経済・政治・国際

2020年5月19日 (火)

コロナ禍で「世界の工場」中国で失業者7000万?

 NHK-BSでの国際ニュースによれば、中国ではコロナウイルスによる世界的経済不況の影響で「世界の工場」と言われる深圳市を中心とした工業地帯で労働者の雇用が激減し、ロックダウンの解かれた湖北省から大量の労働者が職を求めてやってきたが、有名な「三和人材市場」は閉鎖され、職にありつけず、寝るところもなくなった労働者たちが今度は大挙して湖北省に戻ることになり帰省バスが大混雑しているらしい。一説によると中国全土での失業者数はすでに7000万人に達しているとも言われている。

 「労働者・農民の政府による社会主義国」を旗印とした中国で、30年ほど前にそれまでの経済政策の失敗から立ち直るために、鄧小平によって「社会主義市場経済」が導入され、「豊かになれる者から豊かになればよい」というかけ声のもとで、「カネを儲けてリッチになりたい」という私的所有欲を駆り立て、それをエネルギーとしてもっとも本質的な資本主義的矛盾である「賃労働と資本」という生産関係を復活させ、資本主義経済体制への道を突っ走ってきた。そしてわずか1/4世紀後には世界第2位の「経済大国」となったのであるが、それはその道の選択による必然的結果として、いま資本主義的矛盾のまっただ中に置かれている。

 中国は、その共産党一党独裁体制という強力なトップダウン統治システムによって、すでに腐朽段階にあった欧米資本主義経済体制を巻き込み、それに「活」を入れることで、グローバル資本という巨大な資本の流れを生みだし、資本主義諸国からの莫大な投資を呼び込み、自国の資本家階級を育成し、大量の労働者・農民をそこに労働力として雇用させた。党と資本家階級が結びついた政府指導部は、それによって莫大な国家予算を組むことが可能となり、国家主導でインフラ投資や軍事力への投資および輸出を行っている。いまや中国は経済的にも軍事的にも世界覇権を狙っているようだ。

 かつての資本主義体制側の覇権国だったアメリカは中国の安い労働力と巨大な市場を利用することによってその経済体制を維持し、見かけ上の発展をしてきたが、事実上中国なしにはアメリカ経済は成り立たなくなっている。ここにきてトランプは、その脅威に気づき初め、「アメリカ・ファースト」を看板に中国を非難し続けている。今回のコロナ禍においてもWHOが中国寄りだと激しく非難し、世界中が連帯してこの危機を乗り越える必要があるときに、逆の方向を向いている。

 しかし、中国においても経済危機は深刻であって、これまでは経済的に発展してきたために労働者や農民の不満がそれに吸収されて埋もれてしまってきたが、いまや急速に世界中が大不況の大波に巻き込まれつつあり、グローバルな資本の流れは行き詰まっている。そのため中国の労働者は今後も行き場がなくなるかもしれないのである。労働者・農民のための国であるはずの中国で、なぜ資本家階級が共産党政府指導部と結びつき、労働者・農民が失業や貧困に苦ししまなければならないのか?いまこそ彼らは自分達が本当の主人公であるべきだという正当な階級意識を持ち始めているのではないだろうか。

 

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2020年5月14日 (木)

「コロナ禍」で現れた資本主義経済体制の矛盾

 いま世界はCOVID-19のパンデミックで大変な状況になっているが、どの国でも感染拡大阻止のための「ロックダウン」や行動制限を実行している。しかしその反面でそれを続けることによる経済状態の急速な悪化が深刻になっている。この感染阻止と経済活動維持はトレードオフ関係なのである。

 これに対して感染者が増加していてもその増加率がある程度低下すれば、少しづつ経済活動を再開して行かざるを得ないと判断している国が多いが、その先には再び爆発的感染拡大が待っているかも知れない。もしそうなれば再び行動制限を実施せざるを得なくなるだろう。まして現在の様な労働市場やサプライチェーンが網の目の様に絡み合っているグローバル資本主義経済にあっては、グローバル市場体制の「全面開放」がなければ致命的打撃になりそうだ。そのためグローバル市場に組み込まれて資本主義経済体制をコントロールしている各国政府がジレンマに陥っているのだ。

 例えばアメリカはいま百数十万単位での感染者があり、日々数千〜一万人以上増加している。桁違いに感染者と死者が多い国でありながら「経済活動を再開する」とトランプが息巻いている。その背景には倒産や不況で従業員を解雇する企業が急増し、こうした企業経営者と失業したり賃金カットされて生活が成り立たなくなった労働者たちが共に「経済開放を!」の大合唱をしているからである。しかしもし経済活動を全面解放すれば、感染者数はさらに増加率を増し、すでに医療崩壊しているため死者が爆発的に増加するだろう。死者の大半は貧困層や高齢者であるため、おそらくトランプの頭の中では「社会にとって働き手として役に立たず足手まといとなるような連中は死んでも仕方ないだろう、これも自然淘汰の流れだ」という思いがあるのではないだろうか。ブラジルのボルソナロもそしてロシアのプーチンも同様だ。

 こうした状況は、一方で「エッセンシャルワーカー」の存在を浮き彫りにした。どんな状況にあっても社会生活を維持して行くためには、生活消費財の生産と流通の維持、そして社会インフラを維持して行くために働く労働者が必須である。そして今度のような感染症大流行の場合は医療従事者も必須の労働者である。こうした「エッセンシャルワーカーズ」はどんなに感染者が増えても維持しなければならない。しかし医師を除いてはこうした労働に従事する労働者は低賃金労働で働き、コロナに感染して職場から隔離されればたちまち生活困難に陥る。彼らの多くは非正規雇用や外国籍労働者など不安定な労働条件のもとに置かれているからだ。また生活資料の多くは低賃金労働諸国で生産された商品として輸入に頼っている。国境が封鎖されればこれらの生活資料は入ってこなくなる。国内で備蓄された分がなくなればたちまち生活資料は不足する。医療機器も同様である。不足した生活必需品は品不足で入手困難となり、たまたま入手できても驚くほど高価になり低所得者には買えなくなる。そしてこれらの生活必需品や医療機器を生産している国ではその生産企業が売れ行き不振に陥り従業員の賃金カットや失業が増加することにもなるだろう。

 いま考えねばならないことは、「社会生活を支えるために必要な労働を行っている労働者たちが、なぜ「経済的不況」を根拠に職を失ったり賃金をカットされ生活できなくなるのか?」という問題だ。労働者はいったい誰のために働いているのか?「経済」はいったい誰のためにあるのか?

