経済・政治・国際

2018年9月20日 (木)

地球規模で拡大する格差社会と大量の難民

 こうした「格差」は日本だけではなく国と国との間でも起きている。いまヨーロッパやアメリカでは中東やアフリカ、そして中米などの国々から大量に流れ込む移民で社会が混乱している。

 ヨーロッパでは東西冷戦終焉後EU圏の拡大で国境が低くなり人々やモノの国境を越えた移動がしやすくなった。そして西ヨーロッパの高度消費社会化した国での労働力不足を補うためトルコや東欧などから多くの人々が西に移り住んだ。これはいわば「許容範囲」であったが、シリア内戦などを機に中東やアフリカから大量の貧困化した難民が流れ込んでくると、EU全体でこれに危機感を持つ国が増え、自国の生活様式や雇用を守るため難民を阻止しようとする動きが急速に拡大した。
 アメリカではかつて世界一の生活水準を誇った自国で高賃金化した生活になじんだ白人労働者たちが、いまその賃金水準ゆえに雇用にありつけなくなり、貧困化していく状況にあって、トランプ大統領が自国の雇用を守るためと称して低賃金でも働く移民労働者の入国を厳しく規制するようになった。
 こうした動きの背景には、東西冷戦後、世界中に進出拡大したグローバル資本がまだ高度に資本主義化されていない国々で、生活資料への出費が少なくても生活できることを理由に労働者を低賃金で雇用し、そこで作り出した生活資料商品を割安で高度資本主義諸国相手の市場に投入することで莫大な利益をあげるようになったことがある。
 こうしたグローバル企業は最初は低賃金労働の確保に走ったが、その結果大量に生み出されたそれらの国々の賃金労働者たちが資本家のもとで生み出した生活資料を購入して生活するようになり、賃金労働者としての均一化した生活のパターンに組み込まれていくようになると、そこを新たな生活資料商品の市場として活用するようになる。
 これまで非資本主義的な国々でその地域社会独自の伝統的生活スタイルで生活していた人々が、オカネがなければ生活して行けない資本主義的生活様式に組み込まれていったのである。そのためそれらの国々の人々はグローバルに均一化された資本主義的生活様式での水準で測られるようになり、グローバルに「貧困化」が可視化されるようになったのである。それによって同じ労働を行っても賃金が何十倍も違う国があるという現実を人々が知るようになったのだ。つまり国際的な格差の現実化である。
 そこに紛争による生命の危機と生活の破壊がやってきて、それらの人々はまともな生活を求めてヨーロッパ諸国にどっと逃れ出ることになったと思われる。
 つまり、高度化した消費主導型資本主義国の内部で拡大した「格差」が生んだ貧困層と、世界レベルで生み出された格差が顕在化させた貧困国の人々との間で「労働力商品」どうしの競争状態を生み出しつつあるといえる。
 本来同じ立場にあって貧困化させられた人々が互いに生活を守るために競争し合い対立し合っているのである。これこそ世界を実質的に支配しこれらの貧困層を生み出してきた張本人であるグローバル資本にとってその事実を覆い隠すにはまことに好都合な状況なのである。
 この問題はおそらく今後より深刻さを増し、国際的生活水準の差と労働力の価格の差がなぜ生じるのかという問題は国々の格差をなくそうとする動きにつながっていくのではないかと思われる。いまこそ「万国の労働者団結せよ!」という言葉がリアルで喫緊な意味を持つのではないだろうか?
 

