新デザイン論

2019年7月 3日 (水)

日本デザイン学会第66回大会に参加して(修正版)

 6月29-30日に名古屋で開催された表記学会に参加し、久しぶりに研究発表を行ってきた。会場の名古屋市立大学医学部のキャンパスは非常に分かりにくく、しかも会場があちこちに点在しているのでその度に探すのに苦労した。デザインを専門とする学会であればもう少しサインやガイドをしっかりすべきではなかったのか?

それはさておき、学長先生が基調講演に登壇して医療とデザインの関係について講演されたが、その内容は興味深いものであったにも拘わらず会場は閑散としていた。その後、オーガナイズド・セッションで「これからの社会人のデザインの学び」を聴講した。若い人たちがさまざまな形で新た社会人デザイン教育と取り組んでいる報告は私もかつて在職した大学で経験があるため、面白かった。

その夜の懇親会では事前に打ち合わせていた通り、もと京都府立大学のMi先生とお会いして食事をしながらいろいろお話しができた。Mi先生のチームは「遊び仕事」という現在の労働の概念から異なる労働形態を台湾のネイティブの人たちの間で観察し報告されており、私はこの「遊び仕事」という形態は本来人間が共同体を支え合うために行う労働がいまの社会での賃金労働とはまったく違ったものであり、一つの楽しみや生きがいでもあったことの証拠と見ており、大変興味を感じていた。

 翌日は、午前中に私の発表があり、2年前に沖縄で行った幼稚園児を対象とした発想演習授業の内容を紹介した。発表の位置づけがこのセッションのいわば末席あつかいだったので会場は比較的閑散としていたが、旧知の人たちが数人聞きに来てくれて有意義なディスカッションができたと思う。その後この人たちと一緒に昼食を採りに学外へ出て、名古屋名物「味噌煮込みうどん」を食べながらいろいろと続きの話ができたのは私にとって楽しかった。

 午後はオーガナイズド・セッションの「デザイン学とデザイン科学〜その本質〜デザイン科学事典編纂が意味するもの」に参加した。私もこの事典の一部を分担執筆しているのでその背景が知りたかったからだ。

 しかし、正直言って、ちょっと驚いた。というのもこのセッションはK大学のM先生の唱える理論の話ばかりであって、あたかもデザイン科学がこのM先生の唱える理論によって統合されたかの様な印象を与えるプレゼンであったからだ。もともとM先生とは交流があり、「デザイン塾」などにも参加したことがあるので彼の唱える「多空間デザイン理論」のことはよく知っていた。しかし、この理論はもちろん優れた現代デザイン理論の一角を成すことは事実であるが、私から見ればデザインの本質は解明されえていないし、しかもこれを「科学」といえるのかはいささか疑問だった。そこで帰宅してから私は早速、このグループが発刊している「デザイン科学概論」なるデザイン理論の教科書を購入してざっと読んでみた。

 そこでさらに驚いたのは、この本でデザイン論の系譜が海外も含めて概観されているが、その中に吉川弘之氏の「一般設計学」に触れた部分がまったくなかったのである。吉川氏の「一般設計学」は日本のみならずヨーロッパなどでも注目された設計論であって、私自身を含めてこの理論の影響は大きかった。デザイン理論の歴史において無視できない存在であることは設計論関係者には周知の事実である。これではあたかもM先生の理論がデザイン科学の主流であることを最初から前提としたかの様な書き方である。もっとも吉川「一般設計学」もその後、その後継者と称する人々が現れ、まるで吉川氏を「神様」の様に扱う様子は私から見れば研究者としてあるまじき姿であると感じていた。その「後継者」の主張する「デザイン発想過程のシミュレーション」なるものは無関係に見える意味内容の言語をつなぎ合わせてそこの何か別の意味を強制推論させる発散的思考の方法に過ぎず、これはデザイン思考のほんの一部の説明でしかないのだ。これについてある学会で私が「このシミュレーションはデザイン思考過程とは同形ではないのではないか?」と質問したところ、とんでもない筋違いの感情的反応が返ってきて私は当惑したことを覚えている。それ以来、私はこの「後継者」をまともな研究者として見ないようになった。

 吉川氏自身も言っていた様に、「本来の科学は反論可能でなければならない」のだと思う。つまり、科学の進展には、それ以前に受け入れられていた主張がどのような矛盾や問題点を含んでいるかを、論理的に明らかにし(これを正しい意味での「批判」という)、そこからあらたな段階の主張を導き出すということが必要である。それによって以前に受け入れられていた主張の気づかれなかった矛盾が明らかにされ乗り越えられることで理論の真実性は一段階前進する。このようにしてわれわれの研究対象への理解が深まるのだと思う。

