経済・政治・国際

2018年5月 7日 (月)

中国深圳の「三和人材市場」という労働力市場

 昨夜NHK-BSTVで中国深圳市にある「三和人材市場」のドキュメンタリーが放映されていた。深圳は人口1200万で「世界の工場」といわれる中国を代表するハイテク企業などが建ち並んでいる大都会であるが、そこに地方の農村部から仕事探しに集まってくる若者が多い。彼らがまず行く先がこの「三和人材市場」らしい。ここでは民間の人材斡旋業者がたくさん集まっており、さまざまな企業からの求人を斡旋している。

 しかし、地方から来る若者達は学歴もなく一時仕事で稼ぐしかない。長期の雇用もあるがどれも労働条件は厳しく、12時間近い単純労働であったり、いわゆる「3K(危険、きつい、きたない)」であったりするので、大抵はすぐに止めてしまう。そして短期の仕事を求めてその日暮らしをするようになる。この人材市場の近くに住み着いている若者達がおり、彼らは路上やネットカフェなどを泊まり歩き、ヴァーチャルなゲームやギャンブルに耽っており、カネがなくなると短期の仕事を求めて市場に出向く。こういう人たちを「三和ゴッド」というのだそうだ。
 3人の「三和ゴッド」への取材では、いずれも地方で農村が疲弊して食べていけないし、高等教育を受けるカネもなく何の技術も身についていないので都会に仕事の機会を求めてきたが結局こんな生活に落ちてしまった。もうこの状態から抜け出すことはできないだろう、と自嘲的に語っていた。
  彼らの一人はオカネが欲しくて自分の身分証明書をある男に売ってしまった。ところがその男は自分の身分証明を使っていくつもの会社を立ち上げ、1億2千万もの収入を得るまでのお金持ちになってしまった。彼は「オレは日当1500元の賃金で日雇い仕事をやって食いつないでおり、苦しいのでとても安くその男にオレの身分証明書を売ってしまった。いまオレの名前を騙ってそんなぼろ儲けしているなんて我慢がならない。200万位払ってもいいだろうといってやりたい!」と息巻いていた。
 こうした若者の中にはもう都会に見切りを付けて故郷の農村に帰って貧困の中でなんとか生き延びようとする者もいた。
 また、別の若者は地方の農業大学まで出たが、やはり仕事がなく都会に出てきたが、やはりまともな仕事に就くことができず路上生活者となっている。しかし何とかこの状態を抜け出したいと語っていた。
 またある中年の男は若いとき地方の農村から出稼ぎに来て、苦労して働いた結果、いまでは深圳で飲食店を持つところまでやり上げ、子どもも生まれたが、その子どもを学校に入れることができない。なぜなら、中国では農村戸籍の人は都市で戸籍を持つことができず、戸籍がなければ学校にも入れないからだ。
 中国では「改革開放政策」以来、高度経済成長の中で成功したいわゆる「新富裕層」といわれる人々が増えており、お金持ちになった彼らは、例えば日本などに来て高級家電製品などを「爆買い」していく。しかしその一方ではこうした貧困層も増えており、その「格差」はますます広がりつつある。
 中国は「社会主義」の看板を掲げながら、現実には労働者から労働を搾取して成長する資本家的企業を国家が育てているのである。この実状を見ると、これはまったく「スーパー資本主義社会」とでもいうべき社会である。「社会主義」と名乗るのは、共産党が独裁政権を握っているからであり、それによっていわばグローバル市場の中で「普通の資本主義国」よりもはるかに効率よくトップダウン体制で資本の集中化を進めているように見える。そして労働者階級や農民はその最大の犠牲者であるといえるだろう。
 ところが先日TVのニュースで、今年はマルクス生誕200年なので、マルクスの生まれ故郷であるドイツのトリーアという街に中国がドイツとの友好を示すためにマルクスの巨大な像を寄贈したのだそうだ。
 マルクスはあの世で多分怒り心頭に達しているに違いない。「誰がこんな超資本主義の国を「社会主義」だ等と呼ぶのだ!私の目指す共産主義社会とはまるで180度も違う社会を「社会主義」だなどという連中が私の像を生まれ故郷に寄贈してグローバル資本の仲間入りをさせてもらうなんて魂胆は絶対に許せん!!」 きっとこう言うに違いない。
 「アメリカ・ファースト」を叫び中国を「経済的脅威」と位置づけるトランプ大統領を熱狂的に支持するアメリカ「ラストベルト」の労働者たちはこうした中国の労働者の現実を知るべきだろう。本当に闘うべき相手は彼らと「共通の敵」なのではないのか?

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2018年5月 5日 (土)

「ベーシック・インカム」をめぐる論議の致命的盲点

 今朝のNHK-BSTVで海外の論者を中心にした「ベーシック・インカム」に関するディスカッションが放映されていた。「ベーシック・インカム」とは、この討論会にも出席していたロンドン大学のスタンディング教授が1980年代から主張してきた考え方で、すべての人に生活に最低限必要な費用を「ベーシック・インカム」として与えるというシンプルなアイデアである。