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「格差」を付けられる人間の能力と価値

 このように均一化された生活とそれを構成する生活消費財の購入に使える収入の差として可視化され差別化される社会は、その社会としての成り立ち自体が格差を生む仕組みになっている。

 そこで働き社会に貢献している人々はその「能力」をオカネで買い取られなければ生活していけない。「能力が高い」とみなされた人は高い賃金で雇われる。だから生活資料の購入により多くのオカネを支出することが出来る。
  ところがこの働く人たちの「能力」を評価する人たちはそれを社会にとって必要度が高いと判断するのではなく、企業に利益をもたらし企業のために貢献してくれる能力が高いとして評価する。つまり働く人たちの「能力」は企業により多くの利益をもたらしくれるかどうかによって決まる。社会にとって必要かどうかはそのための手段でしかない。
  そしてこの「社会にとって必要」という場合の「必要」それ自体も企業によって作為的に生み出されていく。例えば「これからはインターネットとAIが結びついた生活が常識となる」と言われ、そのために必要な能力が「社会にとって必要な能力」とされる。しかしそれは働く人たちの側から発せられた目標ではなく、企業側が利益の増大を図るために描く「次世代社会」のイメージ宣伝によってそういう能力が「売れる」ようになるのだと思い込まされる。
  だから若者たちはそういう能力を養うことを目標として努力を傾けるようになる。その中でこういう能力を身につけられない人たちはますますその存在価値を失って落ちこぼれていく。 こうして「社会的必要」が産業界の主導によって生み出され、その中で労働力の「格差」が拡大していく。
 生活資料を構成するモノたちと同じように働いて生活を営む人々の能力(労働力)自体も商品として価格付けされる。人間としての能力を賃金の差として可視化し人間の価値の差とする社会で、それらの「格差付け」された人々が企業の目的に従って働いて生み出す商品の購入により成り立つ生活がその購買力の「格差」として再生産される。
 しかし働く人たちの能力は企業に利益をもたらすかどうかで格差付けされるようなものではないはずだ。それはどのような内容であれ等しく社会のために必要な労働として質的には平等に判断されるべきであり、その働いた平均的時間の長さによってのみ収入の差が出ることになるはずだ。
 年収何億円もの人気スポーツ選手と、月収25万円たらずで不意の停電が起きないよう毎日汗水流して配電線の補修工事を行っている人たちの、いったいどちらが社会的な必要度が大きいといえるのか?
 そうした、いわれなき能力の格差がどうしてその生活内容自体の「格差」にならなければならないのか?人間の能力は商品ではない。だからそれに価値付けなどできるはずもないのだ。

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「格差」とはなんだろう?

 いま社会的格差が問題となっている。「差別」は、性差別、障がいによる差別などさまざまな内容を含む問題であるが、「格差」という場合には収入の差による生活水準の差を指すことがほとんどである。

 しかし、「格差」が何で最近特に問題になっているのだろう?それは次の様なことではないかと思われる。
 「格差」が問題となるのは、それを比較する「格」の基準があるはずだ。例えば収入の差といっても収入が少なくても質的に高い生活が保たれていればそれは「格差」とはいえないだろう。「格差」が問題になるには質的に同じ内容の生活があって、それをある基準で「水準」として判断できなければならない。
 昔はそもそも人々の生活の質が同じ基準では測れない形だった。例えば農民や職人の生活ではそれなりの仕事や生活の質とそれに対するプライドがあり、武士階級の生活とは同じ基準では比較できない。しかし皮肉にもこうした「目に見える階級社会」が崩壊し、誰もが自分の能力を発揮する機会を与えられ、 自由な競争を通じて自分の生活の向上を図れる(ように見える)社会が生まれたために、逆に生活の格差が顕在化したといえる。
 