 デザイン論あるいは設計論という分野が非常に恣意的になりやすく、客観性に乏しくなりがちなのは、それが対象の法則性を認知し、実験によってその正当性を検証するという自然科学の方法では取り扱えない、すでに吉川氏も述べている様にデザイン学は「歴史の科学」であるといえるであろう。歴史の科学は上述したように論理実証的「批判」を通じてレベルアップされ、それが実際の歴史の中で証明されていくということだ。このことをキモに銘じれば、デザイン論について厳しいディスカッションを通じてレベルアップしていくのがまっとうな研究者のあり方ではないのか?私にはこれまでのさまざまなデザイン論やデザイン方法論の論者たちが互いに批判し合い、自らの理論を高め合っていくことがあまりに少なかった様に思える。むしろすでに権威づけられた理論を引用しながらも、よく見るとそれと同じような内容の主張を少し違った視点から捉えることに過ぎなかったり、反対に重要な理論を無視することで持論を正当化する傾向があるようにも見える。ちなみに私は吉川「一般設計学」にも重大な問題点があることを気づいており、機会があればこれについて論じたいと考えている。

以上

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2019年4月10日 (水)

デザイン × 科学「未来創る異分野タッグ」という記事への疑問

 4月8日の朝日朝刊「科学の扉」欄に表記のようなタイトルがあった。かつて私も大学でデザイン研究者として先端技術の分野の人たちとタッグを組んだ経験があるので気になった。内容は東大生研とロンドンのRoyal College of Artのデザイナーが共同で立ち上げた「デザインラボ」の紹介だ。生産研が持つ最先端の科学技術やアイデアを、デザイナーの発想力を利用して形にし、実用化につなげるというシステムだ。生産研にある機械工学、微細加工、バイオ、コンピュータ工学などの研究室からデザイナーが気になる技術をピックアップし、研究者たちと2〜3ヶ月かけてアイデアを出し合い、数年後の近未来やもっと先の未来に実用化された案をイメージしたプロトタイプを作るということらしい。

 このプロジェクトを主催したY教授の話では「大量生産を前提とした生産技術への反省があり、自動車の量産体制確立における工業デザイナーの登場に象徴される状況が20世紀後半から環境問題を起こし、製品の多機能化が使い勝手を損ねたり障がいのある人に量産品が対応できないなどさまざまな問題を引き起こしている。技術を受け身で使うのではなく、どう使うか、何が必要か、研究のもと上流でデザインが必要という認識が欧米を中心に広がっていった。」そこで芸術系のRCAのデザイナーにはない科学技術系の研究を発想の対象としてぶつけてみようということの様だ。

 まことに結構な考えだと思うが、実はこうした考え方はかなり以前からあったし、現に京都大学でも似たようなデザイン組織が存在する。しかし、基礎研究に力を入れない文科省のもとでは予算の関係で無理があり困難が伴うのが普通であるが、天下の東大と芸術系の世界的有名校RCAが手を組んで立ち上がれば確かに文科省も首を縦に振ることだろう。

 しかしさらに深く考えてみると重大な問題が忘れられていることが分かる。それは、このプロジェクトはいかにも最先端の科学技術研究とデザインの結合であるといえるが、実は日常生活においてさまざまな生活上の問題に遭遇し、それを克服するために頭を絞っている一般庶民からのボトムアップ的発想ではなく、そう言っては失礼かもしれないが、完全にエリートたちによるトップダウンの発想であるということだ。

 もともと本来のデザイン行為というのは日々の生活に必要なモノを生みだそうとする農民や職人たちの中に存在していた。生活に密着したきわめて具体的な「問題」から出発してそれを具体的に解決しなければならない状況から生みだされるアイデアや発想だった。それが結果的にある美しさを持っていた。いわゆる「民芸品」(こういう呼び方は構成の文化人が名付けたのだが)の「用の美」がその典型である。そこでは貴族や武士の様な人々の生活に必要なモノを作る職人も存在した。しかしそれらはすべてアノニマスなものであり、恣意的で売名的なデザインではなかった。

 しかし商品経済が浸透し、生活に必要なモノがすべて商品として作られる世の中になり、そのために適した分業化がモノづくりの世界に浸透して行き、「使う人が作る」のではなく「売るために作る」という生産体制(資本主義的生産体制)が確立していった。その体制の中で、モノは資本家が所有する複雑な機械で大量に生みだされるようになり、それらを「売るために作る」(資本家)側では生産現場で単純作業によりモノを作る人たち(単純労働者)とは別に「設計」とか「デザイン」という頭脳労働に専従する人たちが分業化され、経営者の意図を反映した商品を生みだすための専門職として確立されていった。「デザイナー」という職能は、こうして出来上がってきたのである。

 つまりもともと「使う人が作るモノづくり」においてはつくる人の中で統一されていた目的意識とつくる作業(労働)がそこでは分断され、目的意識は実際につくる人たちの労働から奪われてしまい、それを商品として売る人たち(資本家)の目的意識が「発想」や「作る作業」の在り方を支配し、デザイナーを含めて「つくる人」はその「売る人」の目的意識に添ったモノを生みだすことに専念することになった。つまり本来、生活者が持っていた「デザイン能力」は「売るためにつくる」人たちに奪われてしまい、それをデザイナーという職能が「売るためにつくる人」の側の意図に添ってそれを行うようになったのである。

