民の自由と民主主義」を掲げる資本主義社会なのである。
 20世紀後半に台頭した「中間層」はこの階級社会の隠蔽に一役買った。彼らは企業に勤める「サラリーマン」であって、仕事を通じて会社に貢献し、会社はその事業を通じて国家に貢献しているという構図ができ上がっているが、この「サラリーマン」像は実は資本主義経済の進展に従って変化してきた分業形態が、直接的生産過程の労働者(いわゆる手を汚して仕事をする人々)と異なった、経理や営業業務、あるいは企画・設計などの頭脳労働を主とした労働の必要性を高めてきた結果雇用された頭脳労働者であり、彼らは資本家の頭脳の一部を代行する労働を行っているのである。
  こうした人々がいわゆる中間層を形成しているが、彼らの意識は資本家の意識とほぼ同形である。だから彼らは「市民意識」を持ち、「個人の自由」を主張する。そしてこうした意識は生産労働者にも浸透して行くことになった。その経済的土台では「消費駆動型資本主義経済」の進展があり、生産過程で疎外された労働を行う労働者が、消費の場面であたかも主導権を握っているかのような錯誤を生じさせていった。その結果労働組合の掲げるスローガンは「労働者階級の解放」ではなく、「賃上げ」や「雇用の確保」となっていった。
 だが一方で「市民」は支配的イデオロギーの中で社会の本質的仕組みや構造を知らされないので、資本家的な意識でその経済動向や雇用状況などを見る。株価が高騰し、好況になり雇用が促進されれば満足する。支配階級の資本家達も好況で利潤が増え、富の源泉である労働力が確保できれば「ハッピー」となる。ほぼ同形の意識構造なのである。
 だがこうした見方では解決できない問題が次々に登場する。それは労働者間での「労働力商品どうしの競争」によって必ず生まれる「格差」に対して誰も的確な判断ができなくなっているし、さらに「グローバル化」によって、国家という壁の向こう側にある「労働賃金の安い国(つまり労働力商品の国際価格が安い国)の労働者と国境を越えた労働力市場で競争しなければならなくなっていくという現実。そしてそれが必然的に「ナショナリズム」をもたらす。
 こうした流れがうみだす国家間の軍事衝突という事態にも「民」はどうすることもできず、結局支配階級の意のままに戦場に繰り出され、本来同じ立場であるはずの他国の労働者や農民たちと殺し合わねばならなくなる。 これが資本主義的「自由と民主主義」の本当の姿である。

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2018年10月 6日 (土)