 いまこの社会で生活する人々の生活資料はすべて商品として量産化された同じようなモノによって構成され、労働者を雇用する企業も「自由競争」の原則に従って市場の動向から見て人気の出そうな商品ばかりを市場に送り出す。だから市場には似たような商品ばかり並ぶようになる。
 その中で「生活の質」がどんどん均一化され、同質化される。例えば同じようなデザインの家や部屋に住み、同じような家具や調理器具に囲まれ、同じような食べ物を食べ、TVや新聞を通じて同じような情報が流れ込み、同じようなスマホで会話をやりとりし、ストレス解消にゲームをやる。休日にはすでに観光娯楽産業の広告でメニュー化されているレジャーに浸る。一日24時間、1週7日間、ずっと繰り返される生活のパターンや生活を構成する部分や内容が均一化されているのだ。だから少し収入が増えるとこの均一化された生活を「差別化」しようと高価な商品を買って生活にリッチ感を採り入れようとする。そこで企業は意図的に供給量を限定したり高級イメージのブランド商品などによる「高付加価値商品」で平均より高い市場価格での利益を得ることができる。
  もちろん「均一化」は「単純化」とは同じでない。旧社会でのシンプルな生活形態はその社会の生産技術の未発達によるものだが、現代生活の「均一化」は生産技術が高度で多様な生産物を生み出せる技術を擁しているにも拘わらずそれが「均一化」されているのだ。
 
 このような均一化された生活形態を維持するために購入される生活資料の総額の差によって「生活水準の差」が分かれ、その段階が「格差」となって現れる。そしてそのために必要な収入の差が客観的な「格差」の指標となる。
 そして人々は雇用の機会を求めて都会に集中し、地方は疲弊して行く。そのため地方文化は滅び、都市中心の均一化された「サラリーマン文化」が社会を支配していく。やがてリッチになった一部の都会の人々や外国人を相手に疲弊した地方文化を観光収入の手段として再復活しようとする。しかしそれはいわば「フェイク」な地方文化でしかなく、結局都会の均一化された「サラリーマン文化」にあきあきした人々の心を癒やす補完物でしかなくなる。
 こうして生活の質が均一化されるに従って「格差」は目に見える形となり、生活を構成するモノ(生活資料)を購買できる度合いを表す収入の差がその差を図る基準となっていく。
 ではなぜ「自由平等」と言われる社会で「格差」が拡がっていくのか?
これについてはこの「自由平等社会」を支える経済的土台の問題を考えなければならない。
(次回に続く)

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2018年9月10日 (月)

ヨーロッパにおける「反リベラル派」の複雑な様相

 日本ではそれほど深刻な問題になっていないが、ヨーロッパでは中東の紛争地から逃れてくる大量の移民に対して拒否反応が強くなっている。人道的見地から移民を受け入れることを主張するのが「リベラル」で、これに真っ向から反対して移民排斥を主張するのが「極右」であるという単純な図式を考えやすい。

 「リベラル」派は「人道的見地」という普遍的な原則をそのまま現実に適用しようとしているが、実際に長年築かれてきたその土地の生活文化や人間的結びつきのあり方に、それと全く違う背景を持った人たちが大量にやってきて生活を始めれば、誰しもが違和感や危機感を持つだろう。だから「リベラル」派の主張に違和感を持つ人々が移民排斥を主張する人々に共感を持つのは当然ともいえる。

