デザイン論的文明批判

2015年9月 3日 (木)

2020東京オリンピックのエンブレム問題をめぐって

 2020年東京オリンピックの公式エンブレムで選定委員会が選んだ案が「パクリ」ではないかと問題になり作者はそれを否定したが、そのついでにそれを町中に展示した際のシュミレーション写真の原画がパクリであることが判明し、作者もこれを認め、すでに選出されたエンブレム案を取り下げた。

 これについてはすでにニュースで大きく取り上げられて、いろいろな人が意見を言っていたが、私は、新国立競技場デザイン公募問題も含めて、現在のデザイン業界とデザインを選定する側の両方に問題があると感じた。
 いまのデザイン事務所は、完全な分業制で作業を手分けして行うことで大量の仕事をこなさなければならなくなっているが、それはまずクライアントからの要求に合いそうなデザイン参考例を探すことから始まる。そこには著作権侵害を防ぐ意味もあるが、よれよりもむしろいわゆるデザイン・ソースの手がかりを探すという意味もある。昔からデザイン・ソース事典のようなものが存在したが、いまではインターネットを通じて膨大な量の画像を検索することができ、それにちょっと手を加えて変形し、それらを組み合わせて全体のデザインを構成することが一般的に行われているようである。部品を組み合わせて全体を作るアセンブリー工業と似た手法である。
こうなるとどこまでがパクリであって、どこからが オリジナルといえるのか、きわめて判断が難しい。
 もともとデザイン行為とは人類のモノづくりとともに人間の普遍的な能力として登場し、だれもが持つ能力なのだが、それが資本主義社会で「商品デザイナー」という一つの分業種として切り離されて自立化すると、注文主の意図に添った結果を生み出すことが仕事になり、そのできによってもらう報酬の額が決まるようになった。プロダクト・デザインなどではそのデザイン商品がどれだけ売れたかが評価の基準となっている(実はこのこと自体もデザイン行為の本質からみればおかしいのだが)が、グラフィック・デザインのような仕事は客観的に評価する基準がないので、そのデザイナーがどのくらい過去の実績があったかによってデザイン料を決めることが多い。こうしてデザイン賞の受賞回数とか大きな公募で入選したとかいうことが判断の基準となる。これによって同じ仕事をしても驚くほどデザイン料が違うのである。
 デザインを選定する側も選定メンバーの多くは、それ以前にすでにある基準で権威づけされ一定のコミュニティーに属するデザイナーたちである。デザインの選考基準を決める客観的な判定基準がないために選定者の「権威」に頼らざるを得ないのだ。
 芸術もデザインもそれが「商品」として扱われる社会では、その「商品価格」は工業生産物とは違いきわめて恣意的に決められる。そして無名のデザイナーがいくら多くの時間をかけて良い作品を生み出してもなかなか認められないことが多い。しかし一旦有名になりさえすれば状況は一変する。そして一度賞を取った人ほどまた別の賞をとるチャンスが多くなる。こうしてそのデザイナーは権威付けされデザイン料も上がる。
 芸術表現やデザイン行為がこのような形でしか社会的に認められない社会は本当はきわめて不幸なことだと思う。もしこれらが他の能力と同様にだれでもができる人間の頭脳労働の一つとして正当に見なされるのであれば、その仕事にかけられた時間がその価値を決める客観的基準となるべきであろう。販売実績やデザイナーの権威とは何ら関係ないはずである。

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2015年1月11日 (日)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その5 エピローグ)

(その4から続く)

 こうして、われわれの生活は「高度消費社会」となり、モノづくりの能力は生活者の手から奪われて行った。そしてその結果、生活者は「消費者」として生きるしか道がなくなったのだ。資本主義社会の成熟過程は、まさに生活者からモノづくりの能力を奪い、それを資本のもとに糾合し、資本が生み出す商品を購買することなしには生活者が生きてゆけない社会を生み出す過程であったと言えるだろう。

 生活者はこうして生活に必要なモノすべてを商品として買わねば生きてゆけなくなり、そのために必要なお金を資本家の経営する企業で働き、賃金として得なければならなくなったのだ。資本はその労働力を商品の生産や「サービス」の実践に必要な労働力として用い、そこから莫大な利益を上げている。だからすべての生活に関わるモノや場は商品化され、生活者の人生はその誕生から成長、成熟、老化、死に至るすべてのライフステージで資本家たちの「ビジネスチャンス」の対象とされてしまった。

 そればかりではない。そのような「高度消費社会」はどんどんモノを買わせ、できるだけ早くそれを捨てさせ、商品販売の回転を上げ、世界中でそのために莫大な資源がつぎ込まれ、その生産に必要なエネルギーが消費され、地球はもはや到底持続可能な状態とは言えなくなっている。それなのに、資本家たちの代表である政府の人々は、「経済成長こそがすべて」と叫び、「国際競争に勝てる創造的人材の育成」などを声高に叫んでいる。

 資本主義社会がグローバル化し、いまや世界中で働く人々は、ほとんどすべてそのために労働力を提供しなかれば生きてゆけなくなっている。そして次々とモノを買わされ、モノたちのあふれる社会の中で、自分が何者であるのかが分からなくなり、モノを買うことだけが生きる喜びのようになってしまっている。モノを買うことができなくなった人々は、そこからドロップアウトし、とても人間の生活とは思えないような過酷な生活に生きねばならなくなっている。かつて、われわれの先祖は、自らの手で自らの生活を築き、それに誇りを持ちながら生きて行けたのに、いまの「豊かな」資本主義社会は、資本が生み出すモノに幻想を乗せ、あたかもそれを買うことが幸せなのだと思わせるような生活を築き上げてしまったのだ。