 だから生活者は、それら「売るためにつくる人」たちが次々と売リ出す「新商品」をどんどん買わされる「消費者」としてしか存在意義を認められなくなってしまったのである。 「近未来を思わせる新製品」とか「ハイテク技術との融合で生まれた未来的新製品」などという宣伝文句に惑わされ、世の中の流行に遅れまいと必要でもないモノを次々買わされ、まだ使えるモノも廃棄していくことが「経済の活性化」になるとされる世の中になってしまったのである。

 この厳然たる事実に対してそれをどう捉えるかが問題であって、いかにエリートたちが頭を絞って考えた「科学技術とデザインの結合」であってもそれが真に生活者の必要から生まれたモノでない限り、「経済成長のため」としてエネルギーの無駄使いや環境破壊につながる大量浪費がもたらす社会問題を根本的に解決することはできないだろうし、本来のボトムアップ・デザインにはなり得ないであろう。

 

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2019年3月 8日 (金)

「新デザイン論」(仮題)執筆中 その3

 このところこのブログへの投稿が滞っていますが、その理由の一つに、これまでも何度か触れましたが、「新デザイン論(仮題)」という本を書いているためです。
 これまで自分が長年にわたって思考を重ねてきたデザインをめぐる諸問題やデザイン理論への批判的考察で、なかなか中身がまとまりませんでした。すでに走り書きノートが十数冊あるのですが、それをどういう構成で全体をまとめ上げ、どのように筋を通すかがなかなか難しいのです。
 このブログでも一度だけその目次を出したことがありますが「目次も長すぎて趣旨がなんだかよく分からなかった」という批評もありましたので、全体として私が何を言いたいのかがより分かりやすくなる様な構成に直しつつあります。
 この本はどこかの出版社から依頼があったというものではなく、あくまでも自分の研究と思考の集大成としての記録を留めておきたいという思いから書いているものです。あと何年正常な頭脳労働が続けられるか分からない私にとってはある意味の「遺書」です。
 全体が「現代デザイン批判」という形になっているので、現在の職能的デザイン教育という視点からはいまの大学などではまずこの内容の本は受け入れられないでしょう。しかし、長い目でみれば、何時か、次世代の社会を考えねばならないときが来たときになって、この本は必ず何かの参考になるはずです。
 あと3ヶ月もすればおおむね内容が固まると思いますので、その段階で出版してくれそうな出版社を探してみようと思っています。

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2018年8月 1日 (水)

デザイン論研究をめぐっていろいろ疲れる今日この頃

 地球温暖化のせいで毎日続くこの異常な暑さで、昼間は外出するのもいやになる。それに加えて、2年ほど前に引き受けたある事典の分担執筆の初稿がいまごろやってきた。1960年代にまだ私が大学院生だったころ勉強したデザイン方法論の論者6人分の項を受けもたされているのでその頃の文献を収集せねばならず大変苦労して書いた原稿だが、査読者からいろいろクレームがついてまたまた原典を一つ一つ当たらねばならなくなった。疲れる!

おかげでせっかく再開始した「新デザイン論(仮題)」の執筆もほとんど進まなくなった。
しかし、いま自分が書いている本の内容と1960-70年当時に研究対象にしていたデザイン論の立場とはなんと違うことか!われながらその間の自分の立場と考えていることの変化と、同時にそれをもたらした時代の変化をひしひしと感じている。
 一方でいまの大学などで研究教育の対象となっているデザイン理論は当時のデザイン論からどれだけ進歩しているのか?正直いって疑問である。というとまるで自分の考えていることがそれよりずっと先を行っているように思われるかもしれないが、そうではなくて、要するにデザインの現実や現状に対するとらえかたの違いなのである。
 デザインを職業としている人々の労働の内容が、いまの資本主義社会特有の分業種の形態であると言うことへの自覚の問題である。いまのデザイン教育やデザイン研究はそれをいわば普遍的なデザインの形態としてとらえているが、私はそれを歴史的な特殊な形態として見ているという違いなのである。
  この40-50年の間、私はこの問題にずっと悩み続けてきた。自分の専門とする領域のもつ致命的問題とその教育を職業としている自分との間のギャップである。たえず2極化した自分の内面に押しつぶされそうになり、ここから逃げてしまおうと考えたこともあったが、なんとか踏みとどまった。そして現役からリタイアして10年やっとそれを1冊の本として出そうという気持ちになっているのである。
 このところ健康診断でさまざまな問題が見つかり健康状態は決して良いとはいえないので、あと何年こうした頭脳労働を続けられるか分からない。それもあってことしはことさら暑さが身にしみる。
 しかもそれだけではない。いまわれわれが置かれている社会の状況は刻々と悪い方向に向かっており、われわれの次世代の人々の生活がどうなっていくのかを考えるとじっとしてはいられなくなる。しかしいまのところどうすればよいのか分からない。こんな歳になってはあまり世の中のためになることはできそうにない。せいぜい自分の考え悩み続けてきたことを1冊の本にして世に問い、いまの若い世代の人たちの考え方や生き方になにかしら参考にでもなればという思いである。
  問題は、この本を出版してくれる会社があるかどうかである。商業ベース主体の現代の出版社はあまり売れそうにない本など出版してくれるかどうか分からない。売れる本しか出版しないいまの社会は事実上言論の自由が奪われているとみるべきかもしれない。