 しかし、移民排斥グループの中身は「極右」として片付けるにはあまりに複雑である。確かにこのグループには「ネオナチ」の様な本物の「極右」もいるが、ヨーロッパの人々はあの第2次大戦に至ったファシズムのもたらした結果を身体で知っており、ドイツ人などはその反省から来る「痛み」をずっと引きずってきた。だからそう簡単に本物の「極右」が政治的主導権を握るとは思えない。
 一方で移民排斥グループの中には、グローバル資本による経済と生活文化の世界支配に対する大きな危機感を持ち、それに対するもう一つの選択肢としてセルジュ・ラトゥーシュに代表されるような「ローカリズム」を標榜するグループがある。このグループの人たちはグローバル資本の支配に危機感を感じており、資本主義社会の経済成長至上主義に対抗して「成長なき社会発展」を目指してローカルな自治・自尊の社会を掲げ、地産地消、ローカル通貨、商品販売ではなく贈与による交換などを主張している。またステファーノ・バルトリーにらが主張する「コモンズ」と呼ばれる社会共有財の拡大にもとづく人間的結びつきを重視するグループによる社会提案なども実際に試みられている。
 こうしたローカリズムや社会共有財の重視などはかつてのファシズム的民族・国家主義とは異なる新たな潮流であり、19世紀のトマス・モアやラスキン、モリスなどのユートピア思想にも似た内容を持ったものとも考えられる。そしてこうした人たちが移民排斥の主張に共感を持っているのである。
 こうした潮流をどうとらえるかという問題はあらたな課題であるが、一方で戦後のヨーロッパにおける政治的「左派」の歴史においては、ヨーロッパの社会主義および共産主義運動の戦後の流れの中で、ソ連圏に代表される「社会主義国家」の一党独裁的国家主導型経済と生活に拒絶感が強く、ケインズ型資本主義とほとんど区別の付かない「社会民主主義」や「ユーロ・コミュニズム」という流れを生み出した。
 この流れは、他方でソ連型「社会主義国家」をマルクスの思想そのもととして扱い、社会主義イコール「全体主義」「自由のない国」という烙印を押してきた右派政党の流れに対抗し、平等な社会、自由な個人、といった普遍性を旨とする「リベラル」派の流れの一部を作ってきたと考えられる。
 しかしこの「リベラル」派は資本主義社会の本質的矛盾を認識していなかった。そのため、「社会主義」圏が崩壊し、「社会主義国」を自称する中国が資本主義的市場経済を導入して、一躍グローバル資本の仲間入りをする事態に対してなすすべもなく、資本主義経済を普遍的経済システムとして受け入れた上で、市民主義的「リベラル」を主張する形になっていったと考えられる。
 この中途半端な「リベラル」派の考え方がグローバル資本主義のもたらす過酷な現実に対応しきれなくなったのだと思う。そしてそれに対する人々の反発がさまざまな主張を内部に持ちながら「移民排斥」という直反発的反応として現れているのではないかと思う。
 これを「リベラル」と「極右」の対立として単純にとらえること自体非常に危険である。むしろ「リベラル」の矛盾を「左」と「右」から突く反応といえ、これを「極右」と烙印を押す前に、いまの「社会主義国家」の矛盾やリベラル派の矛盾をキチンと把握するためにもう一度資本主義経済システムの本質的矛盾について真摯にとらえなおしていく必要があるのではないだろうか?そのためには「資本論」をキチンと読んで理解することが必要なのではないか?

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2018年9月 9日 (日)

「災害立国」日本での長期的防災政策の不在

 今朝のNHK-TV日曜討論で、最近度重なる自然災害に見舞われた日本の現状とそれに対する防災の問題が討論されていた。顔ぶれは大学の研究者、企業の経済研究所や公的援助機構の人、そして行政側からの人であった。