 すべての生活必需品が資本家企業で生産され、その商品も流通業資本家企業によって流通され、商業資本企業の商店やスーパーによって販売され、それらすべての過程でそれぞれの資本に利潤を生みだすことで彼らが労働力を買い(賃金を払って労働者を雇い)、労働賃金分を「人件費」という項目の生産費用として計算しながらできうる限り人件費分を削減しながらその利潤を維持拡大することで資本主義経済は回っているのである。しかも実際はそれら利潤の源泉である価値はすべてそれらの資本家企業で働く従業員の労働が生みだす価値によっているのである。

 つまりエッセンシャルワーカーズの労働は社会にとって必須であることを理由にそれが資本家企業の利潤を生みだすもっとも確実な手段として用いられているのである。要するに社会的必要労働の目的と手段の関係が完全に逆転しているのである。

 どう考えてもおかしいでないか!しかしこれが資本主義経済の基本論理なのだ。

 

 

 

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2020年3月17日 (火)

コロナウイルスとそれによる経済的打撃をもっとも受けている労働者階級

 いまコロナウイルスの世界的大流行で世の中はパニック状態になっている。毎日働いて賃金を得ないと生活できない労働者にとっては、自分自身がウイルスにやられてしまえば、回復するまでの期間は通常の賃金がもらえなくなり、たちまち生活のやりくりが苦しくなるのであるが、それに加えて子供の学校が長期休校になれば夫の収入を補うためにパートで働く妻が仕事をやめて子供の面倒を見なければならなくなり、その収入も断たれることになる。ウイルスと経済的打撃はこうしてまず労働者の生活を襲う。

 しかし世の中では、株式市場での株の大暴落があたかも世の中の終わりのように報じられている。株に投資して人のカネを右から左に動かすことで儲けている投資家たちにとってはパニックであろうが、日々の生活のために毎日一生家明働いている人々にとっては何も関係ないはずだ。ところが、株が下がると、企業の「価値」が下がり、経営資金集めにも影響がでると同時に、株の評価の根拠となっている企業の売り上げがストップすることで企業の経営が立ち行かなくなれば、たちまち雇用されている労働者は一時解雇となる。これが長引けば、その企業は倒産してしまうかもしれず、そうなれば労働者たちは路頭に迷うことになる。

 しかしもっと大変なことは、ウイルスの流行阻止のために人々の行動が大幅に制限されれば、社会的生産〜流通のサイクルが事実上ストップしてしまい、社会全体で人々の生活に必要なモノが入手できなくなり、その日からどう生きてゆけばよいのか分からなくなる。この機に乗じて生活必需品を買い占め一儲けしようという連中が必ず現れるが、世の中では、生活必需品の争奪戦が始まる。

 これに対して資本家代表政府はなすすべを持たず、中央銀行を通じて市場の救済のために企業が必要な資金をばらまき、景気を支えようとするが、いまさら市場にオカネをばらまいてもウイルスが尻込みするわけはなく、ストップした生産、流通が動き出すわけでもない。それを知っている「リアリスト」の投資家たちはだからどんどん株を売って株式市場は大暴落する。だが政府は「金融市場は依然としてしっかりしており、これは金融恐慌ではない」だなどと言い訳をしている。その間にも労働者たちの生活状態はどんどん悪化して行く。いつ終わるとも分からないウイルスの脅威にほんとんど絶望的な思いをしている。しかし、政府高官や日銀の連中は金融市場の動向や企業の景況感しか見ておらず、労働者階級の現実を知らない。

 いまどうすればよいのか?まずはウイルスとの戦いに勝たねばならず、それには生産・流通の現場で働く労働者や、苛酷な医療現場で働く医療労働者を政府が全力でサポートし、株式市場や金融市場などに目を奪われてはならないはずだ。それができない政府などわれわれはいらない!

 

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2020年2月11日 (火)

アメリカ大統領予備選挙に思うこと

 いま今年末に任期が終わるトランプ大統領の後の次期大統領候補者を決める選挙がアメリカ各州で始まっている。共和党の候補者はトランプに絞られているが、共和党の候補者は多数いて、誰が本命か分からない。民主党大会初戦のアイオワでは、本命と言われていたバイデンが4位となり、それに近い主張をしている若手のブティディッシュがトップになっている。2位にはこの二人と大きく違った左翼的主張のサンダースが僅差でつけている。いま投票が行われているニューハンプシャー州での結果がどうなるか見物だ。

 そしてそれらの候補者の支持層を見ると、バイデンやブティディッシュの中道派は中高年層の支持層が多く、78際の左派サンダースは若い学生などを中心とした層が多い。マスコミではその背景にアメリカの格差社会化があると言っているが、問題はその格差社会のもう一つの極である中部ラストベルなどの旧重工業地帯の労働者たちの支持を受けて登場したトランプである。この自動車、鉄鋼産業などを中心とした旧工業地帯で1980年頃までは「何でも世界一」のアメリカのプライドとともに比較的リッチな生活をしてきて自ら「中間層」と自認してきた労働者たちが、その後の世界情勢の変化に伴うアメリカの経済事情の変化で、経営難となった企業がどんどん製造業から撤退し、工場が打ち捨てられ、文字通り「錆び地帯」となっていった中で取り残された人々となった。彼らは別の職にありつこうとしても、低賃金で働く黒人、ヒスパニック系、アジア系などの人々に職を奪われ就職できないと感じ、やがてかつての白人中心の「世界に冠たるアメリカ」の復活を願うようになったのだろう。トランプはその不満を巧みに利用して自らの権力と名誉への欲望を達成したのである。
 トランプは彼が大統領となってから、「アメリカ・ファースト」を看板に、そのアメリカ株式会社のCEOとしての「ディール」の巧みさによって経済状態がかつてないほど良くなったと威張っているが、それは急速に発展し一躍「世界の工場」となり巨大市場となった中国との経済的相互依存関係の進展によるところが大きかった。その陰で実は深刻な社会格差化が進んでいた。重工業の衰退のあと、IT産業で息を吹き返したアメリカ資本主義は、それを担う"GAFA"など新興企業群の進展によって支えられてきた。そこにはかつての重工業の場合と異なり頭脳労働者が重要なポジションを得て働いており、その働き手である「人材」はアジアなどからも広く受け入れられている。彼らは、高度な教育を受けることができた、ある意味で経済的に恵まれた階層であり「新中間層」を形成している。この「新中間層」はおそらく、こうしたいわゆる「ニュー・エスタブリッシュメント」の思想的援護者であるインテリ層とともに、民主党の「中道穏健派」を支持している者が多いと考えられ、いわば「新保守派」とでもいうべきだろう。
 一方ラストベルトの旧労働者たちはいまや高齢化し、決して経済的にゆたかではなくなっているが、思想的にはいまだに「アメリカ・ファースト」を旗印としたトランプを支持する者が多そうである。こうした人々を含めてすでに旧世代からの遺産を引き継ぎ「オールド・エスタブリッシュメント」として一定の安定した生活を営んでいる人々は「旧保守派」といってようだろう。
 そして、経済的理由で高度な教育も受けられず、激しい労働市場での競争に敗れてこれら中間層から落ちこぼれて希望を見失った若者たちがサンダースの掲げる新たな政策に期待をかけているのだと思われる。いうなれば「社会変革派」である。
 つまり、いまのアメリカはかっての「保守的共和党」対「革新的民主党」という構図がとっくに崩れ、アメリカの栄光の復活を求める斜陽の「旧保守派」と、それとは一線を画すグローバル感覚を持った新興資本家とそこに雇用されている労働者による「新保守派」とそれらの支配層から見放され生きる希望を見失った若者たちを中心としたいわゆる「新貧困層」による「社会変革派」の3極に分かれるといえるのではないだろうか?