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2018年7月24日 (火)

これまでなかったようなデザイン論を執筆中

 以前このブログ触れたが、私がこれまで半世紀近くにわたって考え続けてきたデザインに関する様々な問題とそれ対する私のスタンスや主張について書く予定で始めた「新デザイン論」はその後も筆者の健康問題などがあって七転八倒の状態で細々と続けられている。

 かみさんに「それって何のためなの?」と言われると「こんなデザイン研究の本はこれまでに絶対なかったし、これが今後のデザインのあり方を示す貴重な資料になりうると確信している」というと「ふーん、なら頑張らなきゃね」と人ごとのようにいう。
 しかもこの本をどこかの出版社が出版してくれるかどうかまったく当てもない。しかし私はこれを死ぬまでに残されたあまり余裕のない時間で書き上げねばならないと本気で思っている。
 書き進めるにつれて、これまでのデザイン関連のさまざまな重要研究の概要や問題点、そしてその背後にある社会的問題という大きなテーマとの関係など、どんどん書かねばならないことが増えていく。その中で、今後のデザイン研究のあり方や社会そのもののあり方についてもポジティブな形で提起していくことの必要性と同時にその困難さ、その果てしなさを日々感じながら仕事を続けている。
 私がこの本の完成を待たずに死ぬようなことがあれば、おそらくは書きかけの原稿はパソコンのHDに入ったままゴミとして捨てられていくであろう。だから単なる電子ファイルだけではなく紙原稿としてもプリントしておく必要があるかとも思っている。しかしそれも紙くず同然に扱われるかもしれない。どなたかこのブログを読んだ奇特な方が救い出してくれることを願うばかりだ。
 ここでその概要を見出し項目(未確定部分を含む)で掲げておこう。これだけでも5頁もあるので以下をダウンロードしてみてほしい。

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2017年9月24日 (日)

沖縄の幼稚園でのデザイン発想授業の報告

 先日沖縄の古くからの友人の誘いで、ある幼稚園で、お絵かき・造形の演習と父母への講演を行ってきた。私は大学生は扱いなれていたが、5歳児は初めてで、この年齢の児童がどのような表現行為をできるのか、またどのように振る舞うのかがまったく分からなかったのであらかじめいろいろな本や資料を集め、幼稚園で造形の担当をしている先生からもアドバイスを頂いた。

 二つの課題を考え、一つ目は5歳児になると発達すると言われている「見立て」能力を生かして、簡単な図形をプリントした用紙を与えて、それが「何に見える?」と聞き、そこで出てきた一人一人別々の言葉をキーにイメージを膨らませてお絵かきをしてもらった。
  二つ目はクラス全体を5人づつのグループに分け、大きなものから小さなものまでいろいろな形の段ボールやガムテープ、毛糸、サインペン、ハサミなどを持ってきて、さまざまな組み合わせで各グループに配布した。そこから「ここにあるものを使って何かおもしろーいものを作ってくれる?」と促した。
 最初の課題は比較的抵抗なくみなクレヨンを動かし始め、見ていると同じ図形からでもそれぞれまったく違うイメージを膨らませていった。最後に「これ何描いたの?」と聴いてその名前を言ってもらった。中には「ミサイル」をいっぱい描いた子もいた。
 次の段ボールなどを使った立体造形の課題は、メンバーどうし話をしながら作っていったグループと、てんでんバラバラにそれぞれが何かを作っていって、最後にそれらをテープでくっつけたり、隣のグループの作品に毛糸で繋げてしまったりする子もいた。最後に「これ何を作ったの?」と各グループの子に聞いたが、すぐ名前がでてきたものとなかなか名前が出てこなかったグループがあった。前者はグループで相談して意見が一致したグループで、後者は一人一人勝手に作り出し、最後にまとめ上げたグループである。しかしそれはそれでまたユニークな作品ができていた。
Okinawa_kid_d_project1
Okinawa_kid_d_project2
 その後は、父母達にこの課題の趣旨、コトバとイメージの結びつきから発想される新しいイメージが「見立て」を可能にさせること。この「見立て」は大人になると形は全く違う対象でもその構造や機能が似ているものを持ってきて「何かに喩える」という類推能力の原型であるといえること。
  「つくりながら考える」という試行錯誤がモノづくりの特徴であり決して最初からつくるモノが見えてはいないこと。児童の認知能力は失敗を繰り返す中で学びながら発達すること。
  人類が進化の過程で身につけてきた「モノづくり」の能力が人間の技術的発想力や表現力やそれを通しての自然の法則性の理解、さらに「モノづくり」で道具を作ることによって獲得した「目的・手段」関係という論理的思考やそれを共同体内で行うことから道具のもつ意味を共有するためのコミュニケーション手段としてコトバを発達させるなど、あらゆる人間特有の能力の源泉になっているという話をした。
 この授業は初めてにしては一応うまくいったと思っている。
  要は、「デザイン発想」の問題を職能の特殊技術としてではなく、誰でもが持っている人間の基本的かつ普遍的能力として捉え直し、それを伸ばすことが必要なのだと思う。この能力なくして「先端的技術イノベーション」などを付け焼き刃しても私たちの次世代社会は健全な姿ではありえないのだと思う。
 最後に私と井上勝雄氏の共著「モノづくりの創造性ー持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」(海文堂、2014)の宣伝をほんの少しばかりさせてもらった。
 翌日遊びに行った比嘉浜の沖にきれいな虹がかかっていた。
Okinawa_1