「クルマ革命」の動向とそれが意味するもの

 最近のニュースによるとトヨタとソフトバンクが手を結んだそうである。自動車業界の急激な戦略変化に対応して世界市場での優位性を維持することが目的のようだ。

 数年前のヨーロッパ自動車業界のEV化宣言以来、それまでクリーンディーゼル化に向かっていたドイツ自動車業界などでトヨタのハイブリッド技術に太刀打ちできないことが分かってきて、ハイブリッド技術トップの座にあったトヨタを世界市場から追い落とす目的もあってか、世界は急速にEV化に向かうようになった。それはもちろん同時にIT技術との統合で、高齢化社会で高まる運転自動化と安全対策化へのニーズをとらえ、市場での競争に先んじようという狙いもあっただろう。
 こうした背景から世界中の主要なカーメーカーは競ってグーグル、アップル、アマゾンなどのIT大企業と提携を始めた。今回のトヨタとソフトバンクの提携もその流れの一環だろう。
 しかしよく考えてみれば、こうしたクルマのEV+IT化の流れは、生活必需品化されたクルマを使う個人、特に身体機能や判断力が鈍った高齢者にとって安全なクルマは必要であるが、年金で生活する多くの 「フツーの高齢者」にはおそらく高価で手が出ないだろう。この恩恵に与れるのはほんの一握りの富裕な高齢者だけであろう。
 もっとも大きな恩恵に与れるのは物流会社やタクシー会社といった労働力不足に悩む企業だろう。こうした企業では、世の中一方でIT化が進行し、情報の世界では著しく「合理化」が進んでいるのに反して、相手が情報ではなくモノやヒトといった「実体」であるためそう簡単に「合理化」することはできないからだ。モノやヒトはインターネットでは運べない。
  したがってインターネットによる通販システム合理化が進んで顧客との情報のやりとりがおそろしく早くなったにも拘わらずそれによる商品の流通や配送の増大は人手の増加で対応しなければならない。そのため物流会社のドライバーや配送センターの労働者不足は深刻である。しかし賃金を上げてドライバーの雇用を増やしたとしてもコスト高となって激しい市場競争では勝てない。
  またヒトの動きも活発になるが公共交通機関やタクシーも人手に頼っているので運転手の不足は人手不足で長時間労働化が進む。この資本家的ジレンマを解決してくれるのがEV+IT化なのである。この需要は非常に大きいはずだ。
 ここで、このEV+IT化が急速に進展したならば何が起きるかを考えてみよう。
 まずこれまで大量に雇用されてきた物流労働者の解雇が始まるだろう。次にEV+IT化への社会インフラの整備が国家レベルで始まるだろう。そのため多額の税金が用いられるだろう。そのため、年金生活者への社会保障は「元が取れない支出」なので減らされる一方で、この国家レベルのインフラ整備に大資本が参入して大量の投資をするだろう。
 タクシー業界ではウーバーなどのようなフリーライドシステムを導入した新興企業が台頭する。企業がクルマをもっていなくともタクシー業ができるのだ。そしてシェアを奪われた従来のタクシー会社はその競争に勝てなくなってクルマを減らし、ドライバーを解雇せざるを得なくなる。
 これと平行して世界的にガソリン消費量が減るため、産油国の経済はそのままでは苦しくなるだろう。そこでオイルマネーで莫大な資本を蓄積した産油国の支配層は利益の見込めるEVやIT企業への投資を増やすだろう。その結果EVやITで世界を支配するグローバル企業はますます大きな利益を手にするだろう。超富裕層の世界経済支配はますます強固になる。
 一方で世界の大多数を占めるフツーの労働者たちは政府のインフラ整備への増税や企業での解雇に泣くことになり、年金で生活するフツーの高齢者たちはクルマを買い換えることもできず、相変わらず危険で厳しい状況の中で生活しなければならない。
こうして 世界はますます「格差」をまして行くだろう。
 こうした超富裕層の手にする莫大な富は、元はといえばそれらの大企業やその関連企業に雇用されたり、それらの企業に原料や資源を提供するために、また出来上がった商品を販売拠点に運ぶために毎日汗水流して労働する労働者が生み出したものであり、本来ならば彼らの側にあるべきものなのだ。
  それを「無償で」獲得し、それによって、ただその富を右から左へと動かすだけで莫大な富を積み上げていく一握りの人々と、いったいどちらが本当の地球の主人公なのだ!

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2018年9月20日 (木)

地球規模で拡大する格差社会と大量の難民

 こうした「格差」は日本だけではなく国と国との間でも起きている。いまヨーロッパやアメリカでは中東やアフリカ、そして中米などの国々から大量に流れ込む移民で社会が混乱している。