 ここには労働者階級と資本家階級の基本的対立構造が見えず、両階級内での階層化や思想的入り交じりが複雑に絡んでいるが、労働者階級内においては、社会的に安定したポジションと収入を確保できている階層と、自分の労働力を売って生活を営むことすら困難になりつつある階層に分かれており、前者はいまの生活が保たれていれば不安なく生活できるが、後者は安定したポジションと収入が得られないため先細りの不安な生活を強いられ、いまのままではどうなるか分からないという不安な状況にあるといえる。

 これら労働者階級のうち、上層部の階層は、企業との一体感を持ち、資本家経営者と手を組んで生活しているが、下層の人々は、まさに直接、格差社会であることを日々感じさせられながら生きているといえる。つまりこの下層の人々の潜在的階級意識がより鮮明になり、その背後にある歴史の真実が自覚されるようになったとき、そこに「賃労働と資本」という資本主義社会の基本構造における矛盾が浮き彫りにされてくるだろう。そこで初めて「格差社会」とは階級社会の現象形態なのだということが明らかにされるだろう。

 

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2020年1月 9日 (木)

”Somewhere”クラスの目指す国民国家が民主主義の本来の姿なのか?

 今朝のNHK-BS「キャッチ世界のトップニュース」で、あるイギリスの研究者が、イギリスの現状についておおむね次の様に解説していた。

 「イギリスでは国民投票の結果EUからの離脱が決まり、それをめぐって議会では大もめしているが、その背景にある"Somewhere and Anywhere"という階級の区別で見ると問題の本質が分かる。"Somewhere"クラスは、いわば経済のグローバル化に取り残された、いわゆる「負け組」であって、ある特定の地域でしか生活していけない人たちである。それに対して"Anywhere"クラスは世界のどこでも生きて行けるようになったエリート層、いわゆる「勝ち組」である。"Somewhere"クラスはイギリスで50%以上を占めているが"Anywhere"クラスは25%程度である。ところが現在のイギリスでの2大政党(保守党と労働党)はいずれも"Somewhere"クラスの立場を代表していない。いずれもいわゆる「リベラル」な政党を目指している。その食い違いが国民投票の結果にはっきりと現れたのだ。かつての世界に冠たるイギリス帝国がいまや自分達の方向を独自に決めることすらできず、EUの政策に従わねばならなくなっている。それによって経済のグローバル化が進み成功した人々は社会のエリート層になり、落ちこぼれた人々は「負け組」となった。そこに経済のグローバル化で外国からの移民がどんどん流入して自分達の仕事を奪い、イギリス独自の文化や社会を壊しつつあると危機感を抱いている。そしてその現実に対する"Somewhere"クラスの不満はどちらの政党も汲み上げてくれないし、EU政府にはますます分かってもらえない。こうした状況は本来の意味で民主主義ではない。"Somewhere"クラスの人たちはかつての大英帝国イギリスのような「国民国家」を望んでおり、彼らは「国民国家」こそが民主主義の機能できる社会形態なのだと思っている。」そしてさらに彼は「日本こそこのような状況がよく分かってもらえる国だと思う。」というのである。つまり「日本は伝統的に移民などを受け入れず、独自の文化や社会形態を維持し続けてきたではなないか。」というのである。

 これはなかなか鋭い分析だと思った。しかし、ちょっと首をひねることは、果たしてここでいう「国民国家」が本当の民主主義を発揮できる社会形態なのか?という疑問である。かつてナチスや日本などのナショナリズム国家が世界中を戦争に巻き込んだ事実を見ればこの疑問はあきらかであろう。ここでいう「国民国家」とはこうしたナショナリズム国家とは別のものであろう。

 私の考えるのは、ここでいう「国民国家」とは、経済的に自立できる地域社会がそれを一つの単位として自治権を確立し、自分達の社会の方向は自分達で決めて行けるような政治構造をもった社会のことであろうと思う。それらの自治社会は互いに他の地域自治社会と一つ次元の高い連携をして地域社会間で社会共有財を共有して行かないと経済的には成り立たない。それは近代資本主義の台頭が国民国家という政治経済的形をとって現れ、自国の「国民」(実は"Somewhere"クラス)を先兵として「愛国心」を盾に世界中の富の奪い合いをさせてきた「国民国家」とは別の次元である。