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2017年7月 6日 (木)

デザイン論における私の基本的主張(その4)

(前回からの続き)

 (7)いまデザイン研究の中で「次世代社会のデザイン」を打ち上げた人たちがいる。しかし、これも結論からいうと、いまの社会システムの中でのデザインのあり方の本質的矛盾を問うことなく行えると考えるのは、あまりにも現実社会を知らなすぎる「インテリ」の思い上がりに過ぎず、単なる妄想であるといってもよいだろう。
 現実社会を見れば、「商品を売るためのデザイン」は実に綿密な「計画的行為」であるが、その一方でそのデザインされた商品が投入される市場はまったく無政府状態の「自由競争」が前提となっている。
 そしてこの無政府的市場競争こそ「自由社会」のキモなのだと主張する人々がこの社会を支配している。つまり資本主義経済社会の「デザイン」は無政府的競争という「アンチ・デザイン(無計画性)」を前提としてるのである。
  彼らは、これに反対し彼らの無政府的競争の中でいつもその犠牲となるのは現実に社会のために働く自分達だと異議申し立てをする労働者や生活者に対して決まってこう言う、「計画経済なんていうものはすでに滅びた社会主義の主張であって、人々の自由を奪う人権無視の管理社会以外の何物でもない」と。
 たしかに20世紀を揺るがしたいわゆる「社会主義国」のあり方はまったくひどいものであったが、それは、例えばマルクスが求めていた「本来の共同社会(Communism)」とはまったくかけ離れたむしろ真逆の社会であったということも事実だ。
 だが、それならばこういうべきであろう。
  ではいまの「自由競争」の社会で、なぜ、一握りの人々が社会的富の大半を自分ものとしてしまい、一方で貧困を世界規模で増大させているのか?
  なぜこれほど地球環境が破壊され気候変動が襲い、資源の枯渇が問題となり、このままでは人類の未来が危ういと分かっているのにそれを誰も止められないのか?
  いまの経済学は、無駄な消費を拡大し環境を悪化させ、そのために限られたエネルギーを無駄に使うことでしか「経済成長」できないというのならそれはまさに「不経済学」ではないのか?
  閉じられた地球環境の中で限られた地球の資源を世界中の人々が計画的に維持し用いることができるように考えるのが本当の経済学ではないのか?
 (8)そして最後にこう言おう。
  デザインはその「広い意味」では計画一般を意味し、その意味で国家の経済政策などもデザインであるといまのデザイン研究者は主張する。そういう意味で「社会のデザイン」を主張するならば、「グローバリズム」と称して世界を支配している政治経済体制は結局次世代の世界を「デザイン」することもできず、ただ一部の人たちの「自由な」利益獲得競争のために、世界中の働く人々を混沌と貧困に陥れているのではないのか?
それはいったい誰のための「デザイン」なのか?
 その「デザイン」の犠牲になる多くの人々の血と汗の結晶を独り占めする人々やその「おこぼれ」を頂戴している人々の生活の「デザイン」を飾り立てているだけなのではないのか?
 もともとデザイン能力とはすべての働く人々や生活者が持っていた能力ではなかったのか?
 その能力をそれらの人々の手から奪い取り、一部の人々の利益獲得競争の道具にしてしまったのはいったい誰なのか?
 われわれが目指す社会は、すべての生活者が自分の生活や人生のデザインを自由に行うことができ、そのことが同時に個々の人々の存在意義を社会全体がその構成要素として認め合うことで、互いに争うことなく、必要なものを必要なだけ生み出すことで成り立つ社会ではなかったのか?
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 さて、最初ちょっとばかり私のデザインに関する主張を記録に留めておこうと思い書き始めたものが、こんなに長い文章になってしまった。
 実はまだまだ言いたいことは山ほどあり、「腹膨るる思い」なのだが、この辺でガス抜きのために一発オナラででもして、止めることにしておこう。「ブーッ!」

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2017年7月 5日 (水)

デザイン論における私の基本的主張(その3)

(前回からの続き)