 生活保護制度などではその基準の判断が難しく、しかも詐称による受給などが絶えないので、一括してすべての人を対象にすれば問題はなくなるというわけらしい。
 しかし、当然その財源はどこから得るのか?という話になる。同じイギリスのロンドンカレッジ・オブ・エコノミーの先生は富裕層に高額な課税を課すべきだと主張するが、スタンディング教授はイギリスの場合はいまの税制での無駄を是正すればそんなことをしなくても済むと主張していた。
 一方で日本のみずほフィナンシャルのトップは、そんなことをしては労働者が働く意欲を失う。すべての人に「結果」として一律インカムを与えるのではなく、子どもへの教育費補助や働き方改革などで「機会」の均等化を考える方がよいと主張する。
 もうひとりのアメリカのベンチャー企業のCEOは、一番問題なのはいまAI技術が急速に進歩して、やがて労働者の仕事の大半がロボットなどに置き換えられてしまうだろうということだ。これによって仕事がなくなる労働者が増えるので「ベーシック・インカム」が必要になると考えるべきではなく、むしろ人間がやるべき本来の仕事がはっきりしてくるので、労働の形態全体が大きく変化するだろう。すべての人に一律な収入を与えることは、自助努力の意欲を削いでしまうが、そうではなくこうした新たな労働形態の中で自分の可能性を見つけていくようにすることが大切だ、と主張する。
 このようなディスカッションを見ていてもっとも気になったのは、ここに出席している人たちがすべて労働者の立場を「上から目線」で「救済の対象」として見ていることだった。なぜこの場に労働者の代表が出ていないのか?これが「中立的立場」を主張するNHKだからなのか?
 とにかく、この「ベーシック・インカム」の話は労働者階級の立場からすればずいぶん馬鹿にしている話だといわれても仕方ない。
 なぜならば、世界の富の90%以上が一握りの富裕層に握られており、いま「富の再分配の仕組み」が破壊されていることが問題なのだとする共通認識が出席していた論者達の間にありながら、そもそも「富の再配分」を云々するなら、その富は一体誰が生み出した富なのか?が問われていないのである。
  世界中であらゆる国の労働者たちが日々営々と働いて生み出している莫大な富を、資本主義社会の仕組みが当たり前のようにそれら労働者を雇用して労働力を「富の拡大」のために惜しみなく使っている人々に吸収させ、その富の私的所有権を合法的に認め、その上でそれをいかに資本家同士で分け合うかを決める経済システムや法制度があり、労働者は単に富を生み出すために必須な道具としてその存続を認められているという矛盾に充ちた社会の中で、資本家の「貧者への施し」に過ぎない「ベーシック・インカム」をあたかも「富の再配分」であるかのように論じる立場は根本的に間違っている。
 こうした現実を問題にすることなく、「富の再配分としてのベーシック・インカム」を論じ、「働く意欲」だの「自助努力」だのを問題にするということ自体が如何に「上から目線」であるかを知るべきではないのか?

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2018年4月16日 (月)

どこまでが真実なのか? シリアの化学兵器使用問題をめぐって

 シリアの内戦で反政府側の立てこもる地域に政府側が化学兵器を使用したというニュースが世界中を駆け巡り、この攻撃で多数の子供を含むその地区の人々が犠牲になったようだ。  これに対してアメリカ、イギリス、フランスなどがすぐさま反応し、トランプ大統領は戦争犯罪に対する報復としてシリアを軍事攻撃すると言い放った。しかしその後シリア政府を軍事的に支援するロシアがでっち上げだと言い出し、アメリカはそれを否定すべく何らかの証拠を得るまでと称してほんの少し時間を置いたのち、101発のミサイルをシリアの軍事基地に打ち込んだ。ロシアはこれを侵略行為だと避難し、中国もこれに同調した。そして日本の政府はいつものように何の疑いもなくアメリカを支持した。

 誰かが本当のことを言っているが誰かが確実に嘘をついている。

  まずシリアがロシアの支援で反体制側にほとんど圧倒的に勝利し最終局面を迎えていた段階で、なぜ化学兵器を使用するというリスクを取る必要があったのか?という疑問である。化学兵器を使用すればその事実はすぐにバレてしまう。それなのになぜ敢えて?という疑問だ。

  もう一つはその明確な証拠があると言われながら欧米側からもはっきりとそれが示されていないことだ。

 ところがその後、この化学兵器は北朝鮮が関与しているようだというニュースがNHKなどからが流れた。その根拠として、かなり前から互いに欧米諸国から孤立させられている北朝鮮とシリアは親交を深め、シリアは北朝鮮から多くの軍事技術の売り込みを受け入れ、化学兵器の製造装置も取り入れたとされる、という事実が挙げられていた。
  しかしなぜ今それを取り上げるのか?そしてなぜ米朝会談が迫るこの時期にそのようなことを北朝鮮が許すのか?という疑問である。
 ひょっとすると この北朝鮮関与説は米朝会談が不成功に終わることを望んだ誰かが仕組んだワナなのかもしれない。それは誰か?アメリカやイギリスは米朝会談をぶち壊そうとは思わないだろう。 中国もそうは思っていないだろう。米朝会談で何らかの成果があれば、事前に電撃的な中朝会談を行ったキムに対して中国の威光を示せるし、その後の朝鮮半島非核化にも大きな影響力を維持できるからだ。
 あくまで憶測に過ぎないが、例えばインテリジェント作戦が巧みなロシアのプーチン大統領かもしれない。 ロシアはもしこのまま米朝会談がうまく進行し、南北朝鮮が平和条約でも結ぶようになれば、北朝鮮の核開発技術を裏で援助してきたと思われるロシアの立場がなくなるし、今後の北東アジアでのロシアの影響力は中国よりはるかに小さなものになってしまうからだ。
 真相は?こうした大国間の思惑と騙し合いは大国間のかけひきにはつきものらしい。しかし今やフェイクニュースがどんどん捏造されるような世の中で、何が本当なのか全く分からない時代なってしまった。トランプ大統領は自分に都合の悪いニュースが現れれば、それはフェイクだ!と吐き棄てる、たとえそれが真実であってもだ。
 そしてこうしたTVのニュースが終わればそのあとにお笑いタレントの生番組やグルメ番組が始まり、人々はその中に吸い込まれ、ニュースのことなど忘れてしまう。
  そのはざまでいたいけなシリアの子供達がどんどん死んでいく。そして誰もそれを救えない。何という悲しいことだ!
  一体なんという世の中なんだろう!!