 近代国家は私有財産の追究を行動原理とした資本主義経済体制の上に立って社会を政治的に統治し世界的に「自由に」富の支配権を争うための形態であるが、それが持つ基本的な統治形態である国民国家が外見的には「階級なき民主主義社会」の国家に見えるが、内実はつねに賃労働と資本という対立構造にもとづく階級に分化している社会であるという事実がもたらす矛盾がこれまで社会格差と戦争の歴史を生みだし、そこでは常に"Somewhere "クラスの人々がエリート層のために労働し、戦争となればエリートが支配する「国家」のために命を捨ててきた。その戦争への反省にもとづき国連やEUの様な国家連合体を目指す方向が生まれてきたのであるが、しかしその国家連合体を目指す方向はエリート層によるいわゆる「リベラリズム」という思想に動かされており、それはあらゆる階級が平等であるべきだという普遍的な方向を目指しているかに見えるが、現実には相変わらず"Somewhere"クラスの労働の成果を"Anywhere"クラスが企業の私有財産として獲得することを通じて、その「経営手腕」により企業の従業員を養っていることへの「報償」という名目で莫大な富を私的に所有することを「個人の自由」として許している。つまり相変わらず"Somewhere and Anywhere"という階級の区別を必要とする社会をグローバルに拡大させているのであり、資本主義社会の矛盾を新たな形で増殖させており、それが最近の世界的な"Somewhere "クラスの不満爆発につながったと見るべきであろう。

 つまり"Somewhere "クラスあるいはグローバル資本主義のもたらす矛盾によって「負け組」に落とされた絶対多数の人々は、いまこそ、その原因が資本主義社会特有の矛盾であることに気づくべきであって、そこから見えるのは彼らエリート支配層が唱える「リベラリズム」がいかに"Somewhere "クラスを無視したインチキで内容のない「民主・平等」であるかを明らかにしながら、同時に"Somewhere "クラスが本当の意味での主権を握り、私的生活と社会的共同生活が一体となった社会で生活者は自分の手で自分達の社会の在り方を決めることが出来、社会共有財を共有するために、資本主義的国民国家の国境を越えたグローバルな地域社会連合によるグローバル民主主義を実現できる社会の形を新たに構想すべき時が来ているということだろう。それは決してトランプのような「頼れるリーダー」という仮面をかぶった独裁的国家経営者を必要とする国民国家であってはならないし、"Somewhere and Anywhere"という階級の区別を本質的に必要とする資本主義的国家であってはならないはずだ。

 

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2019年12月24日 (火)

「全世代型社会保障」って何?

 安倍政権がいまプランを練っている「全世代型社会保障」とは、何なのか?このブログの読者でもあるMizzさんのMLに掲載されたこのプランの中間報告の3次元グラフを見ると、社会保障給付費総額、年金、医療、福祉他、福祉他の内訳として介護という項目別にそれらの社会保障費の1964年からの推移を見ると総額はほぼ右肩上がりに直線的に伸びているが、内訳をみると、年金の伸びが2010年あたりから横ばいで、それを補うように医療、福祉などが伸びている。MizzさんがMLに書いているように、要するに医療、福祉といった事業への保証が伸びて、その分年金が減らされているということだろう。

 働けなくなった高齢者への年金は医療、福祉といった事業への保証に回してそれらを運営する企業が潤うようにということのようだ。この背景には医療、福祉企業での労働力不足を補うという大義名分があるようだ。確かにいま日本は高齢化社会が進み、若い労働者が減っている。そこで医療、福祉労働への外国人労働者の雇用などが進んでいるところもある。

 しかし、よーく考えてみよう。そもそも、社会が必要とする労働はさまざまな分野での労働者によって実現されており、その労働が生みだす生産物やサービス(労働生産物)は社会的に消費されるのであり、労働者の個人生活に必要なものは各労働者の生活の中で消費され、それを超えて生みだされる労働生産物は本来「社会共通財」として扱われるべきものである。資本主義社会ではこれを労働者を雇用する企業が不当にも私的利益として獲得してしまう。労働者は資本家から受け取った賃金で自分の個人的生活を維持するために必要なものを資本家企業から買い戻し(それらはもともと労働者たち自身が生みだしたものである)、それによって生活する。労働者が生活資料を買うために使った賃金は全体として見れば、結局再び資本家階級の手に環流するのである。その上、資本家企業は本来社会的共有財となるべき労働の成果(剰余価値部分)を不当にも私有化することで企業の利益を増やし、他企業との「自由な競争」に勝つために資金をも確保する。資本家達はこれも「企業を成長させて労働者を雇用し続け、彼らの生活を保障するために行っていることだ」と豪語する。そして高齢化社会がやってくれば、資本家達は「儲かる仕事」として製薬、医療、福祉事業などに積極的に投資する。

 しかし一方で、労働者たちはただでさえ乏しい賃金から年金の資金や健康保険料を毎月天引きされる。そして資本家企業に雇用してもらえなくなると、年金生活者となり、現役時代に毎月天引きされ積み立てた年金資金に公的機関からのわずかな補助を加えた乏しい年金によって生きねばならなくなる。しかし政府はこの資本家階級の不当な「社会共有財の私物化」を合法と認め、「企業が若い労働力を確保でき、国際競争力を付けるため」に社会保障や福祉に要する資金を拠出することが少なくなるような方向で政策を練り、不足分を、かつて資本家に莫大な利益をもたらした労働者である年金生活者たちの負担増に回すのである。
 働けなくなった者は「労働力商品」としての使用価値がないためにできるだけ早く「逝ってもらう」必要があるからだ。そんな者たちに政府予算を使わないで「経済の活性化」に用いないと経済は成長しなくなるということのようだ。しかしこの経済成長至上主義は他方でどんどん地球環境を悪化させ資源の枯渇をもたらし、資本家の経済成長が続けば続くほど人類は地球規模での危機にさらされることになるのは明白だ。

さあ、どうする!!

 

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2019年12月10日 (火)

アメリカ、日本、「好景気」の裏側にある真実

 アメリカでは住宅不動の売れ行きがよく、1億円以上もする高級住宅が売れているらしい。アメリカの経済は住宅不動産業界が牽引しているという面もあるらしいのでそういう高い買い物ができる富裕層がかなりいるということだ。また「ブラックフライデー」と称するクリスマスにかけての一大商戦が過熱化して何兆円規模もの消費市場が活気づいているともいう。日本でも史上もっとも長期政権となった安倍政権のもとでこれも史上最長の好景気が続いているという。

 だがいったい「好景気」って何なんだ。だれがそんなにお金を稼いでいるのか?われわれは毎日の消費財をできるだけ安いもので済ませ、わずかな貯金や年金を食いつぶしながら生活しているというのに、消費者物価指数が上がると「景気が良くなった」といって喜んでいる連中がいるのだ!