 ヨーロッパでは東西冷戦終焉後EU圏の拡大で国境が低くなり人々やモノの国境を越えた移動がしやすくなった。そして西ヨーロッパの高度消費社会化した国での労働力不足を補うためトルコや東欧などから多くの人々が西に移り住んだ。これはいわば「許容範囲」であったが、シリア内戦などを機に中東やアフリカから大量の貧困化した難民が流れ込んでくると、EU全体でこれに危機感を持つ国が増え、自国の生活様式や雇用を守るため難民を阻止しようとする動きが急速に拡大した。
 アメリカではかつて世界一の生活水準を誇った自国で高賃金化した生活になじんだ白人労働者たちが、いまその賃金水準ゆえに雇用にありつけなくなり、貧困化していく状況にあって、トランプ大統領が自国の雇用を守るためと称して低賃金でも働く移民労働者の入国を厳しく規制するようになった。
 こうした動きの背景には、東西冷戦後、世界中に進出拡大したグローバル資本がまだ高度に資本主義化されていない国々で、生活資料への出費が少なくても生活できることを理由に労働者を低賃金で雇用し、そこで作り出した生活資料商品を割安で高度資本主義諸国相手の市場に投入することで莫大な利益をあげるようになったことがある。
 こうしたグローバル企業は最初は低賃金労働の確保に走ったが、その結果大量に生み出されたそれらの国々の賃金労働者たちが資本家のもとで生み出した生活資料を購入して生活するようになり、賃金労働者としての均一化した生活のパターンに組み込まれていくようになると、そこを新たな生活資料商品の市場として活用するようになる。
 これまで非資本主義的な国々でその地域社会独自の伝統的生活スタイルで生活していた人々が、オカネがなければ生活して行けない資本主義的生活様式に組み込まれていったのである。そのためそれらの国々の人々はグローバルに均一化された資本主義的生活様式での水準で測られるようになり、グローバルに「貧困化」が可視化されるようになったのである。それによって同じ労働を行っても賃金が何十倍も違う国があるという現実を人々が知るようになったのだ。つまり国際的な格差の現実化である。
 そこに紛争による生命の危機と生活の破壊がやってきて、それらの人々はまともな生活を求めてヨーロッパ諸国にどっと逃れ出ることになったと思われる。
 つまり、高度化した消費主導型資本主義国の内部で拡大した「格差」が生んだ貧困層と、世界レベルで生み出された格差が顕在化させた貧困国の人々との間で「労働力商品」どうしの競争状態を生み出しつつあるといえる。
 本来同じ立場にあって貧困化させられた人々が互いに生活を守るために競争し合い対立し合っているのである。これこそ世界を実質的に支配しこれらの貧困層を生み出してきた張本人であるグローバル資本にとってその事実を覆い隠すにはまことに好都合な状況なのである。
 この問題はおそらく今後より深刻さを増し、国際的生活水準の差と労働力の価格の差がなぜ生じるのかという問題は国々の格差をなくそうとする動きにつながっていくのではないかと思われる。いまこそ「万国の労働者団結せよ!」という言葉がリアルで喫緊な意味を持つのではないだろうか?
 

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「格差」を付けられる人間の能力と価値

 このように均一化された生活とそれを構成する生活消費財の購入に使える収入の差として可視化され差別化される社会は、その社会としての成り立ち自体が格差を生む仕組みになっている。

 そこで働き社会に貢献している人々はその「能力」をオカネで買い取られなければ生活していけない。「能力が高い」とみなされた人は高い賃金で雇われる。だから生活資料の購入により多くのオカネを支出することが出来る。
  ところがこの働く人たちの「能力」を評価する人たちはそれを社会にとって必要度が高いと判断するのではなく、企業に利益をもたらし企業のために貢献してくれる能力が高いとして評価する。つまり働く人たちの「能力」は企業により多くの利益をもたらしくれるかどうかによって決まる。社会にとって必要かどうかはそのための手段でしかない。
  そしてこの「社会にとって必要」という場合の「必要」それ自体も企業によって作為的に生み出されていく。例えば「これからはインターネットとAIが結びついた生活が常識となる」と言われ、そのために必要な能力が「社会にとって必要な能力」とされる。しかしそれは働く人たちの側から発せられた目標ではなく、企業側が利益の増大を図るために描く「次世代社会」のイメージ宣伝によってそういう能力が「売れる」ようになるのだと思い込まされる。
  だから若者たちはそういう能力を養うことを目標として努力を傾けるようになる。その中でこういう能力を身につけられない人たちはますますその存在価値を失って落ちこぼれていく。 こうして「社会的必要」が産業界の主導によって生み出され、その中で労働力の「格差」が拡大していく。
 生活資料を構成するモノたちと同じように働いて生活を営む人々の能力(労働力)自体も商品として価格付けされる。人間としての能力を賃金の差として可視化し人間の価値の差とする社会で、それらの「格差付け」された人々が企業の目的に従って働いて生み出す商品の購入により成り立つ生活がその購買力の「格差」として再生産される。
 しかし働く人たちの能力は企業に利益をもたらすかどうかで格差付けされるようなものではないはずだ。それはどのような内容であれ等しく社会のために必要な労働として質的には平等に判断されるべきであり、その働いた平均的時間の長さによってのみ収入の差が出ることになるはずだ。
 年収何億円もの人気スポーツ選手と、月収25万円たらずで不意の停電が起きないよう毎日汗水流して配電線の補修工事を行っている人たちの、いったいどちらが社会的な必要度が大きいといえるのか?
 そうした、いわれなき能力の格差がどうしてその生活内容自体の「格差」にならなければならないのか?人間の能力は商品ではない。だからそれに価値付けなどできるはずもないのだ。

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