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2018年4月 5日 (木)

米中「貿易戦争」の背景を考える

 北朝鮮問題では一触即発という危ない状態に至ったため、共同で北に核開発を止めるよう経済制裁で圧力をかけることで一致したが、その後、北と韓国が平昌オリンピックをきっかけに急速に融和ムードに入り、中国もこれに同調すると見るや、自分の存在の影が薄くなってきたトランプが「自国の貿易損失を改善するために」と中国からの鉄鋼などに高い関税をかけると言い出した。その後も知的所有権問題に関わるハイテク製品に高い関税をかけると言っている。

 するとこれに対抗して中国もアメリカからの輸入に報復として農作物などに高額の関税をかけると言い出した。あたかも米中貿易戦争という眺めになってきた。
 しかし考えてみれば、今世紀はじめに中国からの低賃金労働による格安製品が世界市場になだれ込み、いわゆる「価格破壊」をもたらし、「先進諸国」の生活消費財市場はある種の「革命」が起きた。そしてその後、中国はあらゆる分野で世界市場を席巻し、あっという間に日本を抜いて世界第2位の「経済大国」になったのであって、中国の急速な「経済成長」は一方でいわゆる国際的な「生活水準」の違いを国内的には温存しつつ、対外的には「一つの市場」となった世界市場でその生活水準の差を利用して稼いできたのである。
 その結果、「先進諸国」の労働者階級は賃金が変わらなくても格安生活消費財の登場で生活費は下がり実質賃金はその分上るかに思えたが、逆に「最低生活」を余儀なくされる非正規労働者など下層労働者は必要最小限の生活資料の価格が下がったためかえって賃金が低下した。
  そしていわゆる中間層は、生活消費財以外の生活必要経費(例えば高等教育費)が上昇し、結局実質生活必要経費がどんどん上昇して行った。そのため例えわずかに賃金が上昇しても相変わらず生活には余裕がない。このため社会の中間層や上層部に行けるための教育資金などを支出できる一部の高給労働者はどんどん上層への階段を登って行け、それができなくなった中間層は「下層」への没落を余儀なくされた。結果として「先進諸国」の中間層における「格差拡大」を加速していったと考えられる。これが「トランプ現象」やヨーロッパでの移民排斥や民族主義の台頭の背景にあると思われる。
 一方いわゆる「低賃金労働」を売り物にする国(いまでは「経済大国」となった中国よりもミャンマー、マレーシア、インドネシアそしてナイジェリアなどのアフリカ諸国が中心)ではやがて国内での労働者の労働条件改善や賃上げ要求への圧力が高くなり、この不満を抑え「生活水準の差」を維持するために一方で情報管制や反政府運動への取締を厳しくしながら国内では「努力次第でリッチになれる」という思想キャンペーンを行うことでこうした動きに歯止めをかけようとしているようだ。
 つまりいわゆる「経済成長」はその背後に必ずこうした労働者階級の格差拡大や搾取拡大が前提されているのである。
 トランプは国際市場での価格競争に負けて敗退しつつある鉄鋼産業の労働者の雇用を守るという姿勢で鉄鋼製品の関税を高め、結局鉄鋼部品で作られた生活消費財の国内価格を高め、自国の労働者階級の生活費を高めることにつながるような行動を取っている。
  中国も過剰生産となって世界市場で価値より低い価格でも売らねばならなくなった鉄鋼製品などの生産に携わる労働者を守るというスタンスを取りながら、その報復関税で中国労働者階級の生活費が高騰しかねない行動をとっている。
 要は、アメリカ的生活に見られるような高額生活消費財をふんだんに用いた生活文化が世界共通の現象になりつつあるのに、その市場では国際的な「生活水準の差」による労働賃金の格差を利用した価格競争が展開され、それがますます国内での労働者の格差を増大しているということであり、その矛盾が「国家統治者」間での「貿易戦争」あるいは「経済戦争」という形をとって現れているのである。

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2018年3月13日 (火)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(3)

 このような社会形態が現代資本主義体制のもたらした結果であることはいうまでもないが、さらに最後に、この過剰資本の不生産的処理のもう一つの典型としての軍需産業について考えてみよう。

 軍需産業はいうまでもなく、その生産物である武器や兵器は文字通り破壊と殺戮のための道具であり、戦争で大量に消費されるだけで何ら生産的な要素をもっていない。そしてこれらの武器や兵器は、つねに「お国を護るため」と称して大量にしかも「合法的に」生み出されるのである。そして過剰資本が常態化したいまの資本主義経済体制にとってはそれが格好の過剰資本の処理方法なのである。

 こうした武器・兵器などを製造販売するのは現代資本主義社会の巨大産業であるが、かつて東西冷戦を背景にアメリカでは国家予算の1割を超えるほどの軍事予算が組まれ、核戦争に備えた最先端兵器の開発が進められた。そこで核ミサイルや水爆などの技術が開発され、ソ連のそれに並ぶ核兵器とともに一旦戦争ともなれば人類のほとんどすべてが消滅する危機に立たされた。これは一方の資本主義社会にとっては巨大な過剰資本の処理形態であり、国家統制経済下のソ連でも高度な軍事技術産業による経済的効果と労働力の配分先の確保に不可欠となった。

 しかし実際に核戦争を起こすことは両陣営にとっても不利であるため、ありあまるその軍事力は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸・イラク・アフガン戦争などで大量に用いられ、多くのこれらの国々の労働者・農民たちの命はいうまでもなくアメリカの若者達の命をも奪ってきたのである。

 もちろんアメリカでも軍需産業の生み出した新技術がその後、民生機器や生活消費財に応用され次々と新しい家電製品や通信機器などを生み出していくことで、例の「大量消費社会」での過剰資本の処理にも大きく寄与していた。

 その後ソ連が崩壊し、「資本主義の一人勝ち」と言われる状況がやってきて、資本が急速にグローバル化して行った状況で、アメリカの一極集中力が衰え始め世界市場を駆け巡る過剰流動資本が世界中で安い労働力を奪い合うようになった中で、さまざまな形で再びいわゆる先進資本主義諸国で軍事産業に活況を与えることになっていった。

 それは21世紀になって、水面下で進むアメリカ・ロシア・中国・EU・日本などの間で起きつつある巨大資本同士の確執が関係した民族・宗教対立などでの武力衝突が活発になったことが背景にある。こうした民族・宗教紛争は実は世界中で激しくなりつつある労働者への搾取や圧迫に対する闘争の別の形での現れでもある。

 そうした紛争で用いられる武器や兵器は主としてアメリカ、ロシア、フランス、中国、イスラエルなどで作られている。中でもフランスはいまや世界第2位の兵器輸出国である(中国と2位の座を争っているが)。「共和国前進」を舞台に登場したマクロン大統領はかつてのナポレオン閣下よろしく盛大な栄誉礼がお好きであり、表面的にはドイツとともにEUの盟主として「リベラル派」の「顔」のように見えるが、その手はイエメンで殺戮を繰り返すサウジアラビアや、中国との対立やパキスタンとの国境紛争などで戦闘機が必要なインドへの武器輸出で血塗られている。その兵器輸出から上がる収益はフランスの国家財政を大きく潤している。

 またプーチン率いるロシアはかつてのKGBの組織を活用してアメリカの内政に情報戦でちょっかいを出したり、自分の政敵を毒薬で暗殺することを常套手段としているようだが、シリアでいまなお行われているアサドらによる虐殺に武器の売り込みで全面的に支援している。毎日何十人も殺される小さな子供達はその最大の犠牲者である。そしてロシアはそれによって莫大な利益を得ているのである。

 そして中国は独特な一党独裁による国家統制型資本主義体制で急速に成長し、「一帯一路」政策による世界資本への支配権確立が目指され、それを実施するための軍事的防衛線が築かれつつある。いわゆる「海のシルクロード」はインドを取り囲むように設置され、そこに中国の軍事基地が設けられつつある。そこにもインドの軍事力拡大のモチベーションがあるのだ。

 そして日本の安倍政権はこれらをにらみつつ、アメリカを後ろ盾にして自国の軍事力を高めることを画策している。かつての「ものづくり立国」時代の技術がまだ生き残っていれば、やがては日本でも「経済活性化」のためとして軍需産業が復活するだろう、いやもう復活しつつあるかもしれない。

 こうして現代資本主義体制に不可欠となったこの「過剰資本の不生産的処理」は他方で社会全体を支えている労働者階級に莫大な犠牲を強いつつますます拡大しているのである。

以上

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2018年3月 9日 (金)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(2)

 こうして労働者階級の内部は上層と下層に分断され、互いに対立する関係となっていった。上層部の労働者は資本家階級に抱き込まれ、非正規雇用を中心とした下層労働者は連帯の基盤となる組織も思想も失いバラバラに孤立した現代版「ルンプロ」になっていった。

 この労働者階級の分断と「格差拡大」の背景には、労働賃金に上積み(va+vmとして)される資本家の利潤の一部(vm)の必要最低限度の労働賃金部分(va)に対する割合(vm/va)の違いとして現れる。上層部の労働者はこれが高く、下層労働者は低い。

 そして実は上層の労働者にも下層への転落の危機は常にある。それはいわゆる「技術革新」や「流通革命」などによりこれまでの労働内容が不要になることがしばしば生じるからだ。例えば、様々な異なったデータから何か有意な要素や意味を読み取ろうとする高度な情報分析労働は、AI によるデータマイニング技術の発達により駆逐される。また国内の生鮮食品産地からの買い付けを巧みに操作して卸売価格を維持してきた仲買人は格安の外国産食材の大量輸入により職を失う、などなど挙げればきりがないのである。

 こうして下層に突き落とされた労働者はva部分のみの賃金で何とか生活を維持しなくてはならない。そこで100円ショップのような生活資料を格安で販売する資本家が登場する。この百均などで売られる格安商品は当面の役に立つがすぐダメになり廃棄されるようなものが多いが、それを生産する労働者(いわゆる「低賃金国」の労働者が大半である)はさらに低賃金の過酷な労働によって搾取されているのである。

 そして上層の労働者の生活を潤す、高額生活資料や奢侈品は、高級ブランド品や有名デザイナーがデザインした製品や工芸家の作品であったりする。これらの生産物を生み出すためには社会的平均労働時間をはるかに超えた製品、例えば伝統的手作りの製品とか、何ヶ月もかけて制作した作品などもあるが、多くは一般の工業製品と同様な生産方式で作られ、それが「有名ブランド」が付けられることによって驚くほど高価で売れるようになるものが多い、いわゆるブランド商品である。

  例えばグッチやイヴサンローランなどの衣服や装身具がブルガリアなどの低賃金労働者によって作られていることはよく知られている。つまり社会的平均労働量の支出を表す本当の価値は同じでもブランドが付くだけでそれが高価な価値を持ったかのような商品に変貌するのだ。これは価値が市場における需要供給のバランスで決まる価格としてしか表現されない資本主義経済特有の形態であり、「不生産的」領域の典型である。いずれにしても高額な賃金を獲得している労働者はこうした製品を購入するためにvm部分を支出する。そして生活意識の上でも彼らは資本家と区別が付かなくなっていく。

 さらにvm部分は、観光やレジャーなどにも大量に支出される。何十万もする海外旅行や豪華列車ツアーが人気を呼び、豪華ホテルなどでの行き届いたサービスを満喫する。そしてこの分野での「売り上げ」を大きく延ばす。またゲームソフトやアニメなどが一大産業となり、そこには親が比較的裕福な若者達が群がる。しかしまたほとんどvm部分にあずかれない下層労働者も住む家がなく安宿に泊まりながらスマホのゲームなどで孤独な生活に救いを求めることも多い。そうした産業は労働者階級の格差を包み込みながら発展していく「不生産的」分野である。

 しかしこうした「不生産的」産業は前に述べたように社会的再生産における「奢侈品」(IIb部分)として資本家が労働者への不払い労働で獲得した剰余価値(m部分)から支払われた貨幣で買われる商品であり、決してmを超えることのない(m>IIb)存在なのである。それが今日ではただ労働者階級の賃金の一部(vm)という仮の姿を以て労働者の手から支払われるに過ぎないのである。

 そして生活消費財商品以外のすべての労働者階級の日常生活そのものが「商品化」される。例えば、誕生と同時にベビー用品、育児用具やヘルパーさんの仕事が必要となりそれらはすべて商品化される。そして教育にかかる費用も莫大なものになる。将来労働力市場で高く売れる労働力を養うために労働者階級は労働賃金から多くの部分を子どもの教育費に支出しなければならないのだ。これはvm部分が多くない労働者には重くのしかかる。資本主義社会では社会を支える労働力の育成はほとんどすべて労働者個人の負担によってなされるのである。そしてそこにまた「教育産業」という特有の資本形態を生み出し、これが多額の利潤を上げる。

 さらにこうして一人前の労働者になっても、やがて結婚し、新しい生活を営む上で必要な住居が大きな負担となる。これは本来生活必需品として労働賃金のva部分に含まれるべきものであるが、それが驚くほど高額(そもそも人間の作ったものではなく価値のないはずの土地が高額な商品として売買されることがその要因である)で、賃貸住宅にしてもその月々の家賃は重くのしかかるし、持ち家とも成れば、長期ローンを組んで借金として労働賃金の何十年分までもが「先取り」されるのである。そして、この借金をやっと返済し終えたときにはこの労働者は定年を迎え、退職する。つまり生涯掛けて生活必要資料を購入するためにその労働者としての人生を送ったことになるのである。

 そして最後に老後の生活はわずかな年金をもとに残された時間を自分の失ってきた人生を取り戻すことに使われる。だがやがて老化する身体や頭脳は衰え、「要支援」の生活を余儀なくされる。そこに投入されるべき社会保障はもともと彼ら労働者階級が生み出した価値の一部(m 部分として)でありながら、それを十分に使うことさえままならず、政府や支配階級からは「カネを掛けても仕方のない」存在であり「早く逝って欲しい」存在として扱われるのである。

 これがいまの典型的な労働者階級の人生であり、それがまさに「賃金奴隷」であるということの証明である。

(続く)

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2018年3月 8日 (木)

過剰資本の「不生産的処理」で維持される資本主義体制のもたらす諸結果(1)

 前回まで4回に渡る連載投稿「過剰資本の不生産的消費に関する考察」で分析した資本主義経済体制がもたらす様々なその現実形態について考えてみよう。

 上記の分析で私はマルクスの社会的総生産における拡大再生産の条件というある意味で普遍的な観点に基づいて、それが現代の資本主義経済ではどのような形で行われているのかについて考察した。その結果は要約すれば次の様なものである。
 資本主義経済体制は、資本家が私有する生産手段の一部が生産過程で生産物に移転した価値部分(c)と、労働者が賃金と引き替えに資本家に売り渡し彼のための労働で消費する労働力を自ら再生産するために必要な生活資料の価値部分(v)を生み出す労働、およびそれを超えて行われる労働(不払い労働)が生み出し資本家の私的利潤となる価値部分(剰余価値: m)を含む労働が対象化(c+v+m)された商品の販売によって受け取った貨幣によって私的所有財産部分を増やしながら、同時に再び生産手段と労働力を購入することで生産を続け、拡大していくことができる体制になっているという資本主義経済のいわば基本形態が前提である。
 この体制は、しかし市場の流通を通じて資本家同士の「自由」で無政府的競争に勝ちながら利潤を拡大させていく過程で生産の「合理化」や労働時間の延長などによって、どんどん生産力を高めることとなり、やがて資本家の生産手段を生産的に消費できる限界を超えて生み出される過剰資本が蓄積され、これが拡大再生産を阻むことになるのである。
 この矛盾を乗り越えるために今の資本主義体制では、労働賃金部分(va)に資本家の私的利益の一部(vm)をv=va+vmとして忍び込ませ、それが労働者による生活消費財の消費を拡大させ、その回転を速めることで資本家にさらに多くの利潤(m')を獲得させていくという仕組みである。過剰資本をいわば過剰消費(不生産的消費 )によって「有効利用」する処理形態である。
 そこでこうした資本家の「おこぼれ」ともいうべき労働賃金に上乗せされたvm部分を受け取りそれを高額生活資料商品の購入や娯楽、レジャーなどに消費できる労働者階級が登場し、彼らは「豊かな中間層」と呼ばれるようになった。しかしこの「おこぼれ」はもともと決して労働者自身の私的財産として蓄積されるものではなく、絶えずそれを消費に回し資本家の手に大きくなって回収されるために資本家によって前貸しされた部分である。だからもともと「豊かな中間層」の消費生活は資本家の蓄財の手段であり、資本家達とその代表政府は、過剰消費のもたらす環境破壊や資源枯渇などにお構いなく、いつも「消費拡大」を叫び続けるのである。
  そしてあたかも「労働者の生活を豊かにするため」かのように言う賃上げやボーナスは、その前貸し金以上の利潤を資本家達が獲得するための手段に過ぎないのである。
 しかしこの「豊かな中間層」は、「個人の自由」を第一とし、労働者の権利をこうした個人生活の豊かさを保障するために行使することに終始し、あるときは「会社を護るため」資本家達とともに彼の競争相手に勝つために犠牲をいとわない。つまり自ら「支配的イデオロギー」の一環を担う存在になってしまった。
  そして肝心の「賃金奴隷」的存在としての本質から逃れ、自ら社会的生産活動の主体性と主導権を握るための階級的連帯と闘いを放棄してしまったのである。それが労働者階級の中にいわゆる「リベラル派」的な特有の思想状況を生み出した地盤であり、こうした地盤の上に出来たのが「連合」のような労働組合組織である。
 ところがこの資本主義体制は、その必然としてグローバルな資本家同士の競争を激化させ、そこではいわゆる「低賃金国」の労働力を獲得する激烈な競争が展開される。拡大再生産を続けるためには、労働賃金として支払われる労働力の再生産費(v)に対する剰余価値部分(m)の比率(m/v)が高くなる必要があるからである。
  この状況で、「低賃金国」で生産された安い生活資料商品が「先進諸国」に輸入され、それらの国々での生活必需品が一気に値下がりする。いわゆる「価格破壊」が起きる。すると一見、労働賃金が変わらなくても実質「可処分所得」は増える様に見える。したがってその「可処分所得」は高額消費財や娯楽、レジャーなどに回される。こうした「不生産的」産業領域に投資する資本家は莫大な利益を上げ、これらは市場での原理にしたがっていわば資本家階級全体として平均化されて各資本家を潤す。
  その増えた m' 部分は今度は、それでも過剰になる資本を「低賃金国」の労働者が消費する生活資料商品の市場に投資され、そこは低賃金労働の搾取の場であると同時に巨大な生活資料商品市場に変わっていく。その「低賃金国」の支配政権はこれを「経済成長」という。
 そして国内の労働者は「高賃金化」した生産的労働から徐々に排除され、「付加価値」を生み出す不生産的産業に吸収されていく。こうして例えば日本の「ものづくり」産業は衰退していったのだ。そして生産的労働の労働力商品市場では高度な頭脳労働によって労働市場で「高く売れる」労働力を持つ労働者のみが生き残っていく。
 こうして「中間層」の上層部と、そこから排除され下層に落ちていった労働者群の「格差」が増大する。下層に落ちた労働者達はその階級としての拠り所を失い、「ポピュリズム」や過激な思想に押し流されていく。
(続く)

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2018年2月 1日 (木)

「新自由主義経済」崩壊過程の実態(修正版)

 20世紀後半に資本主義経済体制を危機から救ったケインズ型資本主義経済体制は、ある意味で国家が貨幣価値のコントロールという形で資本の流通過程に介入することで、労働者の生活の生活資料消費の拡大という形で過剰資本を処理しつつ、資本の「成長」を維持する体制であったと考えられるが、この体制が当時世界を二分していたいわゆる「社会主義圏」に対抗する意味でも労働者の福祉や失業対策を国家主導で推し進めていくことになった結果、労働者ががんばって働かなくとも生活できるという感覚を持ったとされ、「イギリス病」のような社会的停滞現象が起きたと言われている(これについては社会主義理論研究の大きな課題でもあるがそれはここでは論じないことにする)。

 その反動として「新自由主義」と呼ばれる経済体制を主張する一派が登場し、アダム・スミス流の「レッセ・フェール」の復活を唱えて多くの保守政治家たちから支持された。
 その主張は、国家による経済の管理をできるだけ少なくして、市場の需要・供給関係を基本とした自由市場に任せている方が世の中はうまくいくというものであった。国家機構はそれを支える最小限のものでよい、つまり「小さな政府」論であり、資本家や労働者は個々に自己責任で生きろということだ(しかし現実にいま「小さな政府」を標榜する経済体制でも資本の流通過程を抑える貨幣の流通量を国家がコントロールしないと経済が成り立たなくなっている)。
 そして20世紀末に「社会主義体制」が崩壊した後に、「社会主義圏」の一員であった中国が資本主義経済体制を受け入れて急成長し、世界市場で低価格商品の巨大な供給源となった(いまでは巨大な消費市場となっているが)こともあって、商品市場の価格競争が激化し、21世紀には その主張が支配的となっていった。
  しかしその「新自由主義」経済体制も当然のことながらいま内部崩壊しつつある。確かに外見上では世界経済は前例のないほどの好景気で失業率も減って設備投資も増加しているというが、儲けるための「自由競争」の激化によって「カネがすべて」という感覚が世界中を支配している。そしてそれに比例して自助努力と自己責任という考え方が競争の激化によって人間本来の社会的連帯感や倫理観を失わせ、利己的な「自由」を求めた結果の「成功者」とそれが出来なかった人たちの落差はどんどん増大している。
 一言でいえば、「カネがすべて」という世界は活況を呈しているがそれに比例して人々の「富の格差」は増大し、それに反比例して人々(富裕層も含めて)の内面や実人生はますます貧しくなっている。
 人々はモノを消費あるいは所有することだけが生活の意味であるかの様な感覚を持たされ、どんどん商品を買わせるための宣伝や広告が世の中に渦巻いている。いまや流通部門が経済の支配権を握り、情報流通と物流の世界を握る資本がすべてを支配しているように思える。生産資本はいまや商品の販売を握っている商業資本や流通資本に事実上支配されているように見える。そしてそこには「自助努力」による「自由市場」がもたらす大きな矛盾が渦巻いている。
  例えばフランスの農業生産者の例を見ても、スーパーなどの量販店同士の顧客獲得競争で輸入食料品などによる価格破壊がもたらされ、国内の農業生産者は立ちゆかなくなったため、販売店に対する大規模な抗議運動が展開されている。
  ここでは三つのグループが対峙する。一つは販売店に雇用されている労働者であり、雇用主が儲かれば、賃金も上げてくれるかもしれないという期待から販売会社が顧客獲得競争で勝ち残って欲しいと願う人たちであり、二つ目は販売店に自分たちの作った乳製品などの農産物をその労働に見合った価格で仕入れてもらうことで生活する人たちである。そして三つ目はそこに並ぶ商品を買う人たちで、おそらくどこかの資本家に雇用されその賃金によって生活する人たちである。
  第一のグループは商品をできるだけ多く販売したいと願い、第二のグループは生産物をできるだけ販売店に高く買って欲しいと願い、第三のグループはそれをできるだけ安く買いたいと願う。この互いに矛盾した願望によって動くのが「自由市場」下の需要と供給の関係であり、それぞれが自助努力を重ねてこの矛盾の「妥協点」を探すのである。そうしなければこれらのグループの人々は生活が立ち行かなくなるからだ。
 また生産資本に雇用されている労働者は流通・販売部門から突き上げられる値引きの圧力に耐えながら激しい企業間の競争の中で過酷な労働を続けざるを得なくなっている。生産現場はとっくの昔に労働力の安い国々に移転し、本拠地では企画開発や設計に携わる頭脳労働者たちが主に働いている。彼らはいわば生産資本家の頭脳の一部を担当させられている頭脳労働者である。日本ではこの頭脳労働者達は「高プロ」と呼ばれ、その労働生産性を高めるために「裁量労働制」に基づく成果主義が導入され、「働き方改革」の名の下に残業手当もカットされる。要するに効率よく働けば残業はしなくてよいはずだ、という名目で時間当たりの労働強度を強化しているのである。しかし「高プロ」労働者の意識はその労働内容からして資本家の意図の一部を担っているから、労働者意識はほとんどない。
 そして労働賃金の安い国々で働く生産現場の労働者は、過酷な肉体労働のもとで、当然のこととしてすこしでも楽な生活がしたいので同じ労働でも労働賃金の高い国へと移住を希求する。しかしそういう国へ移住しようとすれば、国境で「カベ」が立ちふさがる。まるで牢獄の様な国の中に閉じ込められた労働者達である。もし首尾よく移住ができたとしても、その国では「オレたちの職を奪うのか!」という叫びの中でその国の民族主義者などに叩かれることになる。国家間でのこうした「同一労働<非>同一賃金」がいまのグローバル資本の成長を助けているのだ。資本には国境はないが労働者は高いカベで囲まれた国境の中に閉じ込められているのである。しかし資本の頭脳の一部を分担する頭脳労働者には当然国境がない。
 こうして「自由な市場」は一方で競争に勝った一握りの資本家たちを超富裕層にし、他方で世界中の労働者達はこうした資本家たちに、労働力を提供させられるために「自助努力」を強いられる存在として生かされているのである。いわゆる「中間層」労働者はモノを消費することで資本を圧迫する過剰資本を処理しながら流通資本に利益をもたらす存在として、また貧困層はいつかは「中間層」の様にモノを消費できる生活ができるという期待を持たされつつ日々資本の鎖につながれた過酷な労働を繰り返しながら、資本のもたらす生産と流通の仕組みの馬鹿げた矛盾の中で互いに対立者として対峙させられる。
  その間もそうした「自由市場」を活性化させるために注がれる膨大な量の貨幣(これは元はといえば労働者が生み出した価値なのだが)を発行するため国家の借金は増え続け、その返済はやがて労働者たちに負い被されることになるのである(一部の経済学者はこれを返済の必要のない借金だというがそんな「借金」があるならそもそも資本主義経済など成り立たつはずもない)。
 さあ、これでも世の中、好景気といって喜んでいられますか?

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2018年1月 4日 (木)

「銃火なき戦争」の場と化した国際経済

 アメリカは「アメリカ・ファースト」を叫び一方で中国を将来の「仮想敵」とみなしながら、他方では互いの貿易における共通利害を求めようとしている。20世紀後半以後の世界資本主義は、経済的互恵関係こそ戦争でではなく平和に国際関係を保っていくベストな方法だと考えるようになってきている。これは一見「正論」のように思えるが、その内実は結局、資本家や投資家が支配し「儲ける」ための取引関係であって、決してそのイメージほど穏やかではない。

  中国とアメリカの関係を見ていても、両者とも相変わらず軍備の拡張を続けている。「戦争抑止力」と称した軍事力を背景とした関係がなければ大国間では経済的互恵関係が現実のものになりえないからだ。
 そしてこの両大国の狭間に置かれた韓国や日本や台湾、フィリピン、そして東南アジア諸国だどでは、両者の軍事的バランスと自国の経済的利害を天秤に掛けて「したたかな」外交戦略を立てねばならなくなる(日本は両大国に匹敵する大国だと思い込みこうした外交を怠っているようだが)。
  こうしてまさに「騙し合い」的な駆け引きが繰り広げられる。この「騙し合い」がうまくいかなくなると途端にキナ臭い戦争への準備が始まる。 それが外交というものだと言ってしまえばそれまでだが、この現実においては決して経済的互恵関係が恒久平和をもたらすことなどないということが分かる。
 そして現代のグローバル資本といわれる国際的な過剰資本の循環による根無し草マネーによる「好景気」もつねにその背後にこのキナ臭い軍事パワーがちらついているのである。
 しかもこの「経済的互恵関係」は互いに勝つか負けるかかの激烈な競争と戦いにおいて成立している。資本主義社会は「自由競争」が原則だからだ。
 この「自由競争」の中では絶えず、さまざまな国の労働者階級が生きるための必要条件から「自由」に、つまりそこから切り離されて競争の敗者によって「ゴミ」として捨てられている。そしてその「ゴミ」が勝者によって生み出された「人手不足」を補うために再利用される。こうしていまは「グローバル根無し草マネー」のおかげで「経済好調」の国では失業率が下がっているのである。
 そこには戦火こそないが、つねにマネーを支配しようとする者たちの競争の道具としてこき使われ、要らなくなれば捨てられ、また拾われるという形で人生を彼らによって完全に振り回され続けている膨大な数の人々が世界中に存在している。そして一兆ことあれば、戦争の準備が始まり、そこに闘う先兵としてこれらの人々が駆り出される。
 それがいまの「経済的互恵関係」をめざす資本主義社会の現実の姿である。

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2017年12月25日 (月)

自由主義という名の独裁体制

 前のブログで書いたオランダのヘルト・ウィルダース率いる「自由党」は党首だけが公認党員であって他は彼の取り巻きに過ぎないようだ。党の中で決めごとがあるときも党首と異なる異見をぶつけても「そんなことはあまり意味がないだろう」と一蹴され無視される。こうして「効率よく」党の方針や政策が決まる。

 彼は「自由」を主張し、EUでは各国の自由が認められないと攻撃する。彼のいう「自由」は異なる意見とのディスカッションの自由ではなく自分の主張を押し通す「自由」なのだろう。その方が黒白がはっきりするし。分かりやすいからだ。
 この風潮はいまのトランプ大統領や安倍首相にもある面で共通しているように思われる。かつて民主党政権は「決められない政権」と言われ、政権の座を降りた。それに代わって登場した安部政権は「決めることができる政権」を看板とする。そして「決めるためには、余計なディスカッションは不要である」と言わんばかりの議会運営である。トランプもしかり。異見を唱える側近はすぐ「クビ」になる。
 この風潮はグローバル資本時代にカリスマ的資本家経営者や投資家が腕を振るうようになったことの影響かもしれない。資本主義社会は「自由主義」を看板とするが、実はこの「自由」は競争に勝つために資本主義的法則(いわゆる市場の法則)にのっとって決断し実行する「自由」であり、それには独裁的経営者が必要なのである。ガタガタいう役員と論争を起こして決断できない経営者はたちまち競争に負けてしまうからだ。そしてこのことが経営陣内部での「忖度」を生み出す。「空気を読め!」という暗黙の了解だ。
 いまの政治もこれとほとんど同じになっている。そこには本当に何が正しいのか長い時間を掛けてでも自由なディスカッションをして物事を決めるという風土はなくなってしまっている。効率重視という名目で異見は抹殺される。トップダウン志向である。
  そういう意味でもはや本来の自由は死んだ。残るは形だけの「自由」である。それは毒にも薬にもならない「自由な意見」であり、人に害を与えないなら何をしてもいい、という程度の「自由」である。今日は平和に見えても明日は何が起きるか分からない。しかし成り行きは「お上」に任せるしかない、というわけだ。だからこの潜在的不安の中で若者達はスマホの中のバーチャルな世界に「自由」を求めるしかなくなっている。
 こうして一見平穏で平和に見える社会だが、その底では当然のことながら矛盾が鬱積し、不満といらだちが渦巻き始める。そしてテロや無差別殺人事件などが起きる。こうした政情で別のカリスマが登場し、この潜在的不安や不満をくみ上げるような主張をすればたちまちこの人物が新カリスマとなっていく。現状ではそれを繰り返していくのではないだろうか?
 われわれはそんな「いやな時代」に生きているのだ。

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