 アメリカでは人口比率の多い20〜30代の若者たちが大学に進学しないとまともな職に就けないため高額な利息つき奨学金を無理して借りて大学を卒業したのはいいが、希望していたような職にはありつけず、生活と奨学金返済のため不本意な仕事に仕方なく就いて働いている者が多いらしい。こうした状況は統計上「失業」とはならず、アメリカは好景気で失業率も最低の状態が続いているということになっている。

 日本でも就職氷河期の40代を中心とした世代はいまだに厳しい生活を余儀なくされているし、それより若い世代は教育費が潤沢な富裕層の子女は良い大学に入れて高賃金で安定した就職先に入れるが、その出世街道から落ちこぼれた大多数の若者たちは不安定で不本意な仕事にしか就けていないことが多い。そのためその次の世代の家庭の子女もあいかわらず教育費がたりなくて良い教育が受けられず、ますます「格差」が拡がっていく。そしてより年代の上の世代では、あの60-70年代「高度成長期」に企業の収益増大にもっとも貢献し日本の産業を世界のトップレベルに押し上げた世代であるにも拘わらず、いまやわずかな年金でカツカツの生活を強いられている。それなのに世の中「好景気」なんだそうだ。

 アメリカではこうした「好況社会」の水面下の不満が大統領選の前哨戦にも現れて、資本家代表のトランプに対して民主党からは教育費の無償化や健康保険、社会保険の充実化を訴える候補が続々登場している。日本ではかつての民主党政権の崩壊で分裂弱体化した野党を再統合して「政権を担える野党」の結成を目指す動きもある。しかし、いずれもこうした現在の社会状況を深く分析し、その矛盾の本質と根拠をえぐり出し、その克服のための根本的な戦略の下で具体的にどのような戦術でいまの支配層に対抗するかがまったく見えていない。場当たり的な野党政治である。

 社会的に必要な労働を行い社会にとってもっとも重要な存在である労働者の人間としての肉体的能力を細分化し単純化しそれを機械に置き換え、やがてその脈管系の能力も化学・電気機器に置き換え、さらに神経系の能力を情報機器に置き換えて「産業革命」を強引に推し進めてきた資本主義社会が、いまやその最終段階ともいえる人間の頭脳をAIに置き換える段階にまで達した。「道具」としての労働者はもはや肉体も精神もすべて人工物の道具に置き換えれられようとしてるかのようだ。

 社会的な共有財であるべきものを私的所有として獲得する欲求に突き動かされた資本家企業の経営者たちは、そのためこのようにして本来社会の主人公であるはずの労働者を人間としてではなく道具として扱ってきたのである。その連中がいまや世界全体の富の90%以上を私的に所有し、それをリッチな私生活のために消費するとともに資本家同士の利潤獲得競争に勝つために企業資金として投資し、残った分をできるだけ節約して労働者階級の存続のために使っている。彼らにとって「人件費」の増大は「悪」であり何とか「合理化」によってそれを削減しようとするが、しかし一方では、自らに莫大な富をもたらす価値創造の根源である労働力を担う労働者の存在は不可欠なのである。

 労働者階級はそれぞれの持ち場で社会を維持するために日々営々と長時間働き、その労働から生みだされる価値の大半は資本家の私的所有物となっているにもかかわらず、自らの労働が生みだした生活資料を、資本家の商品として、労働賃金で買い戻して日々生活している。「消費拡大」とは資本家的には「労働者がゆたかになった証拠」なのだろうが、実は、資本家が労働者に作らせた商品を、労働者に前貸しした賃金で労働者に買い戻させることで、そこから獲得している利潤の量が拡大しているということなのである。なんのことはない、本来生産的な労働を行っている労働者階級は「消費者」としてしか人間としての社会的な存在意義を認められず、自ら生みだした価値を自らの生活で消費することで、賃金と交換で資本家に与える労働力の再生産を行いながら資本家に莫大な利益を与えているにすぎないのだ。まさに「自由な資本家階級」に支配された「賃金奴隷」階級なのである。

 こうしていまや資本家は労働者に無駄な消費をさせることでどんどんリッチになり、労働者はその消費が社会的に必要な富の生産とは結びつかない形の無駄な消費(実は本来の消費ではなく単に私的所有欲を充たすための購買)を増やすことでモノに溢れた生活を営み、それが「ゆたかな生活」と思い込まされ、まだ使えるモノをどんどん廃棄して買い換えさせられることで環境汚染や自然破壊そして貴重な資源の浪費を推し進めさせられているのである。だからCOP25においても各国の資本家代表政府は自分の国の資本家が損をしてまで地球環境の保全に貢献しようとは決して考えないのである。

  一方で労働者階級側は世界各国でその国の置かれた「グローバル資本」との関係や位置付けによってさまざまな形でその「賃金奴隷」の姿が異なるが、それを「国家」という資本家的統治形態の視点から見て、国境や民族に結束の拠り所を見つけ国家間の対立してとらえようとするナショナリズムやポピュリズムは致命的な誤りであって、むしろ逆にその国家間のカベを取り除いた、より普遍的な視点から互いに共通の立場にある階級として結束すべきなのだと思う。そういう視点がない限り、またあの悲惨な大量殺戮の戦争が繰り返されることになるのだ。

 

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2019年11月26日 (火)

貨幣論の破綻にみる資本主義体制崩壊への予兆(再び岩井克人氏「欲望の貨幣論」をめぐって)

 今年の7月20日にこのブログで採り上げたNHK-BSの特集シリーズ「欲望の資本主義」の中の1編で経済学者の岩井克人氏が解説した現代貨幣論を今朝再放映していたのを観て、私のブログに重要な追加と修正が必要と感じた。

 それは、過剰資本の蓄積と現代貨幣論との関係に触れていなかったことだ。岩井氏の見解は、従来は貨幣のとらえ方にはマルクスの様な「商品としての貨幣」というとらえ方が基本であるとされてきたが、いまではこの説に限界があり、貨幣は金ではなくて紙幣が一般的であることからも分かる様に、貨幣は単に財の貸し借り関係を表す表象あるいは記号であって、商品とは関係がないことが分かってきた」というのだ。だから単なる表象としての貨幣はその信用が保証される限り際限なく発行され、それによって経済が動くというのだ。そしていずれはデジタル・データが紙幣に変わって用いられるようになるだろうというのだ。