 いつもの政治家たちの様な政治的駆け引きを交えた論議と違って、真摯な討論だったと感じた。
 しかしその中でいくつか重大な問題があまり深く討論されていなかったのが気になった。それは次の様な問題である。
(1)電気、水道などの基盤インフラが経済的効率化のため中央集中型になっていることによるリスク集中化と局所的災害が広域へ一気に拡大するという問題。
(2)人口の大都市集中化による災害非難の問題。例えば東京の数百万の人が住む海抜ゼロメートル地帯からの非難の困難さと災害後の復旧の問題。
(3)「自分の身は自分で守る」自助努力の推奨と、単身高齢者の増加とその救助の問題の間の矛盾。
(4)国家の財政難を理由とした防災予算削減と急増する自然災害の「人災化」の問題。
などである。
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(1)は北海道の苫東厚真火力発電所の地震による停止が一気に全道の停電を引き起こした問題がきっかけであるが、東日本大震災での福島原発停止による首都圏での「計画停電」の問題もあった。完全電化やIoTなどによる便利で「スマートな」生活が大企業の宣伝でどんどん進んだが、それがかえって電気に頼りすぎる生活を生み、肝心の電源インフラの不全が問題となってきたのだ。また関空の高潮による水没もあの埋め立て地に空港を作ればこうした問題がいずれは起こることが分かっていたはずだ。なのに経済的な「費用対効果」の観点からこれがおろそかにされてきた。これは民間企業による開発競争で政府が巨額の公共投資をしなくてもインフラが出来ていくという「新自由主義」的政策の必然の結果であるといえるだろう。
(2)は、すでに何十年も前から言われていることで、地方は過疎化と高齢化が進んでいる一方で働き手が仕事を求めてどんどん大都市圏へ集中し、大都市人口集中化が進むことで、当然リスクの増大が問題になる。なぜこのような社会的アンバランスが起きるのか?これに根本的な手を打たねばこの先どうなるのか?このような分かりきった問題になぜ政府がもっと真剣な長期的計画を立てられなかったのかが大問題だ。
(3)「自助努力」の推奨は東日本大震災以来、「つなみてんでんこ」という古い言い伝えから学ぼうということで広められたが、その一方で独り暮らしの高齢者が増える地方や地域ではこの言い伝えは通用しない。コミュニティーが崩壊していく中で、「自助努力」が強調され、また行政からは「人手が足りなくなっていくので住民の自助努力が必要」と言われるのでは、あたかも「高齢者は災害でどんどん死んでくれて助かるのだ」とも言わんばかりに聞こえる。
(4)一方で「イージスアショア」など「仮想敵国」の攻撃に備えるなどと強調し、アメリカの軍需産業から法外な価格での兵器や軍事設備を買わされることに国家予算が割かれ、必ずやってくる大災害への長期的備えがまったくおろそかになっている(アメリカやイギリスでは防災予算が倍増しているのに日本では減らされている)という現状に、現政権を支持する人たちはどう考えるのだろうか?これはヨーロッパなどに比べて自然災害がダントツに多い日本での自然災害をよりひどい形で「人災化」させることになるのではないか?
 アベノミクス1だか2だか知らないが、その経済成長至上主義の結果はこうした国家的最重要課題に少しも生かされていない。
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政府御用マスコミのNHKの討論会ではこのような深い問題の討論を期待するのは間違えだろうと思うが。

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2018年9月 7日 (金)

「災害立国?」のための予算編成を

 大雨、洪水、台風、地震と今年の夏は災害オンパレードだった。その中で亡くなられたり、生活を破壊されてしまった人たちは本当にお気の毒だし、どこに怒りをぶっつけてよいのかも分からず鬱屈した日々を送られているのではないだろうか?

 日本はもともと災害の多い国で、そのことは歴史を紐解いてみるまでもない。しかし、このことがまた逆に地域の助け合いや結束力を強める力となっており、それが我らのパワーの源の一つにもなっていると思う。だからここで敢えて「災害立国」と言っておこうと思う。
 しかしこの「災害立国」においては繰り返される災害がどれほど教訓化されているのだろうかと首を傾げたくなる。例えば東日本大震災は「想定外」とされ、想定を超えた津波で原発が停止、冷却不能に陥り、メルトダウンした。その被害は甚大なものだった。それなのに、その後誕生した安倍政権は、原発を主要な電力供給源として維持し、40年を目途に今後も運用を続ける意志を表明した。しかし原発が廃炉となったとき、その後始末の目途はたっていない。廃炉に30年かけても核廃棄物の処理はまったく見通しが立っていない。なぜ50年先を見通した、原発に代わるエネルギー供給源の開発に力を注がないのか?
 事実今回の北海道での地震の際、苫東厚真火力発電所が発電不能に陥り全道が停電したときに、泊原発の電源が停止した。しかし緊急用ディーゼル発電機による冷却電源の維持は危うい橋渡りだったようだ。一歩間違えば、稼働停止中といえども核燃料の冷却が止まればやがて臨界を超えて大変なことになりかねない。
 この地震も「想定外」ということで片付けるのだろうか?わが「災害立国」には想定外などあってはいけないのだ。いつか必ずやってくる大災害に国家予算を十分に割くこともせず、妄想とも思える「仮想敵国」からの攻撃に備えたイージスアショアなどに莫大な国家予算を割いている。
 今年度何兆円も増額された防衛費に比べて確実視される南海トラフ地震などの巨大災害への準備に割く予算は少なすぎるのではないか?むしろこの増額される防衛予算のすべてを災害準備予算に回すべきなのではないのか?
 一方でアベノミクスによる円安でがっぽり儲けたグローバル資本の企業は内部留保が400兆円を超えるらしい。ただでさえ家計の苦しい働く人たちから消費税の増額であらたな税を搾り取るのではなく、 こうした企業こそ「災害立国」の政府に巨額の税を納め、災害準備予算の増額に寄与しなければいけないのではないか?