 そこでは「デザイナー」たちが資本家経営者のブレーンとしての地位を与えられ、そのいつわりの幻想を生み出すことに専念している。そこではつねに「創造性」が強調され、デザイン思考やデザイン創造性がホットな話題となる。

 しかし、それはかつて生活者が持っていた生活における経験と必要があたかも自然に生み出させたような本来の創造性とはまったくことなる恣意的で欺瞞的な創造性である。

 そう、だからここでもう一度しつこくも言おう、モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。

 私は、このような「思い」を長年温めてきた、そしてその思いと考え方をいまやっと一冊の本にまとめることができた。

それが「モノづくりの創造性---持続可能なコンパクト社会の実現に向けて」(海文堂)という本である。

 私の「思い」がどれだけ普遍性のあるものなのか、どれだけ多くの人の共感を得ることができるものなのかは分からない。しかし、それはきっとモノづくりやデザインに関心のある人々にとって一読の価値はあるものと信じている。

以上

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2015年1月10日 (土)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その4 衣・食・住)

(その3からの続き)

 それでは、次に、われわれの生活に絶対必要な「衣食住」について考えてみよう。
「衣」: 昔は木綿の普段着でもすり減って使えなくなると、それをほぐして座布団のパッチや雑巾にした。われわれの生活の中には、モノを大切にし、有効な形に仕立て直しそれを使い切るという習慣があったからだ。それがいつしか日本は衣類や雑貨の輸出国となり、資本家企業の元で大量に衣料がつくられ販売されるようになった。普段着は使い捨てとなり、やがて気がつくとそれらはアジアからの輸入品になっていた。すでに国際市場では労働力の安い国でつくられた衣料が席巻していた。やがて日本ではユニクロのようなある品質とデザインを維持しながら安い衣料をつくるようになったが、その作り手は相変わらずおどろくほど低賃金で働くアジア諸国の労働者であり、われわれの生活に根付いてしまった衣類の使い捨て状態は変わらない。われわれの生活からはもはや裁縫用具やミシンなどというものは姿を消してしまった。
「食」: 食料はわれわれの生活にもっとも必要なモノであり、昔はほとんどが国内で自給自足できていた。その後、主食であるコメは食糧管理制度のもとで長く保護されていたため、国内で生産されていたが、その他の食品は自由化によってどんどん輸入品が増え、穀物メジャーなどの市場支配によって国内での生産は圧迫された。やがて食生活の変化もあってコメも同じ運命を辿ることになり、ほとんどすべての食材が輸入に頼ることになっていった。さらに大きな変化は、昔は食事は食材を買って自宅で料理するのが普通だったが、いまでは出来合いの食事をコンビニやスーパーで買ってきて電子レジで「チン」して作るか、手のかかる食事は外食で済ます家庭が圧倒的に多くなった。その背景は主婦が家計を支えるために働きに出て食事を作る時間がなくなったことなどがある。ここでも生活者は「つくり手」の立場を追われたのである。
 そして加工食品産業や外食産業が輸入食材に頼る現実がある一方で、国内で生産される野菜や魚は高価な食品となり、富裕層の食生活を彩ることになった。そのため国内の生産者は「高くても売れる付加価値商品」の生産に走ることになっていった。最近では、海外の食品企業での安全性が問題となって、国内産の食品が市場で増えたが、しかしそれは貧困層が毎日摂るにはあまりに高すぎる食材である。そして皮肉なことに、富裕層の人々はリタイアすると田舎に別宅を持ち、そこで畑仕事をしながら野菜を作って食べることを好んでやるのである。
「住」: 昔はそれぞれの家が、施主が、大工や建具屋へ直接相談し、両者の交渉でデザインが決まって建てられていたが、いまは、ハウスメーカーという大企業が、あらかじめ住宅建材を量産し、設計エンジニアが注文に応じてそれを用いたいろいろな設計サンプルから選択肢を組み合わせて施主の要求に応じる形で建てられている。だから一目見ただけで、どこのハウスメーカーの「製品」であるかが分かる。地代が途方もなく高い日本では、狭い土地一杯に家が建てられ、生け垣で囲まれた古い美しいお屋敷が相続などで売り払われると、その後にたちまち小さな箱のようなよく似たデザインの量産住宅が建ち並ぶ。生活者にとって高くつく特注の住宅を建てることは事実上できなくなっている。だからこれで我慢するしかないのだ。それでも自分の家を持てるだけでも恵まれた方である。多くは賃貸住宅で生活せざるを得ないのだから。
 インテリアはどうか?せめてインテリアだけは施主の好みを直接反映したいという望みはあるが、これも出来合いのサンプルから選択するしかない。イケアのようなこじゃれたデザインで安い家具などもあるが、これはヨーロッパなどの若いデザイナーがデザインし、アジアやアフリカの驚くほどの低賃金で過酷な労働によってつくられている。そして多くの場合すぐに壊れるのである。つまりこれらも使い捨てという方針でつくられている。そうしないと商品の回転率が下がり、儲けを維持できなくなるからだ。
一方では、冷蔵庫、電子レンジ、TV、スマホ、パソコンなどが生活必需品化し、賃金の大部分はこうした生活用具や通信費、光熱費、そして法外に高い住居費に費やされる。
 こうしてわれわれの生活必需品はすべてが資本のもとでデザインされ、その多くは過酷な低賃金労働でつくられた輸入品として市場にやってくる。それは「ひゃっきん」という100円均一ショップの存在も可能にした。だから安くて使い捨てのモノを買って生活すれば何とか生きては行ける。その結果、日本の労働者も賃金が安く抑えられることになるのだ。
 労働賃金とは、資本家や富裕層がかせぐ「所得」などと同じではなく、資本家が雇用する労働者の労働力の再生産のために最低限必要な費用なのだから。そしてこの労働力の再生産費として受け取った賃金をわれわれは生活のために、海外の労働者たちがつくった生活資料商品を買うために支払わねばならず、その貨幣は巡り巡ってふたたび労働者を雇用して商品をつくらせている資本家の手に「所得」として戻すことになるのだ。
これが資本主義生産様式の社会におけるモノづくりの姿である。
(次回に続く)

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モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その3 ソフトとネットの世界)

(その2からの続き)

 かつて、ホーム・コンピュータの目指した世界では、誰でも簡単に自分が欲しい機能を持つソフトウエアを作れる、という目標があった。Appleは最初、AppleSoftという名前のBASIC言語をApple IIに内蔵させることで、これを果たそうとした。やがてコンピュータのハード的レベルが上がり、それに対応してシステムやアプリの世界もレベルが上がったため、コンピュータ言語の世界も変化し、Macintoshには HyperCardというカード型データベース兼イベント処理型のソフトとその世界でアプリを自由に作れる言語(HyperTalk)が内蔵されるようになった。
 私はこのHyperTalkでいくつものスタック(HyperCardの世界で使うアプリをこう呼んでいた)をつくって楽しんだ。そこにはホーム・コンピュータの目指す、ユーザがアプリを自作する喜びの世界があった。
 しかし、やがてアプリをつくることは専門家の仕事になり、ホーム・コンピュータは「パソコン」として単にアプリを買って使うためのマシンとなってしまった。やがて、インターネットの普及によってパソコンは学生を始め、生活者の必需品とされるようになり、生活者はそれに高いソフトを買ってインストールして使うことを余儀なくされていったのである。ここで当初の「21世紀の知的自転車」という理想は崩れ去り、やがて生活者は稼いだ賃金の大半をパソコンやスマホの購入、そのアプリの購入、そしてインターネットの通信費などに支払わねばならなくなり、再びそれらを浪費する「消費者」に貶められてしまう道を歩むことになって行ったのである。
 インターネットというボトムアップ的ネットワークが世界規模で広まっていったときにチャンスはあった。それを世界中の生活者のイニシアチブの元に置くことができれば、ソフト的世界は、グーグルやマイクロソフト、アップルなどの巨大資本に牛耳られることのない自由な世界が切り拓かれる可能性があった。しかし、残念ながら生活者に組織はなく、世界中の生活者が連携する組織的基盤がなかったため、巨大な資本にバックアップされた強力な企業組織の前にその可能性はもぎ取られてしまったのだ。
 同様なことは電子出版の世界にもあった。紙の書籍の出版は出版業界という世界が牛耳っているが、それに対して、電子出版技術が進み、誰でも自由にインターネット上で出版ができる電子出版の時代がやってくるという期待があった。しかし、これもいまでは「ブログ」や「ツイッター」などという形でしか行えない。電子出版の世界では相変わらず「著作権」や「知的所有権」という形で大手出版業界がイニシアチブを握っており、生活者の自由な出版活動は押さえつけられてしまった。
 こうしてソフトの世界でも生活者は「つくるよろこび」や「生み出すよろこび」を奪い取られてしまったのである。
 一方、こうした巨大企業によるネット社会支配への反抗として「アノニマス」のようなハッカー集団が登場した。しかし、他方でそうしたパワーは、「サイバー戦争」に見られるような国家によるネットワーク支配体制に吸収されつつあるか、あるいはテロ集団化への危険な道を歩んでいるようにも見える。
 こうした世界の流れの中で生活者は翻弄され、稼いだ賃金をどんどん使わせるために資本のもとでモノがつくられ、生活者は、どこかの企業が激烈な市場競争の元で生み出した「スマホ」の新製品を競って買い、それによってこれもどこかの企業が少ない元手で多額の利益を得ようとして生み出したアプリ製品を買い、通信会社に高い通信費を払って、日がな一日、スマホの世界に入り浸らせられてしまっている。そしていつのまにか、そのコントロールされたネット世界から与えられた麻薬のような情報群に犯され、従順な「消費者」として何の疑問も感じなくさせられ、選挙があれば、それらの世界を牛耳っている巨大資本の頂点に立って、「経済成長(実は資本の成長のことである)こそわがすべて」などと叫んでいる権力者たちを選出してしまう。なんと惨めなことか!
そう、だからこそ、またまた言おう。モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。
(次回に続く)

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2015年1月 9日 (金)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その2 Appleのケース)

 (その1からの続き)

しかし、いまの資本主義社会でのモノづくりは、こうした生産手段を占有する企業を経営する人々が支配権を握っているのではなく、そうした企業に資金を提供している人々、つまりその企業に融資している金融機関、その企業の株を買った投資家や株主などによって支配されている。生産企業の経営者は「機能資本家」としてそうした本来の資本家たちに支配され、その資本の増殖の機能を果たしているにすぎない。

 こうしてモノづくりは投資や蓄財の手段とされ、社会にとって必要な物資はすべてこのような仕組みの中でつくり出されている。
 資金は持っていないが、意欲と能力の高い若者達が新しくモノづくりの企業を立ち上げようとする場合、まずその起業の主旨をアピールし、資金を集める。そしてその資金で生産手段を購入し、そこに労働者を雇用してモノづくりを始める。いまや世界一の「企業価値」と言われるようになったアメリカのアップル社もこうして起業した。
  私は1980年代の初め頃からこの会社に注目していた。起業者のジョブスは天才的エンジニアであるウオズ二アックと組んで会社を興し、ガレージの中に作ったコンピュータ製造工場を立ち上げた。当時はコンピュータがIBMなどによる大規模なシステムとして構築されたものしかなく、それに対して「21世紀の知的自転車」として誰でも気軽に使えるホーム・コンピュータの実現を目指して出発した。私は このコンセプトはひとつの革命をもたらすだろうと予測していた。そしてApple IIを世に出し、やがてLisaを出して失敗し、その廉価版であるMacintoshを世に出すことで、この革命を現実のものとした。
 しかし、ジョブスは製品開発に集中すべく、企業経営の専門家を呼び込んだ。コカコーラ社のジョン・スカリーである。スカリーは投資家や株主の要望に応えるため「売るためにつくる」ことに徹しようとした。そしてその結果、彼と対立を深めたジョブスはアップル社をやめ、スカリーの経営方針で他の競争会社との「差別化」が曖昧となったアップル社の経営は危機に立たされた。
 その後、一時Next社やPixar社を立ち上げたジョブスが再びアップルに戻ってきたが、それ以後のジョブスはもはや以前の彼ではなかった。自身のカリスマ性を全面に出した経営で、企業イメージを高め、質の高いデザインによって製品を「付加価値商品」として売りまくることになったのである。そこに投資家が目を付けないわけがない。株価はどんどん上がり、ついに「世界一の企業価値」(企業価値とは投資家達が企業をひとつの商品のように売買の対象にする場合のとらえ方である)をもつ会社といわれるようになってしまい、完全に投資家や株主に支配された企業となってしまったのだ。いまやアップル社は、デザインや製品企画はシリコンバレーの本社で行うが、アジアやラテンアメリカの「途上国」での大量の低賃金労働によるモノづくりによって成り立っている。
 このアップル社の成長過程は現代のモノづくりのひとつの典型であると私は考えている。
 つまり、いまの資本主義社会では、だれでも能力のある者は起業することができ、それが成功すればだれでもその能力によってリッチな生活ができるようになる、というのが若者向けの「売り文句」となっているが、自分のやりたいことを社会に役立てようとすれば、どこかで必ずそれが資本のターゲットとなり、巨大な資本家たちの欲望の波に呑み込まれることになり、やがて、自分は「機能資本家」として多くの低賃金労働を搾取しながらそこから吸い上げた莫大な価値を巨大資本に捧げながら生きる位置に置かれていることに気付くことになるのである。もちろん気付くこともなく新興富裕層の一員となったことに満足している機能資本家がほとんどであろうが。
 こうして意欲ある若者の能力はことごとく資本に支配され、その機能となりモノづくりは資本のもとで「売るために」行われるようになる。そして生活者は資本家企業に雇用され賃金をもらい、そのお金で資本家企業が作ったモノを買うだけ(正確には「買い戻すだけ」)の「消費者」となる。
そう、だからこそ、ここでもう一度言おう。モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!と。
(以下次回に続く)

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2015年1月 8日 (木)

モノづくりの創造性を生活者の手に取り戻そう!(その1 プロローグ)

最近、「モノづくりの創造性」という本を海文堂から出版したので、それに関連して、モノづくりという視点から現代社会の矛盾を採り上げてみようと思う。

 ここでいうカタカナ書きの「モノ」は人工物、つまり人間が何らかの意図によって自ら生み出したものを指す。そこにはいわゆるハードウエアもソフトウエアも含まれる。
 「モノづくりの創造性」にも書いたように、人類は、自らの手でモノをつくり出すようになって初めて類人猿からヒトつまりホモサピエンスになったと考えられる。その過程は数十万年という時間を要したと考えられ、それは百数十億年の自然史の中では一瞬のできごとであったかもしれないが、人類の歴史においては長い長い時間を要したともいえる。
  ヒトは何かの目的でモノをつくる。ただ何となく出来てしまったモノであっても、その「何となく」は何かがしたかったか、何かがほしかったからであろう。出来てしまった結果からその「何か」に込められた意図が何であったのかを自分であらためて知ることもあるかもしれない。しかし、これらはすべて大きな意味での「意図」にもとづく行為であるといえるだろう。
  こうした「意図」とは、一方で「自分」というものが自覚され、他方で自分の外側の世界を「対象あるいは他者」として認識するようになって初めて、両者の間で生じるある種の対立や緊張関係のもとで表れる内面的状態であるといえるだろう。この対立あるいは緊張関係を解消すべく行う行為は、人間の「実践」の土台であるが、実践はそれを成し遂げるためには、ある種の方略や方法が要求される。
 そしてその方略や方法が「手段」として認識されるようになり、実践の求める結果が人体の物理的・生理的制約を超えた状況を求めるようになると、そこに、ある対象を自分の身体的能力の延長として用いようとする意図が現れる。こうして人類は、手段あるいは道具を用いて目的を達成する、「目的・手段関係」という実践の基本的パタンを確立したと考えられる。
 しかし、たまたま近くにあった自然物を目的達成の手段にするということは、偶然に支配された状態であり、それをより確実にするためには、手段や道具を自分自身の手でつくり出すことが必要である。そこに人工物つまりモノが登場する。
 こうして、モノはヒトが自分とその外部世界との間に生じるある種の対立や緊張関係をひとつの「問題状況」として認識し、それを解決する手段として自らの手でモノをつくり出すようになったのである。だからモノにはそれをつくったヒトの意図が反映されている。そしてそれが本当に目的達成に役立ったかどうかという判断が成功あるいは失敗として認識されることになるのである。ここにモノづくりの原型があるといえるのだ。
  しかし、いまわれわれの住む現代の資本主義社会では、このモノづくり行為が分裂し、逆立ちしてしまっている。つまり、生活に必要なモノはすべて「生産者」と呼ばれる人々によってつくられ、生活者はそれを買うことによって取得し、消費できるようになる。
  「生活者」は、実は何らかのかたちで社会に必要な労働を行っている人々であり、その中には直接に生活物資を生産している労働者も数多くいる。ところが彼らは、生活の場面においては「消費者」と呼ばれているのである。
 そう、われわれの社会で日々生活に必要なモノを作っている人々は、実際には生産者なのに、「消費者」と呼ばれている。なぜなのか? それは生産に必要な手段つまり生産設備や原材料などを最初から占有している人たちがおり、その人たちが、生産に必要な労働者を「労働力」として雇用し、生活物資を作らせているからなのだ。しかも生産に必要な労働の過程はズタズタに分割され、モノの設計や企画を行う頭脳労働者がおり、その人たちが作った図面や企画書によってモノを実際につくる現場の労働者がおり、それを市場に運び分配する物流関係の労働者がおり、それを店に並べて売る人々がおり、...という具合である。
 また生産手段を占有する側の機能もいくつにも分かれ、設備導入を実行する人々、原材料の入荷を管理する人々、企業全体のお金やモノやヒトの管理をする人々...などなどであり、これらもある種の「頭脳労働者」として機能している。
そしてそれらすべての労働を支配する人々が企業の経営を考え、運営資金を集め、いかに利益を上げるかという立場から、そこで労働をしている人々に指示を与えている。このような人たちが「生産者」(正確には機能資本家)と呼ばれているのだ。
 なぜこんな風にしてモノが作られるようになったのか? それはひとことで言えば、すべてのモノが「売るため」につくられ、そしてそれによって利益をあげることが目的となり、モノに込められた「必要」や機能は、そのための手段と化してしまっているからなのである。本来のモノづくりにおける目的と手段が逆転しているのだ。
モノはいかに売れるようにつくるか、いかに市場での競争に勝つために安く作るか、こうした意図がすべてのモノづくりを支配しており、モノが生み出され販売されるまでのすべてのプロセスがその目的のために極度に「合理化」される。そして実際にモノづくりをしている人々も含めてわれわれ生活者は、「生産者」の利益獲得に必要な商品の購買者として、つまり「消費者」として(正確には購買は消費ではない)のみ存在意義があるかのようにされてしまっている。これがわれわれの住む資本主義経済社会でのモノづくりなのである。
(以下次回に続く)

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2008年9月 3日 (水)

全体という「ワールド」

 私の夢の中で21世紀のツアラトゥストラはかく語った。

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「私にとってあなたがすべてです。」という場合、ここでいう「すべて」は目の前にある「あなた」という人間を指すのであり、一個の具体的存在である。しかし「宇宙全体」というような場合は、だれも見たことのない想像の世界で形成される抽象的「全体」であり、具体的ではない。社会全体とか世界全体という場合も抽象的であるが、これは具体的な個々の存在の連続的延長としてとらえられる。しかしどちらにせよ、「全体」とは客観的存在、つまり人間が存在しようがしまいがそこにあるものではなく、人間の意識の中で形成され規定される「存在」なのだ。一人一人の意識の中でその個人の内的世界としての「全体」がある。この諸個人の内的全体を「ワールド」といえば、ワールドは諸個人が依ってたつ物質的存在やそれらが具体的な生活の営みを可能にさせる諸条件の上に成り立つのであって、同じ時代同じ時間を生きる諸個人はその物質的諸条件が共通であるがためにある特定の世界観としてそれを共有することができるのである。

 しかしこの「ワールド」は一つの枠組みを形成し、しかもその内部に生きる諸個人のほとんどが、このワールドを枠組みとして意識することはない。それは「当たり前の世界」だからである。いわゆる常識的世界や社会常識もこれに当たる。その内部に存在する人々はそれが枠組みであることすら意識しない。しかし、時代は決して同じ場所に留まってはおらず、少しずつ動いて行く。それが歴史である。

 われわれは常に少しずつ動いている歴史的「現在」に生きている。そこではやがて「ワールド」がわれわれの実存との間で「きしみ」を生じ始め、人々はそれをさまざまな場所においてさまざまな形で齟齬を知覚し始める。やがて「ワールド」が枠組みとして意識されるようになるが、人々は「きしみ」をその枠組みの中に押し込めて理解しようとする。それらの人々はいわゆる「保守派」を形成する。

 やがてそれも失敗に終わるとき、人々は不安とおそれの中でそれがいままでに経験したことがない事態であることを感じ取り始める。その「きしみ」はすでにその経験したことのない事態への対処手段を準備しているはずである。しかしそれが手段たり得るのは、それに気づく人が登場するのでなければあり得ない。確実なのは多くの人々にとって「超えねばならない対象」としての枠組が見えてくることである。それはすでに「当たり前」ではなくなり、束縛として対峙する存在となる。

 束縛としての枠組みから解放されるために、さまざまな試行錯誤が行われるだろう。その大半は失敗し、そのうちのいくつかは潜在する手段に気づき、それを積極的に利用しようとするがそれも必ずしも成功するとは限らない。まるでこれまでに歴史を築いてきた人々の努力が無に帰すように見えることもあるが、失敗がなければ成功への気づきはあり得ない。すべての失敗が一つの成功に繋がる。意図さえ見えていれば失敗は必然的回り道である。

 だからわれわれは目前の事実に敏感でなければならないし、今日の生活が明日も続くと思わない方が良い。ワールドという全体がさらにそれより大きな全体に進むためにひとつの壁にしか過ぎなくなっていることに気づくとき、それを超えた大きな世界へ向かう手段を見つけ出すという創造的な方向に一歩踏み出すことができるはずではないのか?そうすれば壁は意外にもろく、やがて音を立てて崩れ去ることになるだろう。

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 ここで私は目が覚めた。再来したツアラトゥストラはどうやら前世紀の始め、ニーチェとともに現れたときに読み忘れたマルクスの共産党宣言を最近になってようやく読んだらしい形跡がある。ツアラトゥストラの不勉強ぶりもさることながら、こうして彼の語りの中にマルクスのガイストが見え隠れするということは今日の「ワールド」がいまだ当時の枠組みを超えきっていないということなのか?

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2008年6月22日 (日)

17世紀芸術考

 ニューヨークでは最初グッゲンハイム美術館をまだ見ていなかったので有名な建物だけでも見たいと思って娘と一緒に行ってみたところ、何と補修工事中で建物の外観は見ることができず、しかもなぜか切符売り場は長蛇の列である。そこでここはとりあえず止めにして近くのセントラルパークをちょっと垣間みてからメトロポリタン美術館に行ってみた。しかしこの広大で雑踏のように人が多い美術館を全館見て回るのは無理なので、17世紀の美術に的を絞って見ることにした。中学高校生位の若者が団体で来ており、館内はにぎやかだったが有名なレンブラントやフェルメールなどの絵の前が特に混雑しているというわけでもなかった。

 私はレンブラントの肖像画をいくつか見た。期待通り彼の自画像を含め、暗い背景の中で上方から差し込むいわゆるレンブラント光線の中に浮かび上がる肖像の深い内面表現に打たれた。そしてオランダ人ではないがジョルジュ・ラトゥールのマグダラのマリアにも逢えた。このときは時間的制約がありあまりゆっくり見ていられなかったので、このときの思いを胸の中にしまっておいて、後日それを思い出しながら書いている。

 ラトゥールのマグダラのマリアにはすでに日本で逢っている。たしか2006年だと思ったがラトゥール展が東京であったときに見に行って、大変心を打たれたので、その複製を買ってきていまでも書斎の壁に掛けてある。私はこの展覧会でラトゥールという人物に捉えられてしまった。キリストの教えによってそれまでの奔放な生き方を悔い改めるマグダラのマリアの心情を、蝋燭の炎にすかしだされる書物のページと顔と裸の体を長い髪の毛で半ば隠したマリアがじっとどくろを見つめる情景の中で描き出している作品や、幼いイエスが父ヨゼフの仕事をそばで見ていて、ヨゼフに何か語りかけた瞬間を描いている作品が特に印象に残った。イエスのかわいらしい純粋な目と、職人であるヨゼフの鋭いが優しい視線がぶつかり合う瞬間が実に見事に描かれていた。ラトゥールはその暗い背景の中に蝋燭のほの赤く柔らかい光の中で浮かび上がる表情や物体の表現を通じてそこに描かれている人間の内面を心憎いまでに描ききっている。

 レンブラントの肖像がもつ人間の内面表現の深さやラトゥールの光と陰による人間の内面表現の訴える強さが、なぜ17世紀という時代に現れ得たのだろうか?音楽の世界においてもJ.セバスチャン・バッハのように深い内面表現が主調になった作品はこの世紀の特徴であるように思う。

 それはちょうど西ヨーロッパで産業革命期が始まる少し前の時期であり、一方では華やかだったルネッサンス時代が終焉し、宗教改革の嵐が吹き荒れ、宗教改革によってキリスト教観も変化を来たし、一方でヨーロッパ諸国の海外進出と植民地開拓が盛んになりだし西ヨーロッパが古い中世社会から近代の資本主義的商品経済社会に移り変わる時期であった。おそらくこの時代の心ある人々の実存はキリスト教的倫理観と商品経済社会への世俗的関心とが入り交じり複雑に揺れ動いていたのではないかと推察できる。「古い封建的社会から解放されて市民的自由を謳歌し始めた」などと言ううたい文句は表面的で通俗的な解釈であって、おそらく個人個人の内面の世界では心のよりどころとなってきたキリスト教的世界観・倫理観自体が揺れ動き、世俗的生活面では商品経済社会をベースにした個人主義が実利的な実存を要求してくる中で揺れ動く不安に充ちた状態であったと考えられる。そうした個人の時代的苦悩の内面が芸術家の表現にも反映されているように思える。

 しかし、産業革命以後の近代ヨーロッパではどんどん資本主義的商品経済社会が浸透し、芸術家も作品を商品として考える時代に移って行ったのだと思われる。薄っぺらで内容の薄い芸術作品や建築デザインが主流になる中で再び人々が実存的な危機を迎えるのは産業資本主義時代が行き詰まりを見せ始めた19世紀末〜20世紀初頭になってからのことである。

 17世紀の芸術がなぜいま21世紀の高度技術文明社会に住むわれわれにこうも強く訴えかけるのかは、おそらくもうここでクダクダ述べるまでもないだろう。19世紀末の時代的苦悩はその後2度の世界大戦によって、単なるインテリや上層階級だけの苦悩ではなく、高度に近代文明の進んだ国々の数千万人の労働者や農民達がその生活を奪われ、死地に引っ張りだされるという壊滅的な現実を経て、20世紀の後半以後のモダニズムの世界へと変化してきた。モダニズムの世界は大量消費社会と呼ばれるアメリカのケインズ型資本主義経済を基盤とし、それをグローバル・スタンダード化する形で世界に広まり、デザインやモダンアートという新たな市場を生み出した。そこではつねにそれに反発する動きとして民族主義とか社会主義リアリズムとかポスト・モダンとか脱構築とかいった流れを生み出しながらも総体としては個人が個人であろうとする努力と、それが意に反して商品経済社会の中でつねに均一化されざるを得ないというジレンマの中で苦しむ21世紀的実存がある。だからこそ、かつて実存的な意味での「個人」が登場し始めた17世紀の芸術が、いまわれわれが晒されている実存的苦悩の原点を見せてくれるにではないだろうか?

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2008年6月19日 (木)

NYCモダンアート考

 5月の中旬にアメリカに行くチャンスがあった。一つはオハイオ州デイトンで毎年開催される念願のアマチュア無線コンベンションに参加することであった。これについてはこのブログで書くほどのことでもないので省略する。

 もう一つの目的はニューヨークに住む娘に会いに行くことであった。娘は大学の同級生であるアメリカ人と結婚しニューヨークで夫とアパート暮らしをしている。こう書けば聞こえはいいがあまりリッチでない彼らは郊外の安アパートに大学時代の友人とルームシェをしながら生活しているのである。娘の夫は市内のフォトプロセッシング・スタジオに勤めており無口だがまじめな青年である。そのアパートに私が泊まり込むのだから彼らにとってはあまり大歓迎というわけにはいかないこと位はこちらも承知の上だ。そこで普段ろくなものを食っていないであろう彼らに、私が居る間はレストランで夕食をおごってやろうということにした。彼らにいいレストランを案内してもらい、そこで一緒に夕食を摂った。これはこれで結構楽しかった。最初の晩はペルー料理の店でモヒートというラムベースのリキュールを薦められて飲んでみたら結構行けるのでついついお代わりなどしてしまい、したたかに酔っぱらってしまったりした。それでも3人で120ドルくらいだから思ったほど高くはなかった。

 ニューヨークに居る間、少しモダンアートの作品を見たいと思い、着いた次の日に一人でハドソン川を列車で1時間半ほどさかのぼったBeaconという小さな町にある美術館 DIA Beaconに行ってきた。ちょうどソルウィットのドローイングの作品特集をやっていて、これは面白かった。彼は鉛筆と定規やコンパスによる線書きの可能性をとことん追究しており、その持続力というか集中力というか、とにかく偏執狂的な迫力に圧倒された。しかし、その他の作品、例えば有名なジャッドの木の箱のような作品や別の作家の床にでかい穴を穿った作品などは作家の独りよがり的な感じがしてあまり面白くなかった。

 DIA Beaconで最も感動したものは、実はその外庭から眺めたハドソン川の景色であった。不安定な空模様の中、黒い雲の合間から時折射す日の光に映えて実に静寂で美しい眺めだった。時間とともに微妙に移り変わる自然の風景の方が残念ながらモダンアートの作品よりもはるかに魅力的だった。

 DIA Beaconから帰った翌日ちょうど娘が仕事がなかったのでチェルシー辺りのモダンアート・ギャラリーを案内してもらった。やはり東京銀座あたりのギャラリーとは一味違う印象だったが、やはりモダンアートの世界には本当にピンからキリまであるということを改めて感じた。大半は思わせぶりなポーズを取っていても中身が何もないという代物だったが、中に一つ心を動かされた作品があった。たしかZhang Hwanという名前の中国人作家だと思ったが、倉庫のような大きな天井の高い部屋一杯に一つの物体が置かれていた。それは見上げるような巨大な像であり、全体が本物の何十頭かの牛の皮で覆われていた。それこそ牛の体丸ごとの皮(頭の部分も付いているのがあった)で覆い尽くされたある一人の人物が床に座り込んでいる姿なのである。それは母の像であった。よくみると赤ん坊を背負って疲れ果てた表情で両手をだらりと垂らして力なく床にへたり込んでいる母の像であった。

 私はそのときこの作家がなぜ牛の皮を母の体中にまとわせたのかよく理解できなかった。しかしはぎ取られた皮に残る牛の姿と巨大な母の絶望的な表情が何故か見事に共鳴し合っており、それが不思議な深い感動を私に起こさせたのである。その感動が何なのかよく分からぬままに帰国してしばらくたって、ある夜自宅のベッドで眠れぬままにこの時のことを思い出した。それは皮を剥がれた牛の姿が、人間のために働き詰めに働いて、あげくの果てに皮を剥がれて肉まで食われてしまった牛の悲しい運命が、しかも何百年何千年と続いてきたその悲しい牛たちの運命が、中国の農村の母という姿と共鳴し合っているではないかと思った。

 こう書くと、「それはステレオタイプ化した古い倫理観・価値観のモダンアートへの押しつけだ」と言われるかもしれない。しかし少なくとも、さも何かありそうに見せかけながらその実、下世話な出世欲の発露でしかなかったりする作品よりは、彼の作品は、はるかにストレートな感動を与えてくれた(少なくとも私には)。

 有名になることで作品に破格の値段がつく芸術家の世界は、作品を作り上げるまでに費やされた時間をもとにした本来の価値ではなく、多くの買い手がつくかどうかで付けられる交換価値で作家の価値までもが決まってくる。ブランド商品と同じで商品の使用価値ではなく、ただブランドの人気があるために付けられるいわゆる「付加価格」である。モダンアートの作家達はいかにして自分のブランド価値を高めるかに憂き身を費やしているかのように見える。それもお金を有り余るほど持っている人たちが相手なのである。しかし,その中にも、何かを訴えようとしている魂があることも事実であろう。

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2007年8月21日 (火)

ネットワーク社会について(1)

Web2.0といわれる、双方向ネットワーク社会が急速に社会の形態や生活のあり方を変えつつある。これはまず第一に情報工学的技術の進歩によるものであるとともに、現代資本主義社会のひとつの到達点でもある。その中で特徴ある現象として次のようなことが挙げられる。

 コンピュータの普及と光ファイバーなどネットワーク回線の普及によって各コンピュータが「対等な関係」(必ずしもそうとばかりはいえないかもしれないが)で結ばれ、その上を世界規模で統一されたプロトコルによる情報のやりとりが行われるようになったことがまずあった。しかし、このことは一方で、ネットワーク社会でアピールされたさまざまな個人の見解が、アクセス数を指標にして淘汰され、アクセス数が多い情報源がますます人々の注目を浴びやすくなるという現象を生んだ。その主役が検索エンジンである。アクセス数という「客観的」インデックスによって「自動的」に処理することで、この現象を「つくり出した」のである。そのため、いったんネット社会で名を売れば、あとは「有名人」として注目されるようになり、黙っていてもお金やチャンスがやってくるようになる。そのためにはまずどんな手段を使ってでも注目度を上げねばならない、という考えが当然現れる。

 この現象は「民主主義」という政治形態の特徴をいわば「無機化」して表現したものともいえる。誰でも意見を言えるし自分の主張をアピールすることができる。しかしそれが注目に値するかどうかは「世間の趨勢」が決めるのである。であれば、その「世間の趨勢」はどう決まるのか?ネットワーク社会以前には、それは生身の人間同士の時間をかけたやりとりの総計として行われたが、いまは検索エンジンなどのオンライン上のメカニズムによって瞬時に自動的にこれが行われる。なんというクール(冷たい)な社会であろうか!諸個人それぞれのもつ人間としての「尊厳」はいったいどこに行ってしまったのだろう?民主主義の真骨頂は議論に議論を重ねて結論を導き出すことであって、その過程で諸個人が自分の主張と相手の主張の違いの意味を理解し、ある部分納得できなくとも納得できる部分で合意をしていくというプロセスではなかったか。この時間をかけてディスカッションを行うというプロセスを無視し、人気投票的な見解や、「誰もが認めるであろうからいちいち議論する必要はない」という見解が支配するところからは、いかに恐ろしい結果が生じるかはこれまでの歴史が証明している。そもそも人気投票的な結果は、「かっこいい」とか「実行力がありそうな感じ」といった非常に表面的で感覚的なものの反映であることが多い。そのため、選ばれる側もそのことを意識し、かっこよく、あるいは実行力のありそうなアピアランスを演出する。要するに肝心の中身はどうでもよくなるのである。いまの選挙を想像してみればよい。また「このような方向で結論が出ることは多くの人たちが認めるであろうからそれにたいする議論は必要ない」という考え方も、実は、「世間の趨勢」を見こし、それを前提にして出てくる考え方であって、議論する前から結論が出ているという形である。実はこの考え方は「世の中の趨勢」が持っている間違った方向性への批判を諸個人の考え方の中から汲み上げ、それを議論の俎上にあげてディスカッションし、それを原動力として「世の中の趨勢」を軌道修正しようとするのではなく、「世の中の趨勢」を「権威」として利用し、あらかじめ予定された方向に結果を持っていきたいがために恣意的に諸個人の考え方を無視するものである。政府主催の公聴会や許認可での諮問機関による結論がどのように政府の思い通りになるように恣意的に導かれているかを見れば明らかであろう。これはきわめて危険な傾向である。しかもいわば無法地帯となりがちなネットワーク社会では、正当なディスカッションが保証されず、さまざまな犯罪や悪意に満ちた妨害や脅しの温床になっている。ネットワーク社会が生み出す「水平化」現象は、一見民主主義社会をより推し進めているかに見えるが、実は両刃の剣であって、無自覚のうちに人々に支配的な権威に対する正当な疑問を放棄させ、みなが正しいというものに従って行けばよいという気持ちを植え付けるようになるだろう。そして少数意見に耳を傾けようとすることが少なくなり、社会は大きな本質的矛盾を孕みながらも、それが根本的に克服されることなく、ゆがんだまま、その見かけだけを修正することを繰り返す。現代社会の中にはびこりつつあるこのような傾向はネットワーク社会の持つ無限の可能性を著しくゆがめ、とんでもない方向に導く可能性を孕んでいるといえる。

 そしてその中で、ネット・ビジネスがそのサイトの本来の機能を売り物にするのではなく、それが注目度を上げたり、多くのユーザを獲得することによってそこに広告を載せることが多くの収入を得るための手段になるという現象が現れた。ユーザはたしかに無料で便利な検索サイトが使えるのはうれしいが、実は自分たちがある広告を見せられ、そこに出ている商品に金を払ってくれる対象としてしか意味を持たないということに気づくべきである。無料であることは単に多くの人々の注目を得るための手段なのである。ソフトウエアの開発にかけた膨大な労力と時間がそれに相応しい形で価値を評価されるのではなく、単にユーザを増やすことでそれにともなう広告収入や副次的な利益を得ることが主目的になってしまえば、高い機能を持つが多大な労力のかかるソフトウエアの開発は行われなくなり、その代わりに手っ取り早く金儲けができるビジネスに向かう傾向が増えるであろう。ソフトウエア産業は、労働賃金が安く(つまり生活費が安く)知的水準が高く、そして文句を言わずに長時間労働をしてくれる人々が多く存在する国へと転出していく。その反面いわゆる先進資本主義国では、ブランドや注目度(目新しいデザインやアニメやゲームなどでのおもしろさや奇抜さなども含む)などの「付加価値」による利益や広告料など、本来社会に必要な生産にとっては「どうでもよい」ことが主要な産業になってゆくという傾向が強くなると考えられる。地味ではあるが本来社会にとってなくてはならないもの(ソフトも含む)に対する人々の認識度が低下し、それにともなって、モノづくりの場合と同様にソフトウエア産業も空洞化が進み、有能な人材が育たなくなってゆくのではないだろうか。

 しかし、このような世界的な傾向が顕著になっていくとしても、全世界を結んだネットワーク社会はなくならない。その実体の中からわれわれにとって「確かなもの」を見いだし、それを汲み上げることこそが近未来社会のデザインにとって必須な要件ではないだろうか?

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