 しかし、マルクスは貨幣は金という特殊な商品が何とでも交換できる「一般的等価」の物体化された「第3の商品」としての地位を獲得したとしている。したがって金貨という貨幣の原型は金商品であるが、すでに初期の商人資本主義経済においても、金貨の代わりに銀貨や、紙幣が用いられ、手形などのような信用による取引が行われていたことはマルクスも言及している。マルクスは銀行券や株式証券などの存在を当然知っており、金貨幣はこうした紙幣や信用証券などにおいてもその信用の基本を保証するのはそれが金と交換できるという意味で貨幣の本質は金商品であるとしているのである。

 貨幣が金と交換できなくともよい、ということになったのは、実は資本主義的生産体制が社会的に必要な生活消費材や生産財の量を超えてつねに生産できるほど高度な生産力を獲得するまでに発達し、市場での競争に勝つために必然的に生じる過剰資本の蓄積に悩まされるようになって以後のことであると考えられる。19世紀末〜20世紀初頭にかけて資本主義経済体制での潜在的な過剰資本の蓄積が進み、それによりもっとも効率よくカネを稼ぐ方法としてモノづくりよりも金融資本の回転を加速させることによる差益獲得に資本家の関心が移り、金融資本主義時代という形で資本主義経済体制を変化させ、それに対応して「帝国主義」とよばれる政治形態に資本主義国家が変貌し、その結果、その矛盾がさまざまな形で世界レベルで噴出し、帝国主義国家間の衝突による第1次世界大戦という悲劇を生んだ。

 戦後、戦災も受けず戦勝国となったアメリカでは好景気が続き、その中からいわゆる中間層が登場して生活消費材の市場も活況を呈し、ドルがグローバル市場でポンドとともに世界通貨としての地位を高めた。しかし、結局、その中でも潜在的過剰資本の蓄積はどんどん進み、1929年10月、ウオール街株式市場での株価大暴落という形でその矛盾が突然爆発した。企業が倒産するなどして解雇される労働者が続出し、賃金をもらえなくなった労働者は生活資料を買えなくなって路頭に迷い、資本家企業ではモノがありあまっているにも拘わらず売れなくなった。また有価証券としての株の信用が一気になくなり紙くず同然となり、流通できなくなった商品資本の過剰などという形でが一気に過剰資本が顕在化し、貨幣の流通量は激減した。生活できなくなった労働者の不満が爆発し、社会不安が一気にやってきた。しかしこの危機的な状況は皮肉なことに第2次大戦の勃発によって救われたのである。

 それは戦争に必要な大量の兵器や武器を生産するためにこの潜在的過剰資本が投入され、軍需産業関係の資本家企業で雇用が確保されるようになったからである。ひとことで言えば、軍需産業という形での潜在的過剰資本の不生産的大量消費によって救われたのである。 

 こうした状況をにらみながらケインズは、すでに資本主義経済体制は企業間の「自由な競争」による市場の「需要と供給のバランス」によって安定化するという旧来の経済理論は否定されたと考え、政府が政策的に社会的な資金を投入し、そこに雇用を生み、労働者の消費力を高めることで有効需要を増やし、資本家企業の利潤を増やしていくという提案を行い、アメリカがいち早くそれにのっとって「ニューディール政策」としてそれを採用した。

 ケインズ型資本主義では、政府が財政政策によって大量の貨幣を公共投資などに投じるとともにその貨幣の信用を中央銀行の権威によって保証する体制が必要で、これによって銀行券として貨幣をどんどん発行して、資本の流通を活性化させ、労働者の雇用の増大と賃金の上昇による生活消費財市場の拡大そしてそれによる有効需要の拡大と資本家の利潤増加という「好循環」(アベノミクスは完全にこの2番煎じ)が生まれるという仕組みである。1930年代のナチスドイツなどにおいては資本主義の国家主導が独裁政権によって強行されたが、アメリカでは「民主的政権」によって純粋な経済政策として行われたといってもよいだろう。しかしいずれにしてもこの段階で個々の資本家企業間の自由な(無政府的)競争において蓄積する潜在的過剰資本を処理することが不可能となり、そのため国家が総資本の立場からこれに介入し主導して行かざるを得なくなったといえる。

 そしてこのケインズ体制が戦後において、より強化され、いわゆる「消費駆動型資本主義」が成長し、軍事技術から転用された技術を取り込んだ家電製品やクルマといった高額な耐久消費財が生活消費材としてどんどん生産・販売される大量生産・大量消費社会が到来した。実はこの「消費駆動型資本主義経済」も軍需生産と本質的には同じ「潜在的過剰資本の不生産的処理」であるが、その流通における加速によって資本家が利潤を獲得するという形態であるといえる。したがってこれは表面的には過剰資本の不生産的処理とは見えず、まるで「経済成長」の様に見えるのである。

 この体制において増加した「中間層」や「富裕層」がそれらの消費を牽引し、生活にモノがあふれることで「生活が豊かになった」という幻覚を生んでいった。しかしそれがもたらした結果は、いま私たちが目の当たりにしているように過剰資本の矛盾が、労働者階級の分断と格差の増大、そして乱開発や大量の廃棄物による深刻な自然破壊をもたらすという不生産的な形で顕在化していることは周知の通りである。

 こうした過剰資本の蓄積を土台としたその流通における不生産的処理形態にともなう、紙幣の増刷とその国家による信用保証の維持という相互関係がもたらす「貨幣は商品ではなく、限りない所有欲の幻想が生む記号のようなものだ」というとらえ方はマルクスがすでに明らかにしているような価値の本質と市場価格の違いが理解されていないためといえる。

 価値は社会的に必要なモノを生みだすため(つまり使用価値を生みだすため)に要する平均的労働量を示す客観的指標であるが、価格はその使用価値を市場での商品交換を前提として見立てられる交換価値としてとらえることによるものであって、それは主観的な価値観に基づいている。市場で商品交換を媒介するのは貨幣であるため、貨幣はこの主観的価値観を表象するものとして誤解されるのである。しかしこの市場価格も恣意的に付けられるものではなく、結局その需要と供給の変化の中心として価値という錨によってつながれている。しかし潜在的過剰資本が大量に流通するようになれば、その潜在的過剰分は金融資本などによって投機の対象となったり、生産とは関係のない娯楽や観光などの第3次産業に投資されたり、あるいは実際の価値は低い商品であっても市場価格が「ブランドイメージ」などによって極めて恣意的に高く付けられることにもなる。