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2018年9月 3日 (月)

安部「自衛隊最高指揮官」の改憲を見据えた新防衛体制構想の愚

 以下はWebの時事新報ニュースの一部からの引用である。
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 安倍首相は3日午前、防衛省で開催された自衛隊高級幹部会同で訓示した。自衛隊違憲論を念頭に、首相は「自衛隊の最高指揮官としてじくじたる思いだ」と強調。「全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整えることは今を生きる政治家の責任だ」と述べた。 首相は、憲法9条に自衛隊の規定を明記することについて、自衛隊幹部の前で改めて意欲を示した。 年末に策定する新たな防衛大綱に関しては、「宇宙、サイバー、電磁波といった新たな領域を横断的に活用した防衛態勢への変革はもはや待ったなし」と指摘。「真に必要な防衛力のあるべき姿についてこれまでの延長線上ではなく、大局観ある大胆な発想で考え抜いてほしい」と語った。
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 まるで戦争中の東条内閣の演説を聴くようだ。つい最近、トランプ大統領が「アメリカ宇宙軍」を創設するとブチ上げて世界中からヒンシュクをかったばかりである。つまり安部防衛政策は憲法改定正当化のためのトランプ構想の日本版焼き直しに過ぎないといえるだろう。
 この安部防衛政策のために何兆円もの防衛予算が計上されその分われわれの生活に必要なさまざまな社会的共有財としての予算が減らされる。防衛産業の資本家たちはこの予算で資本を膨らませながら、「お国をまもるために頑張っている」と吹聴するだろう。
 一方で北朝鮮ではもはや核ミサイル開発に莫大な軍事予算をかけてアメリカと対抗するよりは国内の経済の立て直しが急務らしい。中国は経済的にも軍事的にもアメリカに対抗すべく着々と軍備を拡大しているが、これは対外的な中国脅威論に火をつけることで中国の孤立化を招きかねない。アメリカとて同じだろう。トランプの「宇宙軍」創設は対外的に軍事的脅威を増大させることになり、そのことがアメリカの人々の生活に大きな圧迫を強いることになるだろう。
 いまや際限のない核開発や軍拡を「抑止力」と考える戦略は根本的に間違っていることに世界中の人々は気がつき始めている。
 そんな中で、独り安部首相兼「自衛隊最高指揮官」は軍拡こそが「国を守る」手立てといまだに信じているらしい。困ったもんだ、この能なしは!

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2018年8月31日 (金)

アメリカ的ボトムアップ社会対中国的トップダウン社会の対決なのか?

 2008年の金融危機で明白となった新自由主義的市場経済の矛盾、つまり借金をさせてまでどんどん消費を増やし、それによって「自由市場」の主人公である金融資本が信用破綻を来して危機に陥るという形で典型的に現れている矛盾は、その後アメリカを中心とした世界資本主義経済秩序を混乱に陥れていった。