 (4)ではデザイン行為とは純粋に個人の主体的内面の問題なのか?答えはノーだ。デザイン行為は「人間とは何か?」という問題を含むと同時に諸個人が「諸個人」たる根拠としての共同体つまり社会の問題でもあるのだ。
  それはデザイン行為が同時に人間の表現行為でもあり、そこにはその主体が何を問題として把握し、それをどう解決したかが表現されているからだ。デザインされた結果としての人工物はその意味でデザイン主体の「表現体」であり、この「表現体」を媒介として個人と個人のコミュニケーションが成立し、共同体を形成している。だからデザイン行為は個人の内面の問題であると同時にその個人が構成員である共同体社会におけるその個人の位置と関係を示すものでもあるといえる。それは芸術的表現と同根であるといえる。しかし、より直接「生活」に結びついている。
 しかし、今日の「デザイナー」は資本主義経済体制の中で、その頭脳労働力を「商品」として雇用者に売ることで生活をしている頭脳労働者の一種であるため、自らの意図とは関係なく雇用者やクライアントの意図を代弁する形でしか「デザイン」できない。非常に凝縮していえば、「売るためのモノやコトをデザインする」ために生活の中に「ニーズ」を恣意的に生み出しそれを手段として利用する。それは彼自身の内面の表現でもないし、社会と彼個人のコミュニケーションの媒体でもない。「デザイン」されるモノやコトは最初から彼の外からの「要求」で生み出され、彼の内発的意図の発露ではないし、その結果も社会全体をあるべき方向に持って行くことなく、ただ富裕な個人の美意識を満足させるか、社会的には長期的展望もない無秩序や無駄の再生産しか生み出さない。
 (5)このような「疎外されたデザイン行為」しか行い得ない今日の「デザイナー」の仕事はその美意識においては、この社会を事実上支配する人々、正確に言えば資本家とその追随的支援者(俗に言えば「富裕層」や「中間層」--- デザイナーもここに属すことが多い)の美意識を表現しているが、実際にデザインされたモノを作っている人々(多くは諸外国で低賃金で働く労働者)の美意識は表現していない。いやそうした人々は自らの美意識など持ち得ない状況で生活していると言う方が正しいだろう。
  もちろんこうした美意識の中には20世紀初頭に見られた「ザッハリッヒカイト」の様に普遍性を持った美意識もあるが、それはつねに「商品化」の手段に用いられることで歪められ、単なるスタイルと化し、本来の思想的方向性を失ってきた。
 そして「デザインの創造性」(実はこれが筆者の専門なのであるが)はこうした社会でつねに求められる「目新しい美」や、次々にもたらされる「イノベーション」といわれる技術的「ビジネスチャンス」を商品として実現させるためにデザイナーに要請される能力であるといえるだろう。
  それはこの社会(腐朽段階の末期資本主義社会)では無駄な消費を生み出すに過ぎない「創造性」であるといっても過言ではない。そこから生み出されたモノやコトはほとんどの場合、社会や諸個人がその将来を見据えて本当に求めているものではない。
 本来のデザイン創造性とは、こうした現在の「疎外された創造性」を否定の中から生み出され、「つくる人」と「使う人」が本質的同一性のもとに結びついた社会においてはじめて発揮される能力であるといえる。
 (6)コンピュータが普及しだした頃から、「自動デザイン」は可能か?という問いがあった。筆者もこうした論争に加わったことがあったが、結論から先に言えば、なぜそれが必要なのか?であり、それは資本主義生産様式の中での「生産の合理化」のためにしか意味がない、というものであった。
  これまでに述べたように、デザインとは主体の内面の表現であり、同時に社会における諸個人のコミュニケーション媒体という意義をもっているのであるが、その過程を「自動化」することに何の意味があるのか、ということだ。「芸術の自動化」も同じことがいえる。
 このことは、今日、AI(人工知能)がやがて人類の能力を超えて人類を支配することになるのではないか(シンギュラリティ)と危惧されている問題とある意味で関係する。
  そもそも人間は自分の生物学的肉体の限界を超えるために、その延長として道具をつくってきたのであるが、それが産業資本主義段階では手足の延長としての機械という形をとり、やがて脈管系の延長として電気通信系機器が発展し、最後に頭脳の延長としての人工知能が開発されてきたのである。これらほとんどすべてが資本主義生産様式のもとで急速に発展したため、その社会の基本原理(人間の生み出したモノの抽象化された存在である「資本」がそれを生み出した生身の人間を支配する社会)のもとで本来の道具の地位を逆転させ道具が人間を支配するかたちで「物神化」されていった結果であろうとおもう。
  しかし道具は道具なのであって、要は人間が自ら生み出した道具に支配されているような社会を基本から覆して、本来の形にもっていかねばならないということを意味しているのだと思う。
(次に続く)

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2017年7月 4日 (火)

デザイン論における私の基本的主張(その2)

(前回からの続き)