 また「インフレ率が許容範囲を超えないなら国家が保証する貨幣はいくらでも発行できる」という考え方も根本的に間違っているといえる。貨幣はどのような形で「信用貨幣化」されようとも、基本的に商品との交換が出来なければ存在意義を失うが、それはもともと何とでも交換できる商品という本質を持っているからだ。たとえそれが「データ化」されたとしてもその土台においてこの商品としての貨幣という性質が失われればたちまちそれはゴミとなる。貨幣は発行する国家が保証するものであっても、基本的に世界市場でも流通する商品の交換を媒介する機能をもっていなければならず、それに必要な流通量を超えた貨幣は資本家が必要とする備蓄量をこえれば、過剰流動化し、インフレを生じ、不生産的に処理するしかなくなり、同時に必ずそれは投機の対象になる。この過剰資本の貨幣形態はいわば「根無し草的貨幣」であって、それに対する見せかけの信用は何かのきっかけで必ず崩壊するといえる。だからいまのアベノミクスも日銀の100兆円を超える借金が、いずれいつかはやってくるであろう世界的な不況に直面すれば、その負債が何らかの形で国民に背負わされるという状況になって結局破綻するだろう。そしてそのときになってMMT理論も歴史のゴミ箱に捨てられることになるだろう。そうなる前にいまの政治経済体制の虚偽に気づかねばならない。

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2019年10月 8日 (火)

過剰資本の時代における貨幣の役割について考えてみよう

 いまMMT理論をはじめとして国家機関が発行する貨幣の役割が話題になっている。経済学が専門でもない私がこれを大上段に論じることは控えるが、それにしても、中央銀行をもつ政府が発行する自国通貨建ての借金を増やしても破綻することはない、という考え方は基本的におかしいと思う。もちろん貨幣を過剰に発行することはインフレを引き起こすが、税収よりもインフレ率をコントロールすることで財政支出を調整するのが正解だなどという経済学者もいるようだ。しかしどう考えても個人は借金を焦げ付きにすれば経済的に破綻するが国家は破綻しない、なんて理屈はおかしい。

 貨幣は資本主義経済体制確立の中で、資本の一形態として位置づけられてきたが、その資本の回転を媒介するという機能が資本家にとっては重要である。現在の資本主義経済体制の「腐朽化」の中で資本の潜在的過剰がもはや常態化しているが、「先進」資本主義諸国では莫大な設備投資でもたらされた生産技術の高度化による資本家企業間の資本構成(労労力の価値と生産手段の価値の比)の違いを平均化した平均利潤率は低下しつつあり、それを補うために「開発途上」国の低賃金労働の獲得が必須のものとなっている。高度な生産技術をもってそうした国々で低賃金労働を行わせ、非常に高い剰余価値率(労働力の再生産に必要な価値とそれを超えて生みだされる剰余価値との比率)と大量な労働者の雇用によってもたらされる途方もなく巨額の利潤が「先進」資本主義国の資本を潤している。それによって「先進」資本主義国の労働者や中間層は高賃金を維持でき、企業の宣伝などで新しい生活資料をどんどん購入し「消費」している。そしてその生活資料商品の大量消費による貨幣の環流が資本家企業を潤し、激しい市場競争における「競争力強化」に寄与している。これがいわゆる「経済成長の好循環」である。この中で貨幣は資本の回転を媒介する役割を果たしており、資本の回転率が高まれば高まるほど資本家が手にする利潤は増大する。
 ところが資本の回転が速くなるほど流通する貨幣の量が不足する。貨幣の流通量が相対的に少なくなれば大量に生みだされた商品が売れなくなる。だから物価が下がる。デフレである。こうなると資本家企業は利潤が減り、場合によっては会社は破綻し、労働者は解雇され、商品の回転は滞り世の中は経済不況に陥る。つまり過剰資本の顕在化である。だから政府はこうならないように、貨幣をどんどん発行し、資本の回転を良くして企業の利潤を増やそうとする。本当は過剰な資本を表面上はそれを覆い隠し、あたかも経済成長が人々の生活を豊にしているかのように見せかけるために。しかし、本来、社会的に必要なモノが商品として流通している場合にはそれと交換できる貨幣自身が価値の体現化されたものであったのに対して、実質的に必要もないモノを生産し商品として流通させる場合、そして貨幣がその流通するすべての商品の価値量を超えた価値量として過剰に発行された場合にはその過剰分の実質的な価値はなくなるのである。過剰に流通する貨幣はいつわりの価値表象として流通しており、それがたとえ国家によって保証されていても国家財政そのものが破綻する危機はいつでもやってくるしそれが現実になる確率は高まっていく。しかも一方ではこの際限なく加速された「消費拡大」は次々と売り出される新商品を次々に買い換える「消費者」によっていまだ使えるものがどんどん廃棄されいまやその膨大な量の廃棄物によって環境が破壊され、そのために費やされる莫大な資源エネルギーの消費がもたらす二酸化炭素などの急速な増加によって大規模な気候変動が生じている。つまり「経済成長」が持続可能な社会をますます不可能にしているのだ。
 要するにいまの資本主義経済は個々の資本家企業同士の競争によって需要と供給のバランスが保たれるというアダムスミス的想定が完全に崩れ、「総資本」の立場を代表する国家が資本の過剰を何とかして突破するためにさまざまな政策や金融のコントロールをしなければならなくなっているのだ。そしていわば「無駄な消費」をどんどん増やすことで過剰化した資本を不生産的に処理しながら資本主義経済体制を何とか維持しようとしているのである。そのために貨幣発行量をコントロールして「適度なインフレ状態」を保たせながら、一方で資本家たちの利潤と労働者の雇用を維持させながら。他方で同時にどんどん実質的な貨幣価値を下げ借金を増やしながらこれを国債の発行などでカバーしようとしているのだ。MMT理論はこういう資本主義経済の破綻寸前の状態を正当化するためのバックアップ理論であって、これを「社会主義経済への一歩」だなどといって歓迎する人は、きっと「社会主義」とは一党独裁政府による国家が労働者を支配する国のことだとトンデモナイ誤解をしている人たちだろう。どんなに社会保障や労働賃金が上がっても、それが労働者の労働の成果が資本として労働を支配することになる「賃労働と資本」という経済的土台の上で行われている以上は本来の社会主義社会とはかけ離れた社会だといわざるをえない。

 

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2019年10月 1日 (火)

What is the money?