  アメリカではオバマ大統領が「リベラル派」と言われる有色人種の多い下層中間層や西岸地帯のIT関連新興資本家たちを中心としたグループの支持を得てこの危機を乗り切ろうとしたが共和党の反撃にあって頓挫し、日本ではこの不況に乗じて民主党が政権を取ったが、その後、その政策のいい加減さが東日本大震災によって白日に晒され、自民公明政権に取って代わられた。この混乱は「民主政治」の特徴であるともいえる。
 一方で中国は着々と混乱の少ない一党独裁のトップダウン政権の強化が図られ、効率の悪い「民主政治」と異なるトップダウン経済体制が進められた。
 しかしここでアメリカ的「自由主義」がボトムアップで、中国式一党独裁政治がトップダウンであるという単純な図式を考えるのは早計である。
 アメリカや日本などのいわゆる「民主主義政治」では、人々は単に投票で代議員を選んでその代議員たちが所属する政党同士の数の多さで議会での決定を出すというスタイルで法律が決められ、それに従って官僚たちがその法律を執行していくという形を採っており、これが本来のボトムアップではないことは確かである。
  代議員の所属する政党は多額の政治資金を企業から受け取り、国の経済的基盤を形成している大資本企業の存続発展を前提として「国民経済」を考える。そこでの「革新派」と「保守派」の論争や意見の違いは、すべてこの前提の上で成され、相互補完的関係にある。そしてこれらの政策や法律を実行する官僚や公務員はエリートたちである。そこではその社会で働き現場で社会を支えている人々の考え方や要求はこの前提を崩さない限りでしか受け入れられない。言い換えれば労働者民主主義ではなく大資本民主主義なのである。だからこれらの国々では働く人たちの自殺者は増加しつづけ、結婚して子どもを持つ動機が失われ、社会の未来に希望を描けない状態になっている。これは決して本来のボトムアップ社会ではない!
 一方で中国の様な一党独裁制をとる「社会主義国」での政治はまさしくトップダウンであるが、その経済基盤は資本主義市場経済そのものである。ここではアメリカ、ヨーロッパ、日本などの大資本からどんどん投資させその資本で安い労働賃金のもとでどんどん利潤を増やし、経済は成長する。やがてそれらの利潤は中国内から新たな資本家を育て上げ、その中国資本がやがて世界市場を席巻するような大資本になっていった。この間わずか四半世紀のことであり非常に効率の高い資本主義経済体制である。いわば「超国家独占資本主義」ともいうべき体制であろう。ここでは西欧の大資本自由経済を効率よく取り込み中国資本がやがて世界資本主義市場を制覇し、政治的にも「オカネ」に物を言わせて世界制覇を狙おうという様相である。
 しかしこのおそるべき「超国家独占資本主義」体制の「社会主義国」で働く労働者や農民は資本主義社会よりも過酷な状況に置かれている。「労働者農自身による政治(人民民主主義)」を看板としたこの国でこの有様である。本来ボトムアップであるはずの社会で超トップダウンの政治経済が行われているのである!
 いまや「ポピュリズム」がこれらの矛盾に対抗する一大勢力になりつつあるが、「ポピュリズム」で自国第1主義を叫ぶ人々が忘れている重大な事実がある。それは世界が「グローバル経済化」したいま、世界中の国々で働いて世界中の人々に必要なモノを生み出している労働者がいなければ自国の経済は成り立たず、分断された国々では生活に必要なモノも手に入らなくなるということだ。
 本当のボトムアップ社会はいまや世界レベルでのこうした働く人々の連携なしにはあり得ない。
「万国の労働者団結せよ!」 ポピュリストたちはそのことをキモに銘じておくべきだろう。

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2018年8月12日 (日)

アミラ・ハスというイスラエル人女性ジャーナリストの生き方

 以前NHKTVの海外ドキュメンタリー番組で、アミラ・ハスというイスラエル人女性ジャーナリストの生活が放映されていた。彼女はイスラエル人であるにも拘わらず、パレスチナに住み続け、イスラエルが行っているパレスチナへの暴力的行為を世界に報告し続けている。