(3)そしてデザインの概念規定や理論研究に関しての問題であるが、それらの研究を「科学研究」の一環として自然科学などと一緒にとらえるのは間違っていると思う。なぜなら、デザイン行為そのものは科学の対象ではなく、むしろその成果を適用して行われる実践的行為だからである。それはよく言われる様な「科学」と「工学」の違いに似ているとも言えるが、もっと根源的な違いがある。
 「科学」は人類がさまざまな文明を形成しつつその試行錯誤の中で見いだしてきた自然界の法則性への認知の積み重ねであり、それが近代資本主義社会というある意味で「合理的」な社会が登場することによって、その生産過程の中でそれを応用する形で実益を上げることで、「科学」へのモチベーションを一気に高めた結果、科学研究と工学研究という相互刺激的関係を加速し、著しい発展を遂げたのだと思う。
 しかしここでも科学が人間の自然界への認識深化の成果である一方で、工学は生活や社会と直接に関係する実践の立場であって、それが資本主義社会の産物であったとしても、その本質は人間の普遍的行為としての「技術的実践」というものに根拠があるといえるだろう。
 この「技術的実践」は、人類が何かの目的でモノ(人工物)を生み出したときから始まったといえ、その本質は、それまでに知り得た自然界の法則性を、ある目的のために意識的(意図的)に適用することであるといえる。そしてわれわれのいう「本来のデザイン行為」はそうした技術的実践の一つの側面として位置づけられる。
  「技術的実践」はあらゆる人間の意図的行為の中に存在し、ある目的を実現させるためにある自然法則を手段として適用することの中に現れるが、その過程でその自然法則を担っている対象がどのように「手段」として機能し、目的実現を可能にさせるかについて、実際にその行為が行われる前に思考において先行的に想定し、それが実行される以前にそのプロセスや結果をあらかじめ可視化させ把握しておく行為であるといえるだろう。これが「デザイン行為」の原型であるといえる。
 したがって、ここではまずその行為の「意図」として目的意識がどのように形成されてきたのかが重要な問題である。それは最初から明確な形をもって現れるのではなく、最初はきわめてあいまいな「直感」として現れ、その実現方法を繰り返し試行錯誤的に考えながら過去の実例などと比較しつつ明確な解決目標として具体化させていく過程を含んでいる。
 さらに重要なことはこの目的意識の形成過程はそもそも目的意識発生の端緒となった「問題」の発見と把握に掛かっているのである。何かの事実に直面したとき、そこに初めて「問題意識」が発生し、眼前にある客観的事実が自分とその事実の間で発生するある種の齟齬としてつまり「問題」として見えてくるのである。この「問題発見」はその解決に向けた「目的意識」へとポジティブなメタモルフォーゼを遂げていくのであるが、そこにデザイン行為のもっとも重要な「主体性」の問題を含んでいる。
 もう一度現代デザイン論に戻れば、そこではデザイン行為一般は「要求仕様」から出発するとされるが、これは資本主義的職能として登場した「デザイナー」あるいは「エンジニア」の特徴であって、人間が本来持っている能力としてのデザイン行為は、まずそのデザイン行為の目的を主体的に持っていなければならない。そしてその目的はデザイン主体自身が発見した「問題」の解決に向けて形成された目的意識から出発するのである。
 要するに 「何のためにデザインするのか」である。 それは決して自分の外から誰かによって「要求仕様」として押しつけられるものではない。そうであるからこそ、その解決としてのデザイン結果は彼にとって意味があるのであり、本来の意味で彼がその一部を形成している社会全体にとっても意味のあるものになるのである。
 さらにいえば、一般設計学では「機能」に関する定義や記述もあいまいである。しかし、「機能」とはデザイン主体がその目的の実現に向けて「手段」として用いる対象がその「目的・手段」関係の中に置かれることによって初めてその機能を発揮しうる位置を得るのであって、したがってその結果の評価やプロセスについての評価はデザイン主体の意図との関係に掛かっているのである。「機能」は決して客観的に与えられるものではない。それは主観と客観を媒介する存在なのである。
 こうしてデザイン行為そのものに関しては、デザイン主体・設計主体自身の「問題意識」および「目的意識」という主体的内面の問題と切り離すことができないのであり、客観性をモットーとする純粋な「科学」の対象にはなり得ないもの(一般設計学はそのことに気づいておりだから数学的論理という形で設計行為を定義づけている)である思う。だからこそ、それは「デザインする自分とは何か」あるいは「社会と自分とのつながりは何か」という問題をつねに含んでおり、人間論でもあるし、自己の対象化という意味での表現論でもあるといえる。しかし、また脳科学や認知科学などはデザイン行為を「外側から」見るという意味で客観的にとらえることは出来るし、それも必要なことであるといえるだろう。しかしそれだけではデザイン行為の中身は到底とらえきれないのである。
(次回に続く)

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デザイン論における私の基本的主張(その1)

 前々回に第64回デザイン学会研究発表大会に関する感想を述べた私のブログで偉そうなことを書いてしまったのでここで私の主張の核心部分だけ書いておこうと思う。間違っているかもしれないが、そうであれば遠慮なく批判してほしい。批判は「非難」ではなく本来その背後に建設的な意図があるものなのだから。