日本では今日から消費税が8%から10%に上がり、その切り替えにともなって予想される混乱で一般市民とコンビニやスーパーの従業員は大変だ。

それというのも低所得者層への軽減税率という名目でいろいろな条件によって減税されるというものすごく分かり難い方式で商品の価格を計算しなければならず、一方で経産省がこの機会にとばかり「キャッシュレス化」への弾みをつけようとしてこれを利用しているからだ。スマホなど使ったことにない高齢の低所得者層は「蚊帳の外」である。なんだか矛盾したシステムだ。

スマホなどを利用したキャッシュレス方式は中国や韓国で進んでおり、日本は遅れをとっているということで政府は焦っているらしい。しかしなぜキャッシュレス方式の方がいいのか?現金をやりとりする手間が省けるということがまずあるようだが、そればかりではなさそうだ。一方でMMTが話題になっているように、いま世界の経済は現金がいらなくなる方式の方が都合がいいらしい。

マルクス経済学によれば、貨幣は、商品と商品の交換における相対的価値形態の対極に現れる等価形態の一般的な形として登場したが、それはいわば一つの商品であり、一般的等価を金や銀などという希少金属で物的に表象した「何とでも交換できる商品」という意義を持っていた。

貨幣は古代社会からあったが、これが近代資本主義社会の登場過程である信頼できる機関が発行したことが証明できれば、紙切れでも金貨や銀貨と同じような機能を果たす「紙幣」が登場した。その背景には「信用制度」が普及しだし、手形のような紙切れでもそれがお金に換えられる保証があれば通貨と同様に流通できるようになっていたからだといえるだろう。やがて資本家企業が資金調達のために発行する株券が売り買いされるようになり、ますますこの信用証券が普及した。しかしこれらの紙幣などはあくまでそれが金と交換できるという条件でその信用を保っていた。

ところが、この体制が1930年代の大恐慌を境に危うくなった。その要因は簡単ではないのでここでは書けないが、貨幣の意味が大きく変化してきた。資本家企業同士の競争による商品生産は、市場での需要供給のバランスによってうまく適切な価格に維持される、したがって貨幣の発行量は主として労働力商品の価値である労働賃金を含む商品全体のの流通量と資本の回転に必要な準備金の量によって決まると考えられていたものが、もろくも崩れ去ったのである。

そこでケインズらの助けを借りて資本主義経済体制は大きく変化した。それは一国の政府が貨幣の発行を保証し、これを用いて大機微な公共投資などの経済政策を実施し、雇用を維持しながら、労働賃金を少しずつ上げてゆき、労働者の生活資料商品への購買力を増すことで、商品生産をドライブして行くという、いわゆる「好循環」を生みだす方式である。そのためには貨幣は必ずしも金との交換性を保証されなくとも流通手段として機能するし、それによって政府は貨幣をどんどん発行する自由度を増す。しかしあまりに金の保証のない貨幣を発行しすぎるとインフレが拡大し、経済が破綻するおそれがあるので、この実質的商品流通量を超えた紙幣の発行は国家が発行する国債などによって何とか保証体制を維持させ、これを慎重にコントロールしながら貨幣を発行して行かねばならない。こうして過剰に発行された紙幣を国家が借金によってその保証をカバーし、日本のようにその国債を紙幣の発行元である日銀が買い取ることで補強するというような「だまし絵」的なことが必要となってくる。

このような経済システムを土台として貨幣は国家が保証するものであれば、それが紙であろうとそれ以外のある種の記号であろうと構わないという形の基礎が築かれた。そこから当然、このデジタル化社会の中で仮想通貨という記号による通貨が登場することになったといえる。

しかしこの仮想通貨はこれを保証する機関の信用だけが頼りであって、それが崩れればあっとうまに何も価値のないデジタル記号でしかなくなる。そういう事態がいつどういう形で突然現れるかは誰にも分からない。実に危うい橋を渡っているのである。しかし、この事態は裏を返せば、人間が必要に応じて生みだしたモノの価値はそれを生みだすに要した社会的に平均的な労働時間に比例しているという真理を示す反証でもなるといえるだろう。なぜなら、本来さまざまな分業種によって生みだされるモノはそれぞれそれを必要とする人の手に渡り、消費されるという経済的真理のもとでそれを等価な交換として媒介する手段として貨幣に相当するものは労働時間を保証する証書の様なものであればよく、それは金や銀である必要などないが、同時にある特定の機関(例えば政府や中央銀行)が恣意的に発行する「通貨」や「記号」ではなく、どのような社会にも共通の尺度として通用しうる「モノを生みだすに必要な平均的労働時間」を証明するものであればよいのである。

いまのMMTによる国家機関の恣意的な貨幣発行や特定の企業による仮想通貨の発行が、一方で資本家企業の利潤を維持増大することを第一義的目標として無際限に行われれば、こうした経済原則が失われ、資本家企業がつぶれるだけではなく、そこに「賃金奴隷」として雇用されてる労働者も、自分達が資本家企業における労働によって生みだしたモノが溢れた社会であるにもかかわらず、それが買えずに生活できなくなるのである。しかし他方で、資本家企業の利潤第一主義でやらねば資本主義経済そのものが危うくなるという絶対的矛盾に直面しているといえる。

つまり資本主義経済体制もいまや末期的状態にあり、資本家企業の利潤第一主義を護らないと労働者の雇用も社会保障もできなくなるので、できうる限り法人税を減らし、企業の競争力を付け、その代わり労働者への負担を要求する消費税などにより社会保証などを何とか支えねばならないという馬鹿げた矛盾に直面しており、この危機に対してMMTや仮想通貨にたよる以外に打つ手がないもである。

いま偽りの「社会主義」という名の一党独裁国家資本主義である中国の支配に抗して闘っている香港の若者たちや、やがてそれに触発されて立ち上がるであろう中国の労働者階級や農民たちは、国境を越えた連帯を求めて、資本主義以後の経済体制を目指さなければならなくなるだろう。そこではもうこのような馬鹿げた通貨体制や税制問題は起こりえないだろう。

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