 当然、危ない目にも遭っているし、パレスチナ人からはイスラエルのスパイではないかと疑われたりする。それでも彼女は真実を伝えるために頑張っているのである。
  戦後パレスチナ人が住む地域に戦勝国であるアメリカやイギリスの後押しで、自分たちの国を作ったイスラエルはそれに反抗するパレスチナ人たちへの「防御」を名目とした敵対行為を繰り返しながら、かつての第2次大戦中のナチによるホローコーストを盾に、虐げられたユダヤ人というイメージを逆手に取って、ヨーロッパ諸国やアメリカがあまり反対行動を取れない状況を利用して、強大な軍事力を養ってパレスチナへの侵略行為を続けてきた。それに対してパレスチナの悲惨な状況への人道的見地から何とかイスラエルの行動へのブレーキをかけようとする国際的な力が働き、一時は和平合意が成立するかのように見えた。しかし再びイスラエル側の民族主義的ネタニヤフ政権によってそのバランスが失われて行ったのである。
 さらにいまシリアでの独裁政権に反対する勢力が起こした反乱による混乱状態を利用してISやイラン、トルコ、そしてロシアなどが絡む複雑な戦乱状況になり、多くの犠牲者が出ている中で、アメリカのユダヤ系資本家達をバックに持ったトランプが大統領となりイランと対立するイスラエルへの強力な支持を表明したため、パレスチナは再びイスラエルの過酷な敵対行為に晒されている。
 そんな中での勇気あるアミラ・ハスの生き方に私は大きな感銘を受けた。
(一部削除しました)
 ただひたすら、自分の政権を護り、「ニッポンを取り戻す」と豪語し憲法改定と軍事力の増強にひた走り広島や長崎の長年の希求であるにもかかわらず核保有禁止条約に加盟せずわれわれ日本人の未来への展望と希望を奪っていくような政治しかできない人物がいまなお35%もの支持率を維持しているこの国は一体どうなっているのだろう?
日本ではアミラ・ハスの様な勇気ある偉大な生き方のできる人物は現れないのだろうか?

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2018年8月 9日 (木)

翁長知事急逝をめぐって

 辺野古への新滑走路建設に反対していた沖縄の翁長知事が急逝した。あまりに急だったので信じられないくらいだった。普天間が町中の基地で米軍機の事故が絶えなかったこともあり、反対運動が盛り上がっていたが、政府はこれを普天間での危険な状態を解消するために比較的人口の少ない辺野古に新しい基地と滑走路をつくることでこの問題を解決するしかないと強調し、前沖縄知事の仲井真氏を巧みに抱き込んでこれを了承させたのだった。

その後知事となった翁長氏は沖縄の本当の心を読み取り、そもそも不当に重い基地負担をなぜ戦争で原爆被爆地とならんでもっとも悲惨な惨禍を受けた沖縄が負い続けなければならないのか、という問題に焦点をおいて、これに反対した。
沖縄では、基地によって経済的に潤う人たちも多く、こう言う人たちは、基地反対運動に背を向けている。しかし、どこでも支配層の常套手段として使われる手はこの「金目の話」なのであり、原発でも核廃棄物貯蔵所でも軍事基地でも本来は作らせたくないものを上からの意向で作ることになったとき、それによって経済的に潤う人たちが増えれば、その上からの意向に反対できなくなるのである。それはほとんどの場合、そうした「本来は作らせたくないもの」を作る場所が比較的に経済的に豊でない地域が選ばれるのもそのせいでもある。政府はそれを知ってその計画を練るのである。
 翁長さんはそうした状況に反旗をひるがえし続けた。そして思いなかばで亡くなってしまったのである。
 政府は内心ではほくそ笑んでいることだろう。これで次の知事選には勝てるぞ!と思っていることだろう。
 しかし長い歴史の中で考えればいまの政府のやっていることはまったく歴史の流れに逆らうことであり、今後何十年か経てば、なんと馬鹿げたことをやっていた政府だろう、という評価を受けるに違いない。

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