 (1)まず、「デザイン」という概念が独自に取り上げられ、研究対象になった背景として、近代社会つまり資本主義経済社会が成立していく過程でいわゆる産業革命があり、資本主義経済社会特有の分業形態が登場し、それらが資本主義特有の社会構造を作っていったのであるが、その中で歴史上初めて「設計技術者(エンジニア)」や「デザイナー」と呼ばれる職能が登場し、その職能内容がひとつの概念として扱われるようになったという事実がある。
 つまり「設計」も「デザイン」も資本主義社会特有の概念であるのだが、他方でそれこそ人類が到達した文明社会の到達点であると考える人々は、そこで登場した職能やそれを根拠とした概念を普遍的な形とみなし、そのままその歴史的根拠を人類の文明発生にまで求めようとする。だから、「デザインの歴史は古代文明発生から始まる」とされてしまう。
 ここでは普遍的な人間の行為が歴史的に特殊な形態として現れた現在の「デザイン」をそのまま普遍的な形としてとらえてしまう。例えば資本主義社会に見られるさまざまな分業形態の中に見られる「○○デザイン」という形の共通部分を集めるだけで、それを「デザイン一般」とか「広い意味でのデザイン」として扱い、それをそのまま「デザインのルーツは人類文明の歴史とともに始まった」として過去に投影してしまうため、現在の「デザイン」を歴史を超えた普遍的な形としてとらえてしまうことになり、「本来あるべき姿」を描くことができなくなってしまうのだ。
 人間の認知の順序はむしろ逆であって、現代の「デザイン」の置かれている現実やその概念規定のおかしさに気づき、その背景にある職能における矛盾をあるがままに抽出し、その「否定」の上に「本来あるべきデザイン」とは何なのかを考え、それによって初めて「本来あるべき姿としてのデザイン」を考えることが可能となり、その原型が人類の歴史の中にどのような形(疎外形態)で存在してきたかを見ることができるのだと思う。
 こうした歴史的視点がないと「われわれが求めるデザインの姿」が見えなくなると同時に人類社会の未来への展望も描くことができなくなるのではないだろうか。
 (2)次に、こうしたいまのデザインに対するアプローチの仕方の問題点が、例えばデザインとは何か?といった概念規定への研究にどのような形で現れているかを見てみよう。
 それは基本的には、デザイン行為の一般化としてとらえられる問題(例えば「一般設計学」など)において、デザイン行為の出発点が「要求仕様が与えられる」ことから始まる様に描かれていることである。この「一般化」は、すでに述べた様に、さまざまな職能としての「○○デザイン」の共通点をまとめた「一般化」なのであって、それらに共通する矛盾を否定する立場からの「本来あるべきデザイン」という意味での抽象化ではないのである。眼前の事実への否定的直感を媒介にしていないとこういうことになる。
 例えば、デザイナーが上司あるいはクライアントから要求仕様を受け取り仕事を達成し、出来上がった製品が市場で売られ、それがよく売れて、社会に広く使用されたとしよう。このデザイナーを雇用した企業の経営陣は彼の仕事を高く評価するだろうし、彼はそれによって自分の社会的存在意義を感じるだろう。
  しかし、その製品はそれ以前に同じ会社が売りまくった製品のモデルチェンジであって、その製品がすでに古い仕様であることを気づかせ、買い換への欲求を刺激すべく新たなデザインを出したのであって、これは事実上まだ使える製品を廃棄させる動機を生み出すことになる。これを人は「技術革新」の結果だから仕方ないというかもしれないが、もしそうなら前モデルを責任をもって回収し、そのリサイクルに要する費用までもそれを作った会社が負担するのが本当であろう。それをせず、廃棄物の処理は公共的事業に任せ、「購買者」に新たな負担をさせることでその「技術革新」の結果を売り込むことが社会的に正しいといえるのか?
 さらいえば、そうした本当に社会的な必要性があるかどうか分からないような「技術革新」を結局は「売って利益をあげる」ための手段として用いているという事実に、もしデザイナーが気づいても、これを雇用主やクライアントに申し立てすることなどありえないのだ。なぜなら、デザイナーはそうしたことを行うために登場し雇用されている分業種なのだから、それに意義を申し立てることは自身の存在意義を自ら否定することになるからだ。
 このようにして、デザイナーの仕事は社会全体としてみれば、あまり意味のない社会的需要を「要求仕様」として突きつけられ、そうしたものをつねに生み出し続けることを強いられ、それをデザイナーの「創造性」だとされてしまう。その結果、社会全体として過剰な無駄が生み出され、まだ使えるモノが廃棄され二酸化炭素などの廃棄物が大量に排出され、自然環境が汚染されると同時に限られたエネルギーや資源が枯渇していく。
 このデザイナーという職能というポジションからは「あるべき社会のデザイン」の幻想は生み出し得ても、それを現実に生み出すことなど決してないだろう。
 こうして本来のデザインの概念規定は現在の「デザイン」の否定から出発せざるを得ないのである。
(次に